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僕は膝から崩れ落ちて両手を床についた。まったく体に力が入らない。ただ息をしてるだけなのに、どうしてこんなに苦しいのだろう?
僕が何をしたというのか? ただ君をもっと幸せにしたかっただけじゃないか。それなのにこんな仕打ちを受けなくてはいけないのか?
「今すぐ萌のもとに戻ってあげて。君がそばにいてあげるべきなのは、昔の元カノのあたしじゃなくて、奥さんとして長年君に尽くしてくれた萌しかいない」
僕が60年前の世界に行って、変わったのはねねちゃんの人生だけではなかった。僕自身の人生も大きく変わってしまったのだと今さらながら気がついた。つまり、その12年後に僕が証券会社に入社して顧客の老夫婦を死なせてしまう、という事件もなくなったのだろう。
それ自体はもちろん悪いことじゃない。ただ、ねねちゃんが心の壊れた僕を見捨てないで励ましてくれて、その結果として僕が深い絶望から立ち直れたという事実までなくなってしまった。
僕に人生を変えられた小学生だった僕は、おそらくいつまでたってもねねちゃんに対して心から感謝する気持ちを持つことができなかったのだろう。
無意識のうちに彼女に対して横柄で無神経な態度を取るようになり、彼女はいつしかそんな僕に愛想を尽かし見放したのだ。
今思えば、僕が60年前の世界を去る前からこうなる予兆はあった。
僕は彼女をねねちゃんと呼んでるのに、10歳の彼はねねと呼び捨てで呼ぶようになっていた。
僕はそれを内心苦々しく思いながらも、たいしたことはあるまいとその重大な変化を見過ごしてしまった。
そうだとすれば、少なくとも70歳までは生きてるはずの僕がすでに死んでいることも説明がつく。萌は自分を責めていたけど、彼女の食事が悪かったせいなんかじゃない。
70歳の僕と出会った10歳の僕はその後の人生でねねちゃんを失うことになって、70歳の僕に合わせる顔がないとずっと思って生きていたに違いない。自殺こそしなかったが、60年前の世界から70歳の僕が戻ってくる前にこの世から消えてしまいたいと願っていて、その悲しい願いが叶っただけのことなのだ――
しばらくして僕は無言で立ち上がり、閉められたドアの方へとぼとぼと進んでいった。ドアノブに手をかけたとき、後ろからねねちゃんの明るい声が追いかけてきた。
「あたしの過去を変えるために寿命を縮める覚悟で60年前の世界に飛んでいってくれたのに、結局創君はあたしを失っただけだった。しかも戻ってきた未来では創君はもう死んでいた。君にはちょっと難しい話かもしれない。でも現実はいつだって理不尽なものなんだよ」
そうだね。こんなに君に嫌われてるのに、僕はまだ君を愛しているしね……。
僕は激しく自責の念に駆られながらも、一方で君が今幸せそうであることで不思議な安堵感に包まれていた。
そう感じたことは口に出さず、一度も振り返ることなく病室を出て、僕はがちゃりとドアを閉めた。
【完】
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