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第肆章 憎悪の黒獅子
澄み切った空気に包まれた、昼前。
百華は1人川へ行くと、土手に腰を下ろして頬杖をつき、ボーっと河面を眺めていた。
眼前の濁った河は、咋夜から降り出していた雨の為、水量が僅かに増えており、普段とは違う流水音がしていたのだった。
──どれくらい、そうしていただろうか。
突然、
「百華」
背後から、聞き覚えのある声で名を呼ばれ、百華は我に返り、振り向いた。
「告(つげる)さん・・・・・・」
百華に声を掛けたのは、普段は樹光村で門番をしている、告と言う名の男だった。
齢30手前の告は、旺漣と同じ越刀の武人で、旺漣の先輩に当たる人物だった。
告は偶に、旺漣と共に村の男子達の越刀の指南役を務める事もあった。
「珍しいな。百華が1人で此処に来ているのは。何かあったのか?」
告は百華の隣に来ると、静かに腰を下ろした。
「はい・・・・・・。少し、考え事をしていたんです。家じゃちょっと、集中出来なくて・・・・・・」
百華は、苦笑いを浮かべた。
「そうか・・・・・・。邪魔して悪かったな」
「いえ、大丈夫です」
告の気遣いに、百華は思わず動揺した。
「いよいよ明日だな。旺漣が出る、西の街の大演武。年齢の条件は、もう問題無いし・・・・・・。
百華は当然、応援に行くんだろ?」
「・・・・・・」
告の言葉に、百華は俯いてしまった。
「どうしたんだ?」
告が心配そうに、百華の顔を見た。
「・・・・・・それなんですが、告さん。実は・・・・・・」
百華は、重い口を開いた。
──まだうっすらと霧が残る、森の奥深く。
オォォ・・・・・・、ウオォォォ・・・・・・。
メスを失った悲しみに暮れている、オスの獅子は、悲痛な鳴き声を漏らしながら、フラフラと森の中をさ迷っていた。余りの悲しみに、己の右前肢のかすり傷の存在を、忘れていた程だった。
その時、オスの獅子の頭上で、烏のけたたましい鳴き声がした。
オスの獅子が空を仰ぐと、数十羽の烏の群れが、とある方向へ飛翔していた。
何かに気付いたオスの獅子は、烏達を追い掛ける様に、その方向へと駆けて行った。
──烏達が降り立った場所には、メスの獅子の骸があった。
烏達は、メスの獅子の骸の肉を、餌として啄んでいたのだった。
烏達がメスの獅子の、もう動かぬ巨体を無我夢中で啄んでいる時だった。
オオオォォォォオオッ!
怒りをまとった叫び声共に、オスの獅子が突如として姿を現した。
驚いた烏達は、空への逃亡を試みようと、バサバサと翼を広げた。
しかし、愛したメスの獅子の肉を啄んだ、怒りと憎しみに狂ったオスの獅子は、そんな烏達をいとも簡単に爪で捕らえ、地面に叩き落とした。そして吠え、唸り、怨みを晴らすかの如く、烏達の肉を食らったのだった。
ガーッ!、ガァァァ・・・・・・! と言う、烏達の断末魔の叫びが霧に包まれた。そして、痛みと恐怖に狂った果てに、血に濡れた黒い羽が宙を舞っていた。
ウウゥゥッ、ウオオォォオ・・・・・・、オオオォォ!
我を忘れ、憎悪に支配された心で、烏達の喉を体を食らうオスの獅子は、最早「神の使い」ではなかった。
烏達を屠っていく度、獅子の純白の体毛は、何と徐々に黒く染め抜かれていった。
激しい憎悪に満ちた、オスの獅子の唸り声と、屠られる烏達の断末魔の叫びが不気味に重なり、周囲に響いていた。そして、メスの獅子の骸の側では、新たな骸が生まれ、血と羽が残酷に散り続けていた。
グルルルッ・・・・・・!
