怒った顔

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 このアルバイトを始めてまだ五日目だった。けれども、初めての仕事にかなり気後れし、進学せず就職する自分の将来を思いやって早くもため息が漏れるようになっていたところだった。  その日の残りの時間は、また店長の甲高い声に刺されないように気を配りつつも、さっき本気の怒りを滲ませていた香田淳の横顔が眼前にちらついて仕方がなかった。何度か仕事の隙を見つけてお礼を言おうと試み、かなり時間が経過して人の足も減ってから、店長がいなくなった隙に声をかけた。 「あの、さきほどは、ありがとうござい──」  視線だけこちらに向けた淳はいつもの無表情に戻っていて、私は自分の言葉が掠れるのを感じた。仕事をするときには、はきはきとしなければならない。そういうふうに親からは何度となく言われつづけてきたにもかかわらず、私はふだん、語尾までしっかり口を利けることはまれだった。そして大概の場合、相手の人間が待ちきれなくなって、言葉の穂先を継いで先を言ってしまう。そのたびに内心情けなく、しかしどこかほっとしている自分がいるのだった。  しかし今の場合、淳は私の言葉を素通りさせたように見える。そのまま正面に視線を戻し、一瞬止まった手を再び動かしはじめた。  淳は大学の二年生だと聞いている。それ以上の情報は知らない。店長は一緒に仕事をするアルバイトの人たちのことをあまり詳しくは話さなかった。今までにあと二人、男女一人ずつのアルバイトの人たちと顔を合わせた。二人とも親の世代で、あまり気楽に話のできる相手ではなさそうだった。彼らも私にほとんど関心を示さなかった。  淳は背が高いがひょろひょろとした印象ではなく、背筋が伸びてきびきびと仕事をする人という印象だった。しかし歳はさほど違わないのだが、高校生と大学生の関係であるため、これまであまり親しみは持てないできた。また、進学を止めた自分にはどこか遠い印象もあった。  淳が黙っているのであきらめて冷蔵庫の中をチェックしようと歩きかけたとき、背中に声が聞こえた。 「人に育てられたことのない人間は人を育てられない。あの店長、やることなすこと抜けだらけだ。育ててもらってないんだよ」 「え」  思わず疑問形の声が漏れた。すぐには意味がとれない。最初は店長には両親がいないのだろうかと思ったが、そういう意味ではなさそうだった。  目を瞠る私に向かって、淳ははじめて表情を緩めた。 「そのうち分かるよ。仕事上で分からないことは俺か木内さんに聞くといい」  木内さんとは、他の二人のアルバイトのうち、女性の方だった。  今にも仕事を辞めたいような気分になっていた私は、その日初めてほっと息を吐いていた。
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