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事務所の応接スペースで、目の前にいる依頼人は落ち着きなくそわそわとしていた。
ここは鈴蘭特殊事象相談所という名の――早い話が心霊現象の相談所である。オカルト的なおどろおどろしさは所内にはなく、什器も調度品もすっきりとした雰囲気を醸し出している。ちなみに事務所の名前に入っている鈴蘭とは、事業主であり俺の上司でもあるサツキさんの名前でも、もちろん俺の名前でもなく、単にサツキさんが好きな花の名前らしい。
サツキさんはいわゆる祓い屋で、霊障を祓うことを生業にしており、自分は彼の助手だ。大っぴらには言いにくい方法で、サツキさんの仕事を手伝っている。
今日の依頼人は俺より少し上だろうか、三十歳くらいの男性だった。憔悴した様子だから、実際はもっと若いのかもしれない。テーブルの向こうにいる彼の視線が、サツキさんと俺の顔を忙しなく行き来する。その気持ちは分かる。
きっと勇気を振り絞って相談に来たのだろうに、ドアを開いた先に待っていたのは、オレンジ色に髪を染めた見るからに年下のヤンキーっぽい青年と、長い髪で片目を隠した猫背の陰気な男(つまりは俺)だったのだから。可愛らしい事務所の名前に似合わぬちぐはぐな二十五歳と二十八歳の二人組。困惑するのも当然だ。
見た人の大半が胡散臭いと思うような笑みを浮かべ、色つきのサングラスをかけたままサツキさんが身を乗り出した。
「こんにちは。タカハシユウジさんですね? ぼくはここの代表者で祓い屋をやってるササキといいます。さっそくですが本題に入らせてもらいますねえ。今日は心霊現象でお困りということでしたが……」
立て板に水のごとくサツキさんが話し始める。さらりと偽名を名乗るのはいつものことだ。その口調は丁寧だがどこか軽薄な響きがあって、依頼者の切羽詰まった顔色とは相容れぬものだった。
ふと、相手の男性の視線がちらちらとこちらに注がれる。
「あ、こちらは乾哲成くんといいます。ぼくの助手をしてくてれる子でね、すごく優秀なんですよお」
訝しげな目に気づいたのだろう、サツキさんが俺の肩をぽんぽん叩きながらフォローを入れてくれる。すごく優秀、かどうかは全然自信がないが、一応依頼人に向かってぎこちなく曖昧に笑ってみせる。その笑顔が歪で醜かったからだろう、タカハシは頬をひきつらせて目線を逸らした。若干傷ついたが、よくあることなので大した問題ではない。慣れない表情をした罰だ。
それじゃ、詳しくお話をお聞かせ願えますかあ、とややのんびりした声音でサツキさんが促す。
タカハシは腿のあいだできつく両手を握り合わせ、ぽつぽつと言葉を紡ぎだした。
「僕は二年くらい前に彼女を交通事故で亡くしてまして……一周忌までは本当に落ち込んで、自分も生きてるのかどうか分からないような状態でした。そんなときに今交際してる女性と出会って、徐々に精神的に持ち直してきたんです。それは良かった、良かったんですが……」
「なるほど。その後に一体何が?」
相手の言葉が詰まったタイミングで、サツキさんが相槌を打つ。
タカハシはこらえきれないと言うように、両手で無造作に顔を覆った。
「彼女といるときだけ、おかしな現象が起きるようになったんです。勝手に家電とか電灯のスイッチが切れたり入ったり、物が落ちたり足音がしたり、夜中にドアがどんどん鳴らされたり……。たぶん、たぶんですけど、前の彼女がやってるんじゃないかと思うんです。僕は今の彼女にしばらく距離を置こうと言ったんですが、相手は亡くなった相手の嫌がらせには屈しないと頑なになって……。彼女が意固地になるほど、おかしな現象が激しくなるんです。もう、どうしたらいいか……このままだと気が変になってしまいます。助けて下さい……お願いします……!」
タカハシはほとんど涙声になりながら、年下のサツキさんに深く深く頭を下げる。ここに来る人の依頼としてはスタンダードなものだ。ありふれていると言ってもいい。けれど、だからといって彼の懊悩の深刻さが薄れるわけではない。それに――。
俺はちらりとタカハシの背後をうかがった。その途端に全身が総毛立つ。そこに黒々とした靄が蟠ったような、はっきりとした死者の姿があるからだ。きっと、タカハシが交際していた女性なのだろう。
物心ついた頃から、人ならざる者の姿が見えていた。あまりにはっきり見えるので、生者と死者の区別がつかないくらいに。数えきれないほど見てきたからといって、この世に未練がある者の姿に見慣れることはない。現世の理を冒涜するような、存在してはいけないものが醸す名状しがたいオーラは、見るだけでこちらの正気をじゅくじゅくと冒してきて、本能的な拒絶感を催させる。