烏達を全滅させた頃、オスの獅子は、──憎悪の化身──、「黒獅子」と化していた。深紅に染まった眼は、強烈な殺意を閉じ込めた光を放っており、風になびく純黒の鬣は、不気味に艶めいていた。
黒獅子は空を仰いで鼻をヒクヒクと動かすと、ニオイのする方向へと進んで行った。
ニオイを頼りに、暫く進んで行った黒獅子の先には、薬草採取に励んでいる、数人の男達が居た。
男達の姿を捉えた黒獅子は、草木に紛れる様に体勢を低くし、気配を殺した。そして、薬草採取に夢中になっている男達との距離を、徐々に詰めて行った。
その時黒獅子は、一切の足音も立てなかった。
ある程度距離を詰めた茂みで、黒獅子はついさっき、烏達を屠った牙を剥き出しにした。
抑制出来ない憎悪をまとった獣の気配に、男達は全く気付いていなかった。
──その後黒獅子は、一瞬にして茂みから踊り出ると、獲物を捕らえて怒りの咆哮を放った。
「何だよビャク・・・・・・。明日、応援に来てくれないのか?」
──夜、所用で百華の家を訪れた旺漣が、戸口で残念そうに言った。
「ごめん、本当に・・・・・・。どうしても行きたいんだけど、演奏依頼で要望された曲の中に1曲、難しいのがあって・・・・・・。依頼日は明後日なんだけど、明日はどうしても、練習しなくちゃいけないんだ。その、1日中・・・・・・。僕はその曲、得意じゃないから」
百華の言う難曲とは、笛吹きの間では有名な、縁起物の曲だった。独特な抑揚が特徴で、素早い指使いと、絶妙な間の取り方を求められるその曲は、「笛吹き泣かせの曲」としても有名だった。
そしてその難易度の高さから、上手く吹ける者は殆ど居なかった。
故に、その曲の演奏を要望されると言う事は、腕を見込まれていると同時に、真の実力者であるか否かを審査される、と言う事でもあった。
百華は、その曲を吹けない事は無かったが、人前で披露した事が1度として無かった為、自信が無かった。無論、過去の演奏依頼でも、要望された事は無い。
つまり、人前でその曲を吹くのは、明後日が初。と言う事になる。
「そうか、そうか。お前は、親友の晴れ舞台よりも、仕事を優先する様な奴だったのか」
「え! そんな・・・・・・」
本気で言った様に見えた旺漣に、百華は思わずドキリとし、落ち込むのと同時に動揺した。
「本当に、申し訳ないって思ってるよ。せめて、依頼日が明後日なら良かったんだけど・・・・・・」
「ムキになるなっつーの」
オロオロと言う百華に、旺漣がピシャリと言った。
「大事な仕事なんだろ? なら、そっちを優先すべきだ。無下に断って、お前の評判に傷が付く様な事、俺は望んでねぇよ」
「・・・・・・」
──百華に、笛の演奏依頼をするのは、大体、街の富豪達だった。
富豪達は百華の評判を買い、演奏依頼をしていたのだが、街の外にある森の中の村から来る者を、何処か下に見ている節があった。故に、直前になって別の奏者に仕事を回す事もあり、急な依頼取り消しはザラだった。
「名も無い小さな村の笛吹きが、街の富豪からの誘いを断った」。と言う話が広まれば、百華は疎か、樹光村の評判さえ落ち兼ねなかった。
そして百華は最悪、演奏依頼が激減する。
旺漣はからかいながらも、それを理解していたのだった。
「安心しろ、ビャク。俺は必ず優勝する。そんで、お前に推薦状を見せてやるよ」
暗い表情している百華に、旺漣は気さくに言った。
「うん、楽しみにしてるよ。ありがとう!」
旺漣の言葉に励まされ、百華は表情を明るくした。
「そんじゃ、俺はもう帰るな。鍛練頑張れよ。本番でヘマしねぇ様にな。
・・・・・・俺もこれから、追い込みの鍛練だ」
「うん。旺漣も明日、頑張ってね」
百華は旺漣に、右の掌を翳した。
「あぁ、気合い入れて行くぜ!」
旺漣は力強く答えると、百華と手を打ち合った。そして、明日への希望を背に、己の家へと帰って行ったのだった。
──大演武当日。暁の頃。
樹光村の広場には、旺漣を中心に、西の街へ繰り出す者達が集まっていた。
大演武の観戦に行く者。観戦序でに遊んで来る者。滅多に行かない西の街へ、唯行きたいだけの者。等々。
そして、その者達の見送りをする者。
大演武の観戦に行く者達の中には、旺漣を目標とする男子達と、その家族の姿もあった。
「旺漣」
見送りの為、広場に来た百華が、母と一愛と共に居る旺漣に、声を掛けた。
大演武仕様の正装をした旺漣の手には、本物の切れ味を抱いた越刀が握られていた。
「よう、ビャク」
「あ、おはよう」
「あら百華、おはよう」
百華に気付いた一愛と旺漣の母も、挨拶をした。
「おはようございます。・・・・・・旺漣、もう行くんだね」
「あぁ、此処から西の街迄は、遠いからな。今出て行けば、昼の少し前には、会場に着く」
大演武が開催されるのは、昼からだった。
前日に西の街入りすると言う、案もあったのだが、金銭を節約する為、それは避けられた。
「百華・・・・・・、こんな日に限って行けないなんて」
