5.雨、雨、降れ、降れ

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5.雨、雨、降れ、降れ

 ひゅん、と体の中で、なにかが弾けた。 「ずぶ濡れで! タオルあるからこっち来なさい!」  いつもおっとりと言葉を紡ぐ逢坂先生がせかせかと声をかけてくる。いや、あの、と思わず涼は尻込みしたが、その涼の肩をどん、と渚が押した。 「せんせー! 私、親迎えにくるからいいや! 立岡くんにだけタオル貸してあげて」 「え、ちょっと北条!」 「じゃあねえ!」  笑って渚は雨の中走っていく。おい! と呼びかけたけれど、彼女の姿はあっという間に雨のカーテンの向こうへと消えてしまい、すぐに見えなくなった。 「じゃあ君だけでも早く! そんなところにいたら本当に風邪を引いてしまう」  そう言って逢坂先生は窓ガラスをからりと閉めた。ガラスの向こう、そっちから回って、というように細い指が右を指さす。  今も肩を打つ雨を涼は見上げる。  身体から容赦なく体温を奪う、冷たいはずのそれ。  なのに、今は少しも冷たくない。  早く、というように逢坂先生が手招く。その手に誘われるようにして涼は保健室へと向かった。 「まったく。なにしてるんだ。君たちは」  呆れたような言葉を口にしながらも逢坂先生の声は今日も優しい。  そのおっとりとした話し方を聞くたび思う。  すごく、会いたかったのだ、と。  この人の声を、聞きたかったのだ、と。 「ほら、これで髪、拭いて」  逢坂先生の手によってぱさり、とタオルが頭にかぶせられる。タオルで仕切られた小さな空間で涼は静かに静かに深呼吸をする。 「今日、雨で、良かった」  零れ落ちた声に逢坂先生は反応しない。聞こえなかったのかもしれない。ほっと息を吐いたときだった。 「雨、雨、降れ降れ、母さんが♪」  歌っていたのは、逢坂先生だった。  まだ使用する季節ではないストーブをよっこらしょ、と引っ張り出しながら彼は楽しそうに歌っていた。 「あの」  思わず呼びかけると、うん? と先生が顔を上げる。  涼はタオルをそろそろと頭から外して彼の顔を見た。  なんで今、その歌を歌うんですか。  なんで先生がそれを、歌うんですか。  そんなわけ、ないのはわかっていても。  今、その歌を歌われたら。  気持ちが伝わったみたいでなんだか。  なんだか嬉しくて息が止まってしまいそうです。 「コーヒー淹れようか。ミルクと砂糖、いる?」  続く言葉を出せないでいる涼に微笑みかけ、彼は背を向ける。そのぴんと伸びた背中に焦燥感を覚え涼は、あの、と再び呼びかけていた。 「俺、傘をすぐ、忘れちゃうんです」 「そう」  淡々とした声が返る。部屋の隅、私物だろうか。黒いコーヒーメーカーからガラスサーバーを抜き取り、戸棚の中から出したマグカップに慣れた手つきでコーヒーを注いだ彼は、マグカップの一つを涼に差し出した。 「ブラックでいい?」 「あり、がとうございます」  そうっと手を伸ばして受け取ったマグカップは雨に冷えた手に温かかった。 「俺、また、ここに来てもいいですか」  その熱が涼の体の中からじわりと言葉を押し出した。 「傘、忘れちゃったら、また雨宿りしに来ても、いいですか」  変なことを言っている。確実におかしな生徒だと思われている。  そう思ったけれどどうしても言わずにいられなかった。  あと半年。半年したら自分は卒業する。 ──だって、会いたいじゃない?  その気持ちだけで雨に濡れ、体を張って好きな人に会いに行こうとする渚の、揺るぎない瞳がふっと脳裏に過る。  彼女に比べて自分はなんと中途半端だろう。  それでも、どうしても言いたかった。  せめて卒業するまで、傍にいたかった。  おかしな提案だろうと、なんだろうと。  彼の穏やかな声を聞いていたかった。  彼のささやかな笑みを見たかった。  会いたくて。会いたくて。  ただ会いたくて、  たまらない。  だから、雨を利用する。 「仕事の邪魔は、しないので。ただ」  ただ、傍にいたいんです。  雨の日だけでもいい。  ただ、一緒に、いたいんです。  声にならない想いを奥歯で噛み殺し、涼は所在なくコーヒーをすする。  そのときだった。 「雨、雨、降れ降れ。母さんが♪」  小さな声で彼が歌った。けれど今度もワンフレーズだけ歌うと、彼はふふっと肩を震わせて笑った。 「君は面白いね」  それっきり、いいとも悪いとも言わず、彼はコーヒーをすすっている。  来ていいということなのか。駄目、ということなのか。  まったくわからなかったけれど、この人が雨の中でずぶ濡れになっている生徒を見捨てるなんてことができない人なのは間違いない。 ──こんなことを考えてしまう自分は随分と、狡猾だ。  会いたいからと言って火を点けたお七のように、雨で自分の心の中に着火しようとする。  本当に、したたかでしょうがない。  それでも。 「コーヒーうまいです」 「おかわり、する?」  穏やかに逢坂先生が問う。こちらに向けられる微笑に、今も地面を叩き続ける雨音よりもなお強い鼓動が心臓を震わせたが、それを必死に押し殺しながら涼は、いただきます、と答えた。  雨が降る。  心の炎を激しく燃え立たせる油のように降り続ける。  閉ざされた窓ガラスの向こうを見つめ、涼はそっと心の内で歌う。  雨、雨、降れ、降れ。  この人とここで笑い合うために。  どうか、どうかもっと。  もっと、長く。激しく。  雨よ、降れ。  願いながら涼は彼に向かってマグカップをそっと差し出した。
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