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4.ダンス
あの人を好きだと思った瞬間。それがいつだったのか、と問われたら多分あのときだ。
体育祭ではでに転倒して膝を擦りむいたとき。
だらだらと血を流す傷口を、逢坂先生は丁寧に手当てしてくれた。
保健医として当たり前の仕事を彼はしただけなのだ。それ、だけなのだ。
なのに包帯を巻くとき触れたしなやかな指の感触が、治療中はそれほど言葉も発せず黙々と手だけ動かしていたのに手当てが終わった瞬間、もう大丈夫、と微笑んだ眼鏡の奥の細められた目が、なぜか忘れられなくなってしまった。
それからは時々、具合が悪いと偽って保健室へ行くようになった。けれど逢坂先生は仕事熱心でいつも多くの生徒の面倒を見ていて、仮病で訪れることを申し訳なく感じるようになった。
以来、涼はここから先生を見つめている。
どうすれば傍に行けるかもわからぬままに。
「いっつも見てるだけ〜♪ そんなんじゃ時間はあっという間に過ぎちゃうんだよ。私たち、あと半年で卒業なんだから」
今日も冷たい秋の雨が降っている。いつも通りぼんやりと昇降口に佇む涼の横に同じように立つ渚が唇を尖らせる。その彼女に涼は唇を歪めてみせた。
「そっちはいいな。期限ないしな」
「毎日顔だけでも見られる立岡くんの方が幸せだと私は思うけど。大体、私だったらもっともっと頑張って傍に行こうとするのに」
彼女の言葉の中にはいつも彼女の大切な「先生」に対する「会いたい」が溢れている。
その「会いたい」はまっすぐで決して揺るがない。
揺るがないからこそ、彼女は自分の身を捨てるようにして雨に飛び込むことができる。
「すごいよな、北条は」
俺はそこまでは、と言いかけたときだった。
ふい、と渚の手が涼の手を取った。そのまま雨の中、走り出す。
「ちょ! 北条!」
屋根の下に戻ろうと彼女の手を逆に引こうとした涼の耳に、渚の軽やかな声が飛び込んで来たのはそのときだった。
「雨、雨、降れ降れ」
楽しそうに彼女が歌いだす。涼の両手を握り、雨粒に打たれながら彼女はくるくると回る。
「雨、雨、降れ降れ♪ かあさんが♪」
笑いながら歌う彼女の声は嗄れている。けれどそんなことをかけらも気にせず、彼女は歌い続けた。
「じゃのめでお迎え、嬉しいな♪」
歌って、と楽しそうに渚が目で訴える。すでに下校時間もだいぶ過ぎた時間だ。人は少ない。でも全く人目がないわけじゃない。なにしてんの、と昇降口を出てきた女生徒二人が笑いながら通り過ぎていく。
ちょっと、と涼は抵抗したが、渚はその涼の手を離さぬまま歌い続けた。
「ピッチピッチチャプチャプ! ランランラン♪ 立岡くん!」
歌の終わりに渚がふいに涼の名前を呼ぶ。彼女を制止する言葉を呑みこんで見返すと、渚は雨に体を叩かれつつも淡く微笑んで囁いた。
「会おうよ。会いたい人に。会いたいならどんなことをしても、会おうよ」
会おうよ。
雨音に紛れるそのささやかな声。それを聞いたとたん、胸の内がかっと熱くなるのを感じた。
あと、半年。
半年したら、もう。
「雨、雨、降れ降れ!」
雨は未だに激しく頭上から降り続いている。顔を上向け、それを頬に受けながら、涼は歌った。
「母さんが♪」
「じゃのめでお迎え」
「嬉しいな」
ピッチピッチチャプチャプ♪
ランランラン♪
声が雨粒と絡まりながら暗い空へと上っていき消えていく。と同時に、涼は笑いだしていた。渚も笑う。笑いながらも頭の中で、周囲を雨に閉ざされながら自分達はなぜ笑っているのだろう、と疑問に思ってもいた。
しばらく考えて、答えがわかった。
ああ、自分達がまともじゃないからだ、と。
まともじゃないくらい、あの人を好きだからなのだ、と。
「ちょっと、君たち」
笑い転げる自分達の背後で、からり、と窓ガラスが滑る音が響く。振り返ると、保健室の窓からこちらを見ている逢坂先生と目が合った。
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