旺漣の母は、気の毒だと言わんばかりの目を百華に向けた。
「・・・・・・んな事言ったって、しゃあねぇだろ? 仕事なんだからよぉ」
眉間に皺を寄せながら、息子が母を諭した。
「でも・・・・・・」
「僕も、とても残念です」
苦笑いを浮かべた百華が、旺漣の母の言葉を遮る様にして答えた。
「お義母さん、行きたくても行けない百華の分迄、私達がレンに声援を送りましょう。
・・・・・・私の両親も、仕事があって、見に行けないんです」
少し困った様な表情をした一愛が、旺漣の母と百華を励ます様に言った。
「ね、百華。レンの事は私達に任せて、笛の鍛練を頑張って。
あと、旺漣が優勝出来る様に、神様に祈っててよ」
「勿論ですよ一愛さん。お2人共、旺漣を宜しくお願い致します。・・・・・・旺漣、頑張って」
一愛の言葉で少し元気になった百華は、はっきりと答えると、そのまま旺漣を見た。
「あぁ。推薦状を拝むの、楽しみにしとけよ!」
旺漣は爽やかに頷いた。
その時、
「旺漣、もう準備は良いか?」
西の街へ繰り出す一団の内の、最年長の男が、旺漣に声を掛けた。
「あぁ、良いぞ」
「よし!」
旺漣から了解を得た男は、声を張り上げて号令を掛けると、一団を纏めた。
そして、最年長の男を先頭にして、総勢23人の一団は門を潜り、西の街へと続く道を進んで行ったのだった。
「旺漣、頑張れよー!」
「最高のお土産宜しくー!」
「気を付けてねー!」
残った村人達から色々な声援が飛び、旺漣は笑顔で軽く振り向き、手を振ってそれに答えた。一団の他の者達も、残った村人達に明るく手を振り返していた。
百華も手を振り、遠ざかって行く旺漣達を見送った。
すると、
「本当に行かないんだな」
越刀を携えた告が、百華の隣に来た。
「はい。とても惜しいですけどね・・・・・・。
ですが旺漣は、『仕事を優先しろ』と言ってくれたので・・・・・・」
「そうか・・・・・・」
告は、遠ざかって行く旺漣の背を見詰めた。
旺漣は一団の中で最も長身で、直ぐに姿を捉える事が出来た。
「告さんも、行かないんですか?」
「あぁ・・・・・・。行きたかったが、今日は当番でな」
告はやや口惜しそうに答えると、越刀の石突で地面を軽く突いた。
「そうだったんですか」
「一応、アイツは俺の後輩だからな・・・・・・。見に行きたかったよ。とっくの昔に俺を越えて、強くなった先の晴れ舞台を」
告のこの潔い精神は、村人達から好かれていた。
「旺漣は越刀を手にした時から、よく告さんの話をしていましたよ。『凄い先輩だ』って・・・・・・。今でも、尊敬している筈です」
「そうか、それはありがたいな。
・・・・・・アイツはもう、俺何かよりも、ずっと立派な武人だよ」
穏やかに言いながら、告は昔の事を思い出していた。
──当時、少年だった旺漣の、強い意思を宿して光る目は、誰よりも鋭かった。
旺漣は、指南役の門番がしごいてもしごいても、音を上げず、先輩の武人達と対戦し、地道にその腕を磨いていった。
告も、かつては指南役にしごかれ、越刀の稽古に励んでいた1人だった。
告がその目で見た、旺漣の越刀に対する情熱は、凄まじいものだった。
旺漣は誰よりもしぶとく稽古に励み、告や他の先輩達に負かされると、周囲の目も憚らず、声を上げて泣いた。そして、その悔しさを糧にし、1人、鍛練に励んでいたのだった。
その甲斐あって、旺漣は成人を迎える頃には、告を含めた先輩達を負かす程に強くなっていた。その実力は、指南役を優に凌ぐ程だった。
そして、齢19の時に出場した街の演武で旺漣は優勝し、村一番の武人となったのだった。
──旺漣達一団の姿が完全に見えなくなると、告は百華に視線を向けた。
「そう言えば百華、笛の鍛練はいつから始めるんだ?」
告の言葉に、百華はハッとした。
「そうだった・・・・・・。見送ったら、直ぐに家に帰るんだった。告さん、では」
告に軽く会釈をした百華は、急いで家へと駆けて行った。
「頑張れよ」
百華の背後から、告が声を掛けた。
「ありがとうございます!」
顔だけを告に向けて言い、百華は広場を後にした。
──家に向かっている途中、百華は正面から歩いて来るナズと擦れ違った。
ナズはその時、長髪を全て右肩の前に垂らし、顔を軽く伏せながら歩いていた。
百華の目は、ナズと擦れ違った時、あるものを捉えた。
──・・・・・・え?──
ナズの髪の隙間から僅かに覗く、紅く長い一筋の傷痕が、百華の目に留まった。
「・・・・・・!」
思わず息を呑んだ百華は、横を通り過ぎて行くナズの顔を、凝視してしまった。
それに気付いたナズは、獰猛な目で百華を睨み、
「ジロジロ見てんじゃないわよ!」
と怒鳴った。
「すみません」
一瞬身震いした百華は、直ぐにナズに謝った。
唇を噛んだナズは百華を睨んだまま、傷痕を片手で覆うと、歩き去って行った。
「・・・・・・」
百華は暫くその場に留まり、去って行くナズの後ろ姿を見送っていた。そして、来た道とは別の道を使い、とある場所へと駆けて行った。
