五条くんは傘を差さない

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五条くんは傘を差さない。 小学3年生の時に私のクラスにやってきた時から、彼は朝から雨が降りしきる日でも、傘を持ってこなかった。 ずぶ濡れで教室に入ってきても、どんなに先生に叱られても、彼は傘を持ってこなかった。 鬼みたいな顔で怒る先生に理由を尋ねられると、五条くんは笑顔で「雨は好きなんで」と答えるだけだった。 そんな彼を、私を含め、クラスメイトたちは奇異な目で見ていた。 頭がいかれているとか、今時よく聞く発達障害とか、あいつの家は貧乏だから傘を買う金もない、とか。 さも現実感がありつつも、根拠のない噂だけで、私たちは五条くんの人となりを知った気でいた。 梅雨の時期なんて、ほぼ毎日ずぶ濡れになっているのに、不思議と彼は一度も風邪で休んだことはなかった。 なんとかは風邪を引かない、なんて言うけれど、五条くんのテストの成績はいつも中の上くらいだ。 頭は悪くないと思うし、話しかければちゃんとした返事が返ってくる。だけど、雨が降ると、彼はおかしくなった。 そんな五条くんと、私は同じ地区に住んでいた。 登下校ルートは違うけれど、その気になれば一緒に帰ることもできる。でも、一緒に帰りたいなんて思ったことはなかった。 4年生の梅雨のある日。私は寝坊して、いつもの時間より遅くに家を出た。 その日は大粒の雨がぼたぼたと降っていて、傘を差していてもランドセルや靴がびちゃびちゃになった。 雨はどちらかというと嫌いだ。 雨が降れば運動会や校外学習が延期になるし、寒いし濡れると気持ち悪い。 でも、そんな雨の中を、偶然見かけた五条くんは、小躍りしながら歩いていた。ステップを踏んで、時にくるくると回ったりして。 「何してるの?」 「あっ、根本さん」 ちょっと気味が悪くて、最初は五条くんかどうかわからなかったけれど、いつも同じボーダーの服を着ているのがわかって彼だと認識できた。 「清々しい朝だね」 能天気極まりないという感じで、彼は雨に濡れた顔で朗らかに笑った。 「鬱陶しいの間違いじゃない?」 「そう?もしかして根本さん、低血圧?」 なんだか真面に会話できそうになかった。 不気味さを通り越して、滑稽にも見える。もちろん、嫌味を込めてそう見えた。 「なんで、傘持ってきてないの?」 「うーん?」 五条くんはわざとらしく考え込む様に首を傾げる。雨が降っているから、余計に一挙一動が腹立たしい。 「あっ!蛙だ!しかも大きい!」 はぐらかされたのかどうかわからないが、五条くんは電柱の下で佇んでいる緑色の蛙に気を取られた。 「うわーっ!すっげー!でっけー!」 五条くんは無邪気に蛙を凝視している。さすがに小学1年生でもあるまいし、蛙にここまで気を取られるのはちょっと異常だ。 異常だけど、真剣なんだなってわかった。 ガーデニングを趣味にしている母が、よく新しい花や多肉植物を買っては「ねっ?かわいいでしょ?」と目を輝かせて私に同意を求めてくる。 その時の母と、同じ目をしていた。 「ねえ」 私はランドセルから、予備に持ち歩いている折り畳み傘を取り出し、しゃがみこんでいる五条くんに差し出した。 「これ、使っていいよ」 「いらない」 だが、五条くんは蛙を凝視したまま、私の厚意を拒否した。即答すぎて面を食らった。 「でも、ずぶ濡れじゃん・・・」 「いつものことだから」 そう言うと、五条くんは立ち上がって、またスキップを踏みながら土砂降りの雨の中を陽気に歩いて行った。 今日は雨なのに、彼は久々の晴天を喜ぶかように浮かれている。 今日が雨じゃなかったら、私は彼を殴っていたかもしれない。 梅雨はまだ明けない。 今年もまた記録的大雨が続くらしい。 雨の所為で運動場が使えず、男子たちは有り余る体力を発散する場がないらしい。なんだか教室の空気も日に日に悪くなっている。 一度ガス抜きしないと、今にも破裂しそうな雰囲気だった。 そんな男子が適度に憂さ晴らしに興じるのに、そう時間は掛からなかった。 