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怒った顔
駅のロータリー沿いにあるチェーンのそば屋は昼時、近くの会社に勤めるサラリーマンたちでごった返している。
私は文字通り全身汗まみれになりながら、必死に手と体を動かしていた。
「あの、まだですか。もう十分も待ってるんですけど」
なまじクレーマーのような口調ではないところに、このお客さんの腹に据えかねる苛立ちがダイレクトに伝わってきて、身が縮む思いがした。急いでビニール袋を破り、そば玉を掻き出して、湯気に煙る鍋の中にステンレスのざるを沈める。一秒が数分にも感じられる。そういうことが本当にあるのだ、とふと思う。
アルバイトの先輩の香田淳は、慣れた手つきでどんぶりにそばつゆを流し、手渡したざるを素早く取って、中に入れる。最後はタヌキを真ん中に盛り、刻み葱を添えた。
「A57番のお客さま」
落ち着いた声で先ほどの客を呼ぶ。
「お待たせしてしまい、申し訳ありませんでした」
客が無言のまま四角いトレーを両手に持ってテーブル席へ向かうと、淳は機敏に足りなくなった刻み葱の準備をし、揚げの袋を破った。
今の客が昼のラッシュの最後尾のようで、その後少しの間、時間ができた。
しかし淳は手を休めない。きびきびと次のラッシュに備えていく。
その手際の鮮やかさについ目を奪われていると、甲高い店長の声が跳んできた。
「深山理沙さん、お客が切れたらすぐ洗い物にまわって。それからテーブルの紙ナフキンとか七味とか確認、入り口のアルコールも補充して」
店長の声音は刃物のようで、背筋がぞわりとする。自分が仕事をできないからなのは分かっているのだが、この声を聞くと無性にやりきれない気分になる。
「深山さん、だから! 今行ったことを先にやって来てって言ってるんでしょ。毎日毎日同じこと言わせないでよ、深山さん」
店長の声は店内に響き渡っている。私は小さい声で「はい」と答えるのがやっとだった。ラッシュは越えたとはいえ、店内にはさっきまで順番待ちしていたお客さんたちが無表情にそばをすすっている。いたたまれない気持ちで、七味の大きいプラスチック瓶を持って店内に出ようとしたとき、背後で声がした。
「店長。深山さんはまだこの仕事はじめたばかりですよ。それに」
そこで言葉を切る。
何か壁のボードに書き込みをしていた店長は、明らかに不快気に淳の方に目をやった。
「お客さまの前でそういう物言いをするのはやめていただけませんか。恥ずかしいですよ」
驚いて、香田淳の顔をはじめてまともに見た。いつもドライな淳の表情に微かな怒りが滲んでいる。
この街は、どうしてこうも表情のない人が多いのか。いや、無表情とも少し違う。無関心という表情を演じているのだ。数人の他の客たちも、ちらりとも見やしない。
店長の頬は赤く上気したが、それ以上は何も言おうとはしなかった。
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