「告さん」
百華は軽く息を切らしながら、門番を務めている告に声を掛けた。
「百華、どうしたんだ?」
再び現れた百華に、告は僅かに驚いた。
「告さん、さっき家に戻る途中、ナズと擦れ違ったんですけど、その・・・・・・頬に、大きな切り傷の様なものがありまして・・・・・・」
「傷? あのナズにか?」
百華の言葉に、告は僅かに顔をしかめた。
「はい。・・・・・・もしかしたら、賊に襲われたのかも知れません。若しくは、ザンガみたいに、街の酒場で誰かと喧嘩をしたとか・・・・・・」
百華の推測に、告は唸った。
「どちらもあり得そうだな。
賊だった場合、村の皆に注意喚起を・・・・・・。酒場でのいざこざなら、街の者が来た時、ナズを引っ張り出して謝罪をさせる。
・・・・・・樹光村の評判に傷を付ける訳にはいかない。街で商売をする村人達に障りが出る」
「告さん、賊だった場合、旺漣達は大丈夫なんでしょうか?」
百華は、今にも泣き出しそうな不安一色の目を、告に向けた。
百華の生い立ちを知っている告は、その目に、己の心が僅かに痛んだのを感じた。
告は励ます様に、百華の肩にそっと手を置いた。百華とは対照に、告の表情はとても穏やかだった。
「心配は要らないさ、百華。旺漣は、この村最強の武人だぞ。賊などにはやられない。必ず皆を守る」
「・・・・・・そうですよね」
確信に満ちた告の物言いに、百華は安堵した。
「報告ありがとな。・・・・・・さ、早く家に戻って、やるべき事をやれ。旺漣ががっかりするぞ」
告は百華の背を軽く叩いた。
「はい、ありがとうございました。門番、お疲れ様です」
百華は告に深々と頭を下げると、太陽が顔を出した朝日の中、家に帰って行った。
──眩しい日華に恵まれた昼。
街の行き付けの酒場に居たザンガは、普段より酷く酒を呷り、机に突っ伏していた。
ザンガは、ほんの少し前の時間に、例の商人に会っていた。
そして、「獅子狩り」の失敗を伝えたザンガは、商人から激しく罵倒された。その物言いは、初対面の時とは打って変わった、とても横柄なものだった。
「獅子は必ず狩れる」と豪語していたのに失敗した上、貴重な西洋渡来の猟銃を破損されたと言うのが、商人の怒りを買った様だった。
猟銃の損害分の請求など、村人の男にしたところで期待出来ない事を、商人は分かっていた。
故に商人は、気の済む迄ザンガを罵倒した後、「碌でなしが」と吐き捨てる様に呟いた。そして当然だが何の報酬も渡さず、酒場を出て行ったのだった。
結果的にザンガは、タダ働きをした。
悔しさに苛まれているザンガの頭の中では、商人の「碌でなしが」と言う言葉が、絶えず木霊していた。
──ザンガはその後、理不尽な怒りと酒の勢いに任せ、酒場に居た名も知らぬ客と、掴み合いの喧嘩を起こしたのだった。
──西の街、大演武会場。
その周囲は、お祭り騒ぎとなっていた。
都の衛兵を決めると言う厳かな催しに、沢山の人々が観戦と観光に訪れ、商売の為、様々な露店が軒を連ねていた。
大演武の会場は、街の中央にあった。
地面に白線で大きな円が描かれているだけの簡素な場所で、演武は行われていた。
出場者はその円の中に入り対戦し、それ以外の者は、円の外側に居た。
初戦。旺漣は、西の街とは違う、別の街から来た代表の武人と対戦をしていた。
普段の演武とは違い、本物の越刀を用いて行われている大演武は、相手を気絶させるか、僅かでも体に傷を負わせれば、勝敗が決まる。体に傷を負わせる際は、致命傷でない事が絶対条件だった。
大演武で本物の越刀を用いる理由は、「相手を斬れるか」と言う覚悟を、見る為だった。
「ハッ! ・・・・・・ヤァッ!」
旺漣の対戦相手は、野太い掛け声と共に、一切の躊躇いも無く、旺漣に刃の雨を降らせ続けていた。その攻撃は実に正確で、恐ろしい程の速さだった。
「・・・・・・」
しかし旺漣は、「つまらない」と言わんばかりの冷めた表情で、全ての攻撃をいとも簡単にかわしていた。それも、必要最小限の動きで。
その時の旺漣の目は、まるで真冬の氷の様に冷めていた。
円外では、大演武の観戦に来た人々が、旺漣と対戦相手の男に声援を送ったり、ヤジを飛ばしたりしていた。
「頑張れよー!」
「押せーっ! 行けーっ! かっこいい所見せろ!」
「焦るな、落ち着け!」
攻撃を繰り出し続けているのに、あっさりとかわされてしまっている男には、声援とヤジが。
しかし、
「つまんねー戦いしてんじゃねぇよ!」
「舐めてんのか!」
「それで衛兵になれると思ってんのか!」
反対に、唯攻撃をかわしているだけの旺漣には、ヤジしか飛んで来なかった。
「旺漣の奴、何で反撃しねぇんだ?」
観戦に来た樹光村の男が、同じ村人に声を掛けた。
「さぁ・・・・・・?」
しかし、尋ねられた村人は首を傾げた。
樹光村の村人達は、反撃に出る気配の無い旺漣に、唯々困惑し、声援を送る事は疎か、ヤジさえ飛ばしていなかった。
樹光村近隣の村の武人達も、怪訝な表情を浮かべ、観戦していた。