前から五条くんが、クラスの中心になっている男子グループから目を付けられていたのは知っていた。 珍しく雨が降らず、曇り空だけが広がった、ある日の体育の授業中。ドッジボールをしていた男子が、やたら五条くんにボールを投げつけているのが気になっていた。 まるで梅雨に八つ当たりでもしているかのように、彼にボールを力強く投げつけていた。 やがて五条くんの顔に、一人が投げつけたボールが思い切り当たった。 その場にしゃがみこんだ五条くんから、鼻血が出ていた。 さすがにやりすぎだと思った。そんな五条くんに、男子はなおもボールをぶつけようとした。 それに気づかず、私は五条くんに駆け寄っていた。ボールは私の後頭部に見事にヒットし、頭がぐわんと揺れた。 先生が駆け寄って、大声で怒鳴り散らしながら、私たちを保健室へと連れて行った。 私も五条くんもなんともなかった。ボールは柔らかかったし、少し横になったら痛みも引いていった。 五条くんの鼻血もしばらくして止まったらしい。 男子たちは先生にこっぴどく怒られていて、梅雨が明けても運動場をしばらく使えなくなった。 家に帰る頃には夕立が降っていた。 保健室の先生に、何度も体は問題ないか確認された後、私は下駄箱の方から外を降りしきる雨をじっと見つめた。 今日は傘を持ってきていない。代わりに折り畳み傘を持ってきている、はずだった。 ランドセルをいくら探ってみても、それらしい物は見当たらない。 いつも入れていたはずなのに、どうして。 「根本さん」 絶望感に包まれそうになった時、背後から声がした。 五条くんが、いつもとは違って真剣な顔をして立っている。 「今日はごめん」 頭を深々と下げて謝る彼に、私はそれどころじゃなくて、「何が?」と思わず答えてしまった。 「何って、今日の体育のこと」 「あー、別に大丈夫」 それより、傘をどうやって調達するかだ。これから誰かに借りるという手もあったが、すでに友達は皆先に帰ってしまっている。 「どうかしたの?」 五条くんが不思議そうに尋ねてくる。溜息を吐きながら私は答えた。 「傘、忘れちゃったみたい」 「ああ。そっか」 淡白な反応に少しイラっとなったが、五条くんは少し考え込んだ後、何かを思い出したように指を鳴らした。 「ちょっと待ってて」 そして雨の中を駆け足で走り出していく。 一体、なんなのか。 よくわからないまま、私はとにかく傘を借りれるか、職員室に聞きに行くことにした。 生憎、先生たちは会議中なのか、職員室の扉は閉まっていた。 どうしようもなくなり、私は覚悟を決めようか悩む。 この雨の中、濡れたまま走って帰るには、少々距離がある。 ひとまず、また下駄箱付近に戻ってくると、ずぶ濡れの五条くんがいた。 「おまたせ」 そして私の前に、蓮の葉のような形の大きな葉っぱを差し出してきた。 「近所の空地に咲いてるんだ。よかったら使って」 「えっ」 まさかとは思うが、これを傘代わりに雨の中を歩けということか。 何を馬鹿な、とも思ったが、少し考え直してみる。五条くんは体育の時のことで私に謝りに来た。彼なりに、これが罪滅ぼしのつもりなのだろう。 だとしたら、彼の厚意を無下にはしづらかった。以前、彼に私の厚意を無下にされたけれど、私は彼にそんなことをしたくはない。 それに、傘がないよりかは幾分マシかもしれない。ランドセルまではカバーできなさそうだが、そこは覚悟するしかない。 「ありがとう」 お礼を言って、葉っぱを受け取ると、五条くんは歯を見せて笑った。 使ってみると、案外この葉っぱの傘はおしゃれかもしれなかった。 機能性については少々難があるが、以前に読んだ物語の中に出てくる動物たちが、こんな風に葉っぱを傘代わりにして雨の中を歩いている場面があった。 ちょっとメルヘンな感じで面白い。 これを傘代わりに思いつくなんて、五条くんは案外、メルヘンチックなのだろうか。 「優しい雨だね」 隣に並んで歩く五条くんは、目を細めながら雨空を眺めた。 「優しい?」 「うん。