1章

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1章

「その気持ち悪い瞳で私を見ないで頂戴!!」 広い食堂に響き渡るキンキンと劈く(つんざく)罵声。 それと共にリナリアの手に握られたグラスから、私の頭へ冷たい冷水が舞った。 水と一緒に投げ捨てられた氷が私の頬に当たり、足元の真っ赤な絨毯の上に力なく三つほどコロコロと転がる。 目の前のリナリアはフウフウと荒い息を吐きながら肩を震わせている。 『きゃぁ!』とか『わぁ!』なんて人間らしい驚きの声が出るに違いない。 だけど私の口から出たのは深い深呼吸だった。 勿論、腰はお辞儀の姿勢で折り、視線を自分の足元に向けたままで。 なんて事はない。 本日3回目のリナリアのヒステリーだ。 一緒に部屋にいるもう1人のメイドも止めに来ず、息を潜めてこの状況を見ている。 ハルジオン家では家の娘であるリナリアが規律(ルール)であり、下手に関わればとばっちりを喰らうのは明らかだ。 「…申し訳ございません。」 俯いたままゆっくりと返事をする。 声が小さすぎてもダメ。大きすぎてもダメ。 また顔をあげて返事をしても更にリナリアの機嫌が悪くなる。 中々謝罪というものの塩梅が難しいという事をリナリアには身をもって教えて貰っている。 腰を曲げたまま、視線を送るとリナリアの可愛らしい靴が目に入る。 勿論顔を上げれば直ぐにリナリアの真っ白なレースで彩られたワンピースに茶色のツインテールが目に入るだろう。 だけど、顔なんか上げずとも可愛いリナリアの顔が酷く歪んで私を睨みつけているのは容易に想像がついた。 ふかふかの真っ赤な絨毯に、水が染み込んで鮮やかな赤色は深い真紅に変わっていた。 もちろん、私のくたびれたメイド服にまでぐっしょりと水が染み込んでいる。 変えはあと1枚しかないのに。 後で床も拭かないと。 リナリアの母の死にかけの猫を痛ぶる様な声が耳に響いた。 「リナリア、やりすぎよ。」 “私は止めてるから悪くないわ。″ ″リナリア、もっとやればいいのに″ どちらか分からないけれど、義母の心の声が透けて聞こえる。 本当は止めるつもりなんて無いはずなのに。 きっと顔を上げたなら嫌らしい瞳で私を見つめながらニヤニヤ口元を歪めているはずだ。 鮮やかな色をした豪華なドレスと宝石に身を包んだ義母ロゼッタが。 「お母様、だってリアが私をあの穢らわしい瞳でみるのよ!!」 だって、仕方がないじゃない。 食事の準備のためにテーブルにお皿を並べて。 目を合わせず準備なんて。 (…そんなこと私には、無理だわ。) そう心の中で返事をしながらまだかけられたのが赤ワインじゃなかったのだけ良かったのかしらなんて考える。 姿を見せなければ目の前で仕事をしろと言うし、目の前で仕事をすればこうやってリナリアはヒステリーを起こす。 心の中でため息を一つつき言葉を発する。 「ご気分を害してしまい申し訳ございません。片付けてきます。」 いつの間にか床に叩きつけられた透明のグラスを拾い上げ、返事も待たずに部屋から出ていく。 勿論視線は下げたままで。 部屋を出てもまだ扉の向こうでリナリアが喚いているのが聞こえる。 私は足早にその場を立ち去り厨房に向かう。 多分モタモタしてたらまたリナリアに痛い目に遭わされる。 一刻も早くガラスのグラスを戻すという口実で離れなくては。 厨房に行くと、中には2人。 メイド服を着た料理中のジョセフ。 ソバカスのついた顔立ちとウェーブのかかった赤毛が一つにまとめられており、顔立ちにはまだ何処となく幼さが残っている。 もう1人はメイド長のソフィー。年相応の白髪混じりのお団子の髪型だ。 2人はギョッとした顔で私を見つめた。 どうやらリナリアのヒステリックな声は厨房にまで届いていなかったらしい。 「なっ、リアなんでそんな濡れてるのよ!?」 私の髪の毛からは水が滴っている。 廊下を濡らしてきたおかげで、足元に水溜りは出来なさそうだけれど。 ジョセフがあんぐりと口を開けたまま、握っていた包丁を落としそうになった。 「色々、あったのよ。」 ため息混じりに私はガラスのグラスをを厨房に置く。 「でも、リアが粗相をしたんじゃないんでしょう?」 ジョセフの髪の毛が逆立ち、心なしか目が吊り上がっている様に見える。 「まあ…ね。粗相というか、目が合っただけなんだけど。」 その言葉を聞いて今にも悪態をつきそうなジョセフをソフィーが諌めた。 顔を顰めたせいで、ソフィーの眉間の皺がいっそう深くなっていた。 「ジョセフ。これ以上は言わないで頂戴。気持ちはよく分かりますよ。だけど誰が聞いているか分からないの。我慢なさい。」 穏やかに、だけど反論なんて一切聞かない声でソフィーが答えた。 そして、私を優しい瞳でソフィーが見つめる。 「リア様。食事は私が持って行きますから。部屋で着替えてきてください。風邪でも引かれたら困りますから。」 「…リア様なんて呼ばないで。それこそ、誰が聞いているか分からないわよ。」 低い声でソフィーを諌める。ソファーが私の事を慕ってくれているのは嬉しいけれど、そのせいでソフィーが罰を受けるのはごめんだ。 ソフィーがその言葉を聞いて少しだけ悲しそうな顔をする。 「だけど、ありがとう。着替えてくるわ。後、お願いね。」 そう言って、ソフィーの手をそっと握ると、ソフィーはお任せください。と柔らかく微笑んだ。 濡れた床も、ソフィーか片付けてくれるだろう。 ソフィーなら発情期の猫みたいなリナリアにもきっと上手く対応してくれるはずだ。 私は少しだけソフィーに向かって、軽く会釈をした。
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