同じく観戦していた一愛は、旺漣を信じ、真剣な目で勝負の行く末を見守っていた。
しかし、そんな一愛とは反対に、旺漣の母は、緊張と恐怖に引きつった表情で観戦していた。
──もしあれが、一太刀でも当たれば・・・・・・──。そう思うと、母は冷静ではいられなかったのだ。
──旺漣の母は、演武の観戦が余り好きではなかった。
例え木で出来た偽の刃であっても、相手が息子に攻撃を繰り出して来たり、逆に息子が、相手に刃を向けたりするのも、見ていられなかった。
それは、「元夫が人を誤殺した」と言う苦い過去があるから・・・・・・ではないかと、旺漣の母自身は考えていた。
それでも今回、意を決して観戦に訪れたのは、自慢の息子の晴れ舞台をこの目に焼き付ける為だった。
──対戦前、母は息子に、致命傷スレスレの傷さえ負わせない事を約束して欲しいと、懇願した。
旺漣は、それを受け入れた。
──押し潰されそうな程の、母の心配を余所に、相も変わらず攻撃をかわし続ける旺漣の耳には、声援もヤジも、届いていなかった。
代わりに聞こえていたのは、対戦前、男から掛けられた、ある言葉だった。
それが旺漣の耳の奥で、何度も木霊していたのだった。
──しょぼい村の小僧が・・・・・・──。
礼をする為、近距離で互いに向き合った際、小声で吐き捨てる様に言われた。
男の口調と目には、確かな侮蔑か込めらていた。
旺漣は、街で開かれる演武に出場する度、これとよく似た類いの言葉を、投げ掛けられて来た。
しかしその言葉は旺漣の中で、静かな怒りの炎となり、「力」となっていた。
──主に街で催される小規模な演武なら、対戦相手はくじ引きで決められる。故に、村の武人対村の武人、街の武人対街の武人と言う組み合わせになる事が、ザラにあった。
しかし、都の衛兵を決めると言う厳かな演武では、都の役人が対戦相手を決めていた。故に必ず、街の武人対村の武人と言う組み合わせになっていた。
それは、「村の武人は弱い」と言う、偏見から来るものだった。故に、初戦で街の武人に勝利すると言う事は、「都の役人から見た」村の武人達からすれば、登竜門の様なものだった。
確かに、嗜みとして武芸に触れる村人と、本格的に武芸に触れている街人とでは、話にならない。しかし、村の男子全員が、生半可な気持ちで武芸に触れているのではない。
旺漣の様に、確かな夢と情熱を持って武芸に励む者も、少なからず居る。
村出身の武人でも、優勝すれば都の衛兵になれると機会を与えられている一方で、こんな仕打ちを受ける事に、旺漣達村の武人は、不満を抱いていたのだった。
──舐めやがって・・・・・・!──。
旺漣は、向かって右上からの斜め振りを軽くかわした。・・・・・・かわす瞬間、旺漣は、馬鹿にする様に鼻を鳴らすと、僅かに口角を上げ、対戦相手の男と目を合わせた。──分かり易い程の挑発だった。
それは、旺漣が放った罠だった。
「コイツッ・・・・・・!」
相手の男の目が怒りで吊り上がり、眉間には深い皺が刻まれた。旺漣の挑発に、男はうっかり、我を忘れてしまったのだ。
男は素早く、中段の構え(地面と平行に越刀を持つ)を取った。
その瞬間、会場の空気が氷付いた。それは、場合によっては、致命傷を負わせ兼ねない構えだったからだ。
「フッ・・・・・・!」
男は感情に操られたまま一歩踏み込むと、旺漣の胸を狙い、刃を突き出した。
「レン!」
旺漣の母の、つんざく様な叫び声が会場に響いた。そして、両手で顔を覆った一愛が、それに続く様に悲鳴を上げた。他の村人達も、情けない声を漏らしていた。
しかし旺漣は左脇を開くと、突進して来た男を、左腕の下を潜らせてかわした。それは例の如く、必要最小限の動きだった。
しかし旺漣は、男が左腕の下を通過する際に足を引っ掛け、男を派手に転倒させた。
「!」
越刀を両手で握っていた上、突進する勢いを利用された男は、手を突く事も出来ず、体を地面に激突させた。その際、越刀は男の手から放り出され、僅かに手の届かない所へと、転がっていった。
「・・・・・・っ!」
男は、痛みで一瞬動けなくなった。
その隙を、旺漣は見逃さなかった。
旺漣は転がっている男に接近すると、素早く越刀を構えた。・・・・・・その時旺漣は、「オニワコ」と化していた。
その恐ろしい形相は、凄まじい程の気迫を放ち、目は殺気に満ちていた。
旺漣の反撃に気付いた男は、大慌てで体を仰向けにした。そして両腕で顔を覆い、情けない叫び声を上げた。
旺漣はその時既に、男に斜め振りを下していた。
──斬られる・・・・・・!──。
戦いた男は、きつく目を閉じた。
しかし旺漣は、男が想像する程、斬り付けたりはしなかった。
寸手の所で力を抜いた旺漣は、男の片腕に、まるで猫が引っ掻いたかの様な、浅い斬り傷を作った。
その斬り傷から、細く血が溢れた瞬間、
「そこ迄!」
審判が右手を上げ、旺漣に勝利を言い渡した。
その瞬間、円外の樹光村の村人達が歓声を上げた。
