プロローグ 最後の冒険

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プロローグ 最後の冒険

 秋に入院してもう春になった。  君が入院する病院の個室は不自然なくらい真っ白だった。  窓の外には満開の桜の木立。  でも君が来年また桜の花が咲くのを見ることはないだろう。  この病院の患者は余命の少ない人ばかり。  だから治療らしい治療は行われず、医師や看護師の仕事のほとんどは鎮痛剤を投与することである。  僕の最愛の人もこの病院の中ではただの患者の一人にすぎない。  ベッドの柵に〈西浦(にしうら)ねね〉と無機質な文字で書かれた名札がつけられている。  ねねちゃんの前にこのベッドを使っていた人はもう亡くなったと聞いている。  ねねちゃんが亡くなれば、また新しい患者がこのベッドを使うのだろう。  僕たちの子どもたちはとっくに家を出て、それぞれ幸せな家庭を築いている。  君が入院するまで僕たちは新婚時代のように身を寄せ合って二人で暮らしていた。  君は僕と同じで70才。  亡くなるには早いが早すぎるということはない。  亡くなろうとする君自身がその現実を受け入れているのに、君の枕元の椅子に腰掛ける僕はまだ悪い夢を見ているような気分だ。  「痛みはどう?」  「今日はちょっとひどいかな……」  ガンが全身に転移してるのだから痛みがないわけがない。  でも気丈な君はたいてい澄ました顔で大丈夫って答える。  そんな君が痛みで顔を引きつらせている。  確実に最期のときは近づいている。  力なくベッドに横たわる君に僕はなんと声をかけたらいいか分からなかった。  「(そう)君、悲しまないで。寿命だから仕方ないよ。あたしが死んだらほかの人と再婚してもいいからね。あたしは絶対に怒らないから」  寿命だの再婚だのと軽々しく口にしてほしくなかった。  余命のやり取りができるなら、僕の余命を君に全部あげたっていいんだ。  「僕がほかの女の人と再婚すること? ねねちゃんが僕に最後に望むことはそれなのか?」  「どういうこと?」  「このまま君が死ぬのは嫌だ。僕はもっと君を幸せにしたかった……」  「何言ってるの? 創君と結婚してちょうど50年。あたし、ずっと幸せだったよ」  「君がそう言うなら、きっとそうなんだろうけど……」  僕は、結婚して50年間触れずにきた話をあえて口にした。  「僕が君と出会ったのはおたがい10歳、小学5年生のときだったよね。クラスターの件があって僕が君を避けるようになって、再会したのがそれから10年後の20歳のとき。僕がそばにいなかった10年間、ねねちゃんは幸せだった?」  君はあっけに取られた顔になった。しばらくしてこらえ切れず怒りに口をゆがませた。  地震でもないのに壁が揺れだして、壁の素材がパラパラと上から落ちてきた。  言葉で聞くまでもない。  君はきっと生き地獄のような青春時代を生きてきたのだ。  「幸せな気分のまま逝きたかったのに、なんで嫌なことを思い出させるの?」  恨みがましい顔。  でも、だからこそ僕は君に言いたいことがある。  「ねねちゃん、僕の最後の願いを聞いてほしい。自分が死ぬと分かったとき君に告げようと、僕が50年間胸に秘めていたことだ」  「最後の願いっておかしいよ。死ぬのは創君じゃなくてあたしなのに」  「いや。君がその願いを叶えたら、僕の寿命も縮む。もしかしたら君より僕の方が先に死ぬことになるかもしれない」  「馬鹿言わないで。創君の寿命を縮めるような願いをあたしが叶えるわけないでしょ!」  瀕死の君に大声を出させてしまった。  でも僕は引き下がらない。これは嘘でも冗談でもないのだから。  「僕の体を10歳の、君と初めて出会った頃まで飛ばしてほしいんだ」  「そんなこと――」  「できないとは言わせない。君は海の藻屑になれと言って、ひと一人を太平洋の真ん中まで飛ばしたことがある」  「それは……」  「君は念じるだけでいいんだ。僕はあの時代に戻って、君の不幸だった10年間を修正してくる」  君はもう怒っていなかった。  病室の壁ももう揺れていない。  ただ驚いて、僕の次の言葉を待っている。  「そばに僕のいなかった君の10年間を幸せなものに変えて、初めて僕たちの結婚生活は完結するし完成されたものになるんだ」  「もしそれが実現するなら最高だってあたしも思うよ。あたしが見る悪夢はいつだってあの時代を思い出すこと……。でもどうやって君の体を昔に送り出せばいいか分からないよ」  「君が不思議な力を発揮するとき、君は必ず怒っていた。だから怒ればいい。あの10年、嫌なことはいっぱいあったよね。それを思い出せばいい」  「たとえあたしの力で君があの時代に飛んでいけたとしても、君はきっともうこの時代には戻ってこれないんだよ」  「だろうね。だからどっちかが死ぬと分かるときまで、この願いは封印しようと決めていた」  「本気なのね……」  僕は黙ってこくりとうなずいた。  「10歳の僕は君の不思議な力を恐れて、君から離れ君をまた一人ぼっちにしてしまった。僕はそのことをずっと後悔していた。君の10年を修正することは僕の10年を正しくすることでもあるんだ。君との50年の結婚生活の最後だから、僕のわがままを許してほしい」  「創君……」  ねねちゃんは涙を流していた。  しわくちゃになったけど、君は変わらず美しい。  「あの10年間にあった、とても君に話せない嫌なことをあたしは思い出すよ。だから最後にキスして! 君と会えないときはつらかったけど、君と結婚してからあたしは本当に幸せだった」  「だから、その〈つらかった〉時間もなくさなくちゃいけないんだ」  静かに横たわる君に僕はそっと口づけた。  君が目を閉じると、しばらくしてまた壁が揺れだして、壁の素材がパラパラと落ちてきた。  壁の揺れはどんどん強くなり、地震よと口々に叫ぶ患者や看護師たちの声が聞こえ、じきに非常ベルも鳴り出した。  病室のドアが乱暴に開け放たれた音を夢の中の出来事のように聞いた。もう目の前に君の姿はなかった――
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