少し生温かくて、穏やかに降っている」 確かに、暴風雨に比べたらそうかもしれないが、ぼたぼたと大きな雨粒が降りしきっているし、生暖かいというよりかは湿気でじめっとしていると表現した方がいい。 ちょっと面白い発想だなと、私はくすっと笑ってしまった。 「でも、さすがに風邪引かない?」 「僕は平気。雨とは仲直りしたから」 「仲直り?」 「うん」 五条くんはまたまた不思議な表現を使ってくる。 「どういう意味?」 「・・・僕、雨に嫌われてたんだ」 私が聞き返すと、五条くんは寂しそうに言った。 「1年前、雨の日の朝に学校に行こうとしたら、途中で捨て猫がいたんだ。親猫からはぐれたのか、寂しそうにニャーニャー鳴いていて。可哀そうだと思って、その子に持っていた傘を貸してあげたんだ」 「野良猫に?」 「うん。幸い、夕方には雨が止んでたから、急いで猫のところに戻って、また傘を返してもらった。そういうのを何度か繰り返してたんだ。雨になると、猫はいつも同じところにいたから」 面白いエピソードだと思った。でも、五条くんが寂しそうに語る以上、その先にハッピーエンドはなかったのだろう。 「その日も雨が降っていて、いつものように猫に傘を貸して学校に行ったんだ。でも、学校から帰ってきた時には、猫はいなくなっていて、僕の傘もどっかにいっていた。それ以来、猫には会えていない」 「そうなんだ」 やっぱりそうか、と私は冷静に納得した。 自治会館に勤めている母が、よく野良猫の話をしていた。自治体が本格的に野良猫の駆除、または保護に力を入れるようになったらしく、業者を積極的に呼ぶようになったらしい。 その野良猫が、駆除ではなく保護されていることを願った。 「思えば、お父さんが交通事故に遭ったのも、こんな雨の日だったし、お母さんも雨の日になると機嫌が悪くなるし、僕は雨に嫌われているんだなって、ずっと思ってた。傘を失くしたあの日も、お母さんにめちゃくちゃ怒られて、もう傘は買ってあげないって言われたし」 聞いてはいけない話のような気がした。 五条くんが片親であることや、親子関係がうまくいっていないことは噂で聞いていた限りだったけれど、どうやら本当のことらしい。 それにしたって、そんなことで子供に傘を買ってあげないなんて、そんな親がいることと、そんな親を持つ同級生がいることがショックだった。 「傘を持ってこないのは、それが理由?」 「ううん。それだけじゃない」 五条くんは、また雨空を見上げて言った。 「最初は傘がないから、ずぶ濡れで登下校してたけど、こうして雨に濡れてみて、雨が僕を嫌っているんじゃないってわかった。むしろ、僕を元気づけてくれてたんだ」 「なんでそう思うの?」 「ずっと、僕は悪い子だって思ってた。お父さんがいないのも、お母さんを怒らせるのも、猫がいなくなったのも、全部僕が悪かったんだって。でも、雨に打たれているうちにわかったんだ。僕は悪い子だけど、なんとかなるんだって」 そういうと、五条くんは私の前に躍り出て、くるっと回って見せた。 「だってほら、今日だって雨粒は温かいし、一回も風邪を引いてないから。雨が僕に気を遣ってくれてるんだと思う。だから、僕は雨と仲直りしたんだ」 「・・・変なの」 そう言いつつも、元気な五条くんを見て、私はまたくすっと笑ってしまった。 成り行きで五条くんの家の前まで来た。 ここから右の角を曲がってまっすぐ行けば、私の家に辿り着く。 初めて訪れた五条くんの家は、酷く寂れていて、人の気配が全くしなかった。 「お母さん、まだ帰ってきてないんだ」 自宅をじっと見つめて、五条くんは溜息交じりに言った。 「いつも家では一人なの?」 「まあね」 五条くんは寂しさも感じさせないステップで、自宅の敷地内の階段を昇っていった。 「じゃあ、また明日ね」 「五条くん」 手を振る五条くんに、私はこんな提案をしてみる。 「うち、傘が余ってるから、よかったら一つあげるよ」 我ながら妙な提案だったと思う。ただ、なんだか言わないといけない気がして、そう口走っていた。 五条くんは目を丸くした後、苦笑いをした。 「いや、それは申し訳ないから」 「だったらさ」 これはたぶん、私の人生の中でも特に思い切った提案だったと思う。 