「馬鹿野郎、ハラハラさせんな!」
「良い戦術だったぞー!」
「次も頑張れよー!」
村人達の思い々いの歓声に紛れ、旺漣の母と一愛は、言葉無く、安堵の表情を浮かべていた。
しかし、それ以外の観戦者は、型破りな旺漣の戦術に呆気に取られ、言葉を失っていた。
初戦に敗れた対戦相手の男は、仰向けに硬直したまま、口をポカンと開け、空(くう)を見詰めていた。
「オニワコ」から戻った旺漣は、そんな敗者には見向きもせず、円の中央に戻ると審判に礼をして、円外へと出て行った。
「たでーまー(ただいま)」
──円内から出た旺漣が、母と許嫁、そして樹光村の村人達の所へ行くと、1人の男子が旺漣の元へ駆けて来て、旺漣の足に無邪気にしがみ付いた。
「おうれーん! 勝ったのおめでとう!」
その男子は、旺漣を目標として、日頃越刀の鍛練に励んでいる、樹光村の村人だった。
「あぁ、ありがとう」
旺漣が爽やかに礼を言うと、もう1人の樹光村の男子がやや離れた位置で、
「旺漣、俺、もうちょっとかっこいい所見たかったよ!」
と大声を出し、やや膨れっ面になった。その男子も、旺漣を目標の武人にしていた。
「馬鹿野郎、初戦で全力を出して、体力を無駄に消耗させる奴が居るか」
おどけながら、旺漣は答えた。しかし、直ぐに真面目な顔付きになると、
「・・・・・・相手の実力を推し量って、1番良い戦い方を選ぶのも、立派な武人の条件だ」
と、諭した。
膨れっ面の男子は、納得した様なしていない様な、複雑な表情になると、
「分かった・・・・・・」
と、小さく頷いた。
その様子を見ていた樹光村の村人達は、旺漣はやはり、村一番の武人だと改めて感じていた。
「旺漣、次の対戦、一緒に見よう!」
旺漣の足にしがみ付いていた男子は、しがみ付くのをやめると、元気良く旺漣に言った。
「あぁ、良いぞ。・・・・・・少し疲れたから、休憩させて貰うわ」
旺漣から了承を得られ、男子は飛び跳ねて喜んだ。
「俺も、俺も一緒に見る!」
「僕も。旺漣、肩車して」
「旺漣、私も一緒に見たぁい」
初戦を終えた旺漣の元には、次から次へと、同じ村の男子や男児、女児や女子達が集まって来た。
「本当元気だな、お前達。
・・・・・・ちょっと、一愛から竹筒を貰って来るから、少し待ってろ」
旺漣はそう言うと、元気よく返事をした子供達から離れ、母と一愛の元へと、歩み寄って行った。
しかしその途中、旺漣は先程の膨れっ面の男子の前に来ると、その男子の目の高さ迄腰を落とし、己の手を、男子の両肩に置いた。
「!」
その男子は落ち込んでいたのか、少し俯いていた。しかし突然、旺漣に両肩を掴まれ、驚いて顔を上げた。
男子が見た旺漣は、とても穏やかな表情をしていた。
「ごめんな、あんな戦い方で。・・・・・・最終戦で、必ず良い所見せるから、期待していてくれよ」
旺漣は、優しく言った。
「・・・・・・うん」
男子は、やや驚きながらも素直に頷くと、表情に光を取り戻した。
旺漣は片方の手で男子の肩を軽く叩くと、再び腰を上げて母と一愛の元へと行った。
2人は最良の笑みと言葉で、旺漣を迎え入れた。
──その頃、百華は家で、例の縁起物の曲の鍛練に励んでいた。
立って笛を吹いている百華は、時折、机上の譜面をチラ見していた。
そして何度も吹いて、百華は、やはり自分は、この曲が苦手だと言う事を痛感していた。
──嗚呼っ、クソ・・・・・・!──。
百華は悔しさに、心の中で地団駄を踏んだ。
息が、持つべき所迄持たない。指を速く動かす箇所で、まごつく。間の取り方が悪い。焦ってしまい、度忘れをする。
それでも百華は必死に鍛練をし、その完成度を少しずつ上げていった。
──暫くして百華は笛を吹くのをやめ、体を休めた。
「ハァ・・・・・・」
ずっと吹きっぱなしだったので、体は酷く疲れており、深く長い溜め息が出た。
「・・・・・・」
百華はふと、外へ出た。そして西の空を見上げた。
昼の空は、分厚く千切れた白い雲が、点々と泳いでいた。
──旺漣、勝ってくれよ・・・・・・──。
百華は、旺漣が出場した過去の演武を思い出しながら、心の中で強く祈った。
──昼の頃より日が傾き始めた、西の街。大演武会場。
その後も勝ち続け、最終戦に出場した旺漣は、初戦の時とは打って変わり、対戦相手と激しく越刀を振り合っていた。その際周囲には、刃と刃がぶつかり合う鉄の音が何度も響いては、円外からの声援と共に消えていった。
最終戦とだけあって、円外には初戦の時よりも沢山の人々が、観戦に集まっていた。
対戦相手の男は、西の街代表の武人だった。
男は、最終戦に迄残っているだけあって、相当な手練れだった。旺漣は、過去に例の無い程の集中力で対戦していた。
旺漣は、一瞬の隙を突いて放たれる、男の電光石火の一撃に苦戦していた。刃が何度も、己の頬や腕、脇腹を紙一重でかすめ、僅かに触れた衣が斬られた時には、冷や汗をかいた。
どれ程浅くとも、肉を斬られれば一瞬で勝敗がついてしまう・・・・・・。旺漣は、必死だった。
