3.お七

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3.お七

 雨の中に長時間いたからだろう。彼女には熱があった。涼は買い物を後回しにし、彼女の肩を支えて彼女の自宅まで渚を送った。  出迎えた彼女の母親は彼女に似た細面の顔をしかめ、いつもいつもこの子は……雨だっていうのに傘を持っていかないから、と低く零した。  彼女のこの行動は初めてではない、ということなのか。  疑問が解けたのはそれから二日後。熱が下がったらしい渚によって雨の日の奇行の理由は語られた。 「家まで送らせちゃってごめんね」  そう言って彼女は微笑んだけれど、声が完全に嗄れていて本調子ではないことが丸わかりだった。 「北条って雨の日、傘持たない主義かなにか?」 「ああ、お母さんがなんか言ってた?」  今日も雨だ。いつも通り、昇降口の扉にもたれ、さりげなく斜め向かいの校舎を眺めていた涼の横に渚は躊躇なく並び、ふふ、と笑った。 「多分なんだけどさ、立岡くんはわかってくれる理由だよ」 「は? 俺は折り畳み傘いつも持ってる派だよ」  意味がわからない。顔をしかめる涼の顔を渚が覗き込む。まだ幾分青ざめた顔のまま、渚は囁いた。 「保健医の逢坂先生」  その名前を聞いたとたん、どきり、と心臓が跳ねた。 「君、いつもここで見てるよね。まあ、ここからだと保健室よくみえるし」 「……見てない」  とっさにそう否定した。  認めるわけにいかない、と思った。  自分の想いを誰かに知られるのがたまらなく、怖かった。   「ここにいるのは、ただ……」  ただ。  そこから言葉が続かない。口ごもる涼の耳に、いいんじゃない? と渚の軽い声が飛び込んできた。 「いいって?」 「別にいいんじゃない? 誰を好きだろうと。傍に行きたいって願おうと。そんなの自由だし人にとやかく言われるものでもないよ」  しっかりと言い切るその声の強さで彼女も好きな人がいるのだ、と涼は悟った。 「北条の好きな人って……」 「子どもの頃からお世話になってるお医者さんなんだ」  隠すとかごまかすとか一切ない、あっさりした口調で答え、渚はにこっと笑った。 「ねえ、立岡くん。知ってる? 八百屋お七って」 「……なんだっけ」 「江戸時代にさ、火点けの罪で火あぶりになって死んじゃった女の子の名前」  さらさらと言い、渚は歌うようにお七について語り出した。 「お七の家は商家だったの。でも当時の江戸は木造建築ばっかりで火事も多くて。不運にもお七の家は火事になってしまい、家族全員焼け出され、近所のお寺に仮住まいするしかなくなった。けれどそこでね、お七は寺の小僧と恋に落ちてしまう」  雨音を縫うように渚の声が涼の耳を震わせた。 「とはいえしょせんお七たち一家は仮住まい。やがて家も直り、お七は寺を出ることとなった。でも……一度胸に芽生えた恋の炎は消せない。だからね、お七は考えたの。  もう一度、火事になればあの人に会えるって」  ざあざあと雨が激しさを増す。コンクリートを打つ雨粒が靴にしぶきを飛ばした。 「お七は再び家に火を点けた。でもその罪は暴かれ……お七は火あぶりになった」 「ごめん、その話と北条が傘を持たない理由ってなんの関係が……」 「あれ? 立岡くんならわかると思ったんだけどなあ」  言いながら渚が大きな目を悪戯っぽく眇める。 「見てるよね。いつもここから逢坂先生のこと」  そんなことない。  反射的に否定しようとする。その涼の気持ちなど意にも介さず、渚は言葉を継いだ。 「別にいいんじゃないかな。好きだったら見ちゃうよ。当たり前のことだと思う。  でも私の好きな先生は、逢坂先生みたいにすぐ見られるところにいてくれない。だから、私は雨を待ってる。  だって雨が降れば、雨に濡れて風邪を引けば、病院に行ける。そうすれば先生に堂々と会えるじゃない?」  そう言って彼女はするりと歩を踏み出す。そのまま雨の中消えていく彼女の背中を見送り、涼は唇を噛む。  確かにその方法なら堂々と会えるだろう。けれどそれは彼女が自らの恋に迷いがないからだ。  彼女くらい、まっすぐに言えたら。  そうしたら、きっと苦しくはないのに。  
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