「これからは、私の傘に一緒に入れてあげる」 五条くんは笑っていた。 「本当にいいの?」 「うん。いつまでもずぶ濡れじゃあ、さすがに嫌でしょ?」 「嫌ではないけれど、でも、根本さんがそう言ってくれるなら」 雨が好きな五条くんだけど、笑顔は太陽みたいだと思った。 「ありがとう。じゃあ、これからよろしくね」 親指を上げてみせた五条くんは、そのまま鍵を開けて家の中に入っていった。 彼と別れて家に帰る間、心臓がバクバクと音を立てていた。 なんであんなこと言っちゃったんだろ、私。 後悔というよりも、高揚に近かった。 次の雨の日はいつだろう。ふと、そんなことが頭の中に過った。 翌日、私は高熱を出してしまった。 一週間寝込んでしまい、その間も、ずっと雨は降っていた。 五条くんはまた一人でずぶ濡れになって登下校しているのだろう。 すぐに約束を果たせなかったことが、恥ずかしかったし、申し訳なかった。 やっと学校に顔を出せるようになったその日。少し早めの梅雨明けが報じられた。 五条くんは学校からいなくなっていた。 話によると、親族の都合で遠くに引っ越してしまったらしい。 大人になってわかったのだが、五条くんの家は虐待の通報を受けたらしく、彼は児童相談所に保護されてしまい、そのまま遠くの親戚に預けられたようだった。 あの頃の私は、また雨が降る日になると、また五条くんに会える気がしていた。 でも、どんなに雨が降り続く日があっても、五条くんが現れることはなかった。 私は約束を果たせなかった。 でもそんな後悔よりも、本当は彼に言いたいことがあったのだ。 「あなたは悪い子なんかじゃない」って。 取引先から出てくるタイミングで、雨が降ってきた。 今日の予報では曇りがずっと続くはずだったのだが、どうやら雨に変わってしまったらしい。 「やばっ。傘忘れた」 隣にいた後輩の山口くんが顔をしかめる。 「結構降ってるね」 建物の軒から顔を覗いてみる。本降りだった。 「傘、持ってきてないの?」 「はい。根本さんもですか?」 「ううん。私は折り畳み傘があるから」 そう言って、私は自慢げに鞄からピンク色の折り畳み傘を山口君に見せつけてやった。 「いつも持ち歩いてるんすね」 「まあ、営業やってると何が起こるかわからないから」 今の会社に勤めてかれこれ3年。後輩の山口くんは中途採用で入ってきて、まだ1か月しか経っていない。 彼の教育係になったけれど、仕事はできる反面、詰めが甘いのが彼の短所だとしばらくしてわかった。 「とりあえずタクシー呼びます?」 「そんなのもったいないじゃない。駅まで歩いていきましょ」 スマホを取り出そうとする山口くんを制止し、私は折り畳み傘を広げて雨の中に出ようとした。 「えっ。でも、結構降ってますよ?それに駅まで遠いし」 「大丈夫。私の傘に入れてあげるから」 「えっ!いや、でも・・・根本さん、いいんすか?」 「小学生じゃないんだから、相合傘くらいできょどんないの」 可愛い後輩をちょっといたずらしてみたくなり、私は彼の手を引っ張ってみる。 「さあ、行くよ」 「あっ、はい」 山口くんは顔を赤くして私の傘に入ってくる。 駅までは確かに距離はあるけれど、こういう日だからちょっと歩いてみたくなる。 「なんかるんるんっすね」 隣で窮屈そうにしている山口くんが聞いてくる。 「今日の取引、うまくいったからっすか?」 「それもあるけどさ」 私は軽快に歩きながら胸を張っていってみた。 「私、雨と仲直りしてるから」 山口くんはぽかんとしている。まあ、これはあの人の受け売りだし、意味がわからなくて当然だと思う。 あの時できなかった相合傘を、今は後輩としているわけだけど、別に気にしてない。 もう、あの人を待つのはやめた。 雨と仲直りできた私も、あの人も、同じ空の下で、きっとうまくやっている。 そう信じている。 次の雨はいつだろう。水たまりを弾きながら、私はステップを踏んでみた。
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