──真上から、刃。旺漣はその刃の千段巻を、柄の部分で受け止め、弾いた。そしてすかさず、斜め振りを。
しかし、後方に飛ばれ、かわされた。
旺漣は舌打ちをした。
齢40辺りの対戦相手の男は、己よりも頭1つ分上背があり、武人らしい屈強な体格をしていた。そして、その肉体に宿る目は、鷹の様に鋭かった。
旺漣は刃を受け流しながら、時に身を翻しながら、男の動きを凝視していた。
男の風貌や越刀の振り方は、旺漣から、何故か冷静さを奪っていた。
「クソッ!」
旺漣は声と共に胴斬りを放った。しかし、受け止められた。
円外で観戦をしている樹光村の村人が、何かに気付いた。
「旺漣の奴、何かおかしくないか?」
「あぁ・・・・・・。焦ってるにしろ、前の対戦より攻撃が少し雑だぞ」
「どうしちまったんだよ・・・・・・?」
村人達は、少し困惑しながらも、旺漣に声援を送った。
「おうれーんっ、頑張れー!」
男子や男児、更に女子や女児達も手に汗握り、声援を送っていた。
当然、対戦相手の男も、周囲から声援を送られていた。
「やれーっ! 村の武人何か、ぶっ潰せー!」
「負けるなー!」
男の耳に届いていたその声援は、旺漣を見下す悪しき心を更に黒くした。
「随分と骨があるじゃないか、村の武人!」
男は馬鹿にした様に言うと、旺漣に側面打ちを繰り出した。
旺漣は、やや後方に飛び、それをかわした。しかしその際、刃に僅かに触れた前髪の先が斬られた。
「・・・・・・っ!」
落ちて行く髪が、ちらと視界に入った旺漣は肝を冷やした。
──レン、どうしたの?──。
円外に居る一愛が、声援も送らず、困惑の表情で旺漣を見ていた。
──まさか、あの子・・・・・・──。
対戦相手をじっくりと観察していた母が、何かに気付いた。
旺漣は下段の構え(切先を下に)から、刃を上に振り上げた。
しかしそれは、男の帯の端を僅かに斬り裂いただけで終わった。
「ふん・・・・・・」
男は不機嫌そうに鼻を鳴らした。
──クソ親父・・・・・・──。
旺漣は声無き怒りを、心の中で呟いた。
何と、男が旺漣に彷彿とさせていたのは、この世で最も忌まわしき存在だった。
──クソ親父・・・・・・、クソ親父・・・・・・!──。
刃を受ける度、かわす度、憎き父親の姿が、旺漣の視界にチラつき、冷静さを奪っていったのだ。
対戦相手の男は無論、旺漣の父とは別人である。
──旺漣は昔、母に手を引かれ、父が居る街の稽古場に赴いた事があった。
其処で旺漣の父は、衛兵仲間の1人と対戦をしていた。
油っ気の無い黒髪を汗で存分に濡らしながら、己の背丈よりも長い越刀を振る、父の姿。・・・・・・当時少年だった旺漣は、完全に見惚れていた。
相手からの素早い攻撃に臆する事も無く、向かって行く父の姿と、その越刀を自在に操る強かさは、旺漣の目には美しく映っていた。
──旺漣のお父さんはね、街の皆を守るお仕事をしているのよ──。
鍛練の様子を、噛み付く様な目で見ている息子に、母が微笑みながら言った。
──俺もいつか、お父さんみたいになる!──。
少年旺漣は目を輝かせながら、母に言ったのだった。
──ならねぇよ・・・・・・──。
旺漣の脳裏に、人を誤殺した後の父の姿が鮮明に甦った。
その瞬間、旺漣は苛立ちと悔しさで、歯を食い縛った。
男の右肩に狙いを定め、放った突きは、受け流されてしまった。
──なる訳ねぇだろうが・・・・・・──。
街の人間を守れず、「街の皆」から罵倒され、忌避された父。
変な自尊心から、遺族の元へ謝罪にも行かなかった上、自暴自棄の果てに、母と己に暴力を振るった憎き存在。
男からの攻撃。
旺漣は腕を開く様にして、それを弾いた。
しかしその瞬間、男は弾かれた反動を利用し、越刀を素早く反対に持ち変えた。そして中段の構えになると、石突で旺漣の胸を強く突いた。
「ぅあ゛っ・・・・・・!」
旺漣は突かれた瞬間、激痛で一瞬呼吸が止まり、体が後方へと激しくぐらついた。
「フッ・・・・・・」
それを捉えた男は、不適な笑みを浮かべた。そして再び素早く越刀を持ち変えると、向かって右からの斜め振りを下したのだった。
会場。観戦をしている殆どの者が、その瞬間、西の街代表の武人の勝利を確信した。
そして、樹光村の村人達の顔は、敗北の気配に青ざめていた。
しかし、
「レン!」
悲鳴に似た母の叫び声が、息子の耳の奥に突き刺ささった。
その瞬間、旺漣は覚醒した。
──誰がテメェみたいになるかぁっ!──
旺漣はカッと目を見開くと、足を踏ん張らせ、持ち堪えた。そして、向かって斜め右上から斬り下される刃に向かい、左下から勢い良く越刀を振り上げた。
「うおおお━━━!」
叫び声と共に放たれた旺漣の一撃は、男の斜め振りを弾き飛ばした。
「!」
男は、思わず息を呑んだ。
その余りの衝撃で、男の手から解放された越刀は、宙を舞った。そして、体勢を崩した男の遥か後方の地面に突き刺さった。