俺は吐き気を我慢しながら、すすり泣いているタカハシを見やる。この人は隣に前の彼女がいることに気づいていないのだ。あれほど明瞭に見えるのに。サツキさんも俺も視える人間だから、そのことが改めて不思議に感じる。
実際、うちに来る依頼人の中で、心霊に悩まされているのは数割だけだ。それ以外は幻覚や幻聴など、何らかの疾患が疑われるケースの方が多く、そういった場合はサツキさんがやんわりと脳神経外科や精神科への誘導をする。適当にお祓いをして依頼料を巻き上げる方が簡単なのだが、見た目の軽薄さに反しサツキさんは悪どい商売は決してしない。
今回の依頼は――明らかに心霊現象そのものだ。
サツキさんがぱん、と両手を打ち合わせる。タカハシが弾かれたように面を上げた。
「事情は大体分かりました。タカハシさんの後ろに亡くなった彼女がついてきてますんで、丁度いい。これからすぐに降霊をして直接話を聞いてみましょうかねえ」
「えっ、マユミ? マユミがいるんですか? どこに……?」
タカハシが見当違いの場所をきょろきょろと見回す。その表情には一目会いたいという思慕も、超常の存在に対する恐怖も、複雑に入り交じっているように見えた。
「それじゃ、哲くん。いつもみたいにお願いね」
サツキさんが耳元で囁き、俺にウインクを飛ばした。いたずらっぽい不意打ちに心臓がどくりと跳ねる。依頼者の前で心を翻弄するのはやめてほしい。俺の仕事はこれからが本番なのだから。
深呼吸を二回して、気持ちを整える。死者と対峙する覚悟を決めてから、前髪を掻き分けて隠れている右目を外気に曝した。俺の右目は特別らしく、霊体の存在をより具体的に視ることができる。色素の薄い赤みがかった目の色に怯んだか、タカハシがはっと息を飲むのが伝わってきた。でも、俺が向き合うべきなのは死者だ。
導かれるように、半透明の姿の女性がこちらにすうっと近づいてくる。込み上げてくる畏れを飲み下しながら、俺は小さく頷く。そうだ。こっちにおいで。あなたの声を聞かせてほしい。
女性が肉薄して、俺の体に干渉した瞬間、冷水を浴びせられたようにゾッと全身が粟立つ。根源的な恐怖と拒絶感に耐えながら、自分の意識が頭の上から体外に出ていくのをイメージする。
女性の意識が、俺の体内に侵入ってくる。真っ暗な冬の海に突き落とされたように、身体感覚が冷えびえと黒く塗り潰される。意識が別人のものに飲まれ、体の支配権が他人に明け渡されていく。
これが自分の役割。俺はここで、死者に体を貸す口寄せとして働いているのだった。
「マユミさんですか?」サツキさんが優しく尋ねる。「タカハシさんも呼びかけてあげて下さい」
「えっ、あ、あの、マユミ……なのか?」
恐る恐る発せられるタカハシの問い。
塩粒くらいの大きさになった自意識で、自分の手がわっと口元を覆うのを知覚する。怒涛のように喉元から声が迸っていく。
「ユウジくん……ごめんなさい! わたし、私……ッ! 本当はこんな……嫌なことをしたいわけじゃないのっ」
「マユミ……」
呆然としてタカハシが俺を凝視する。
震える声で、内なるマユミが言葉を継いでいく。
「私、ユウジくんには幸せになってほしいと思ってる。本当だよ……? だから、君が大切な人を見つけられて良かったと思ってた。これで安心してあの世に行けるって……それなのに、君たちが二人でいるところを見るとどんどん羨ましい気持ちが湧いてきて、それが嫉妬みたいに熱くなって、気持ちがぐちゃぐちゃになって、自分でも抑えが利かないの。ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……!」
それは俺の声であって、俺の声ではない。
タカハシは目を潤ませていた。
「すごい……仕草も話し方もマユミそのものです。そうか、そうだったんだ……」
「マユミさんも本意ではないことが明らかになりましたね。霊体になってしまうとねえ、感情の抑制が利かなくなるんですよ。なんたって物理的には脳がないのですから。激しい感情がストレートに霊としての力を発現させてしまうんです。マユミさん、それはあなたの責任ではありません。あなたは悪くないんです」
サツキさんが幼子をあやすような柔らかな調子で説明する。マユミの心が慰められていくのが、手に取るように分かった。
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