旺漣は、完全な隙を見せた男の懐に飛び込んだ。・・・・・・その時旺漣は、完全な「オニワコ」と化していた。
そして素早く越刀を短く持つと、刃の峰で男の首筋を強打した。
「──っ!」
打たれた瞬間、脳に強い衝撃を感じた男は、音無き呻き声を漏らし、白目を剥いた。
・・・・・・男が無様に崩れ落ちた瞬間、
「そこ迄!」
審判が右手を上げ、旺漣に勝利と、「都ノ衛兵推薦権」授与決定を言い渡した。
その瞬間円外から、どっと歓声が湧き起こった。
「村の武人が勝ったー!」
「すげぇ!」
「良い戦いだったぞー!」
観戦者達からの称賛と祝福の言葉は、止む気配が無かった。
旺漣の勝利が言い渡された時、誰よりも早く歓声を上げたのは、無論、樹光村の村人達だった。
「旺れーん、最高だったぜー!」
「おめでとー!」
「旨い酒、奢ってやるよー!」
樹光村の村人達は、思い々いの祝いの言葉を送った。
「・・・・・・」
大量の汗をかき、呼吸を乱していた旺漣は、大きく息を吸うと、姿勢を正した。そして、樹光村がある方角の空を仰いだ。
──ビャク・・・・・・、勝ったぞ──。
まだ息を切らしながらも、僅かに口角を上げた旺漣は、とても清々しい表情をしていた。
「嘘だろ・・・・・・」
「アイツ、負けたのか?」
会場の割れんばかりの歓声の中、旺漣の対戦相手を応援していた人々は、失望の言葉を漏らしていた。
旺漣は村出身の武人初の、「都ノ衛兵推薦権授与」と言う快挙を成し遂げたのだった。
「都ノ衛兵推薦権」獲得の喜びを胸に、旺漣は審判に礼をすると、円外へと出た。
──戻って来た旺漣は、村人達から拍手と祝福の言葉で迎え入れられた。
しかし、戻って来た旺漣を最初に迎え入れたのは、母だった。母のその顔は、喜びの涙で濡れていた。
「レン・・・・・・」
歩み寄って来た母は、疲れ切った息子の体を、優しく抱き締めた。そして爪先立ちをし、己より背の高い息子の耳元で、
「レン・・・・・・、ありがとう」
と、震えた声を漏らした。
感謝の気持ちの余りの高ぶりに、母はそれだけを言うのがやっとだった。
「あぁ・・・・・・」
旺漣は、母の背に己の左腕を回した。
──アイツを越えたんだ・・・・・・俺は──。
その思いに、まだ越刀を握っている旺漣の右手に力が入った。
旺漣は母に抱き締められたまま、母の背の向こうに居る一愛に、柔らかな視線を送った。
一愛は泣いてこそなかったが、目は涙で潤み、口元には笑みが浮かんでいた。
──良かったね、レン──。
一愛は言葉に出さず、目でそれを伝えた。
旺漣は、頷いてそれに答えた。
──一愛、ありがとな──。
母から体を放した旺漣は、再び空を仰いだ。
いつの間にか、更に西に傾いていた日は、夕刻の色に変わり始めており、旺漣に、百華との在りし日の「約束」を追憶させていた。
──その後旺漣は、「閉会ノ儀」で都の役人から「都ノ衛兵推薦権」の、推薦状を授与された。そして、母と一愛、樹光村の村人達と共に飯屋に入り、少しばかり体を休めた。
村人達は、旺漣の快挙とその祝福を理由に、飯屋でどんちゃん騒ぎをしていた。
そして日が殆ど沈み、仄暗い空に紅い光だけが残っている頃、旺漣達一団は樹光村を目指し、西の街を後にしたのだった。
──丁度その頃、1人の青年が、樹光村を訪れていた。
その青年は門番をしている告に、何かを話していた。
森に怪しげな闇が迫って来ている頃に訪れた青年の、その話を、告は険しい表情で聴いていた。
「・・・・・・そうか、伝達ご苦労。
直に夜が訪れる。今村に戻るのは、危険だ。今夜は、この村に泊まって行くと良い」
そう言い告は、共に門番を務めていた後輩に声を掛けた。
青年はその門番に案内され、樹光村の中へと入って行った。
「・・・・・・」
その2人を見送った後も、告は険しい表情をしたままだった。
そんな告が、やや唸りながら、足下に視線を落とした時だった。
「告さん・・・・・・」
小さいが、聞き覚えのある声で名を呼ばれ、告は顔を上げた。
「・・・・・・! レグマ? どうしたんだ・・・・・・?」
告は、思わずぎょっとしてしまった。
やや遠くに立っているレグマの風貌は、それはそれはみすぼらしいものだった。着崩されている衣は泥で汚れており、所々擦りきれていた。その上、若干痩せた様に見えたレグマは、泣き腫らした目をしていた。その顔は洟を垂らし、髪は酷く振り乱れていた。
「告さん・・・・・・、告さん・・・・・・、俺は・・・・・・!」
フラフラになりながら、レグマは告に歩み寄った。
その様子に、告は本能的に、只ならぬ事態の気配を感じていた。
レグマは告のやや手前迄来ると、力尽きたのか、両膝からガクッと地面に崩れ落ち、座り込んでしまった。
告はそんなレグマに駆け寄り、腰を落とすと、左手をレグマの肩に置いた。
「どうしたんだ!」
告は大声を上げ、レグマの体を揺すった。
その声にレグマは顔を上げると、大粒の涙を流し、しゃくり上げながら在りし日の「大罪」を話した。
それを聴いた告の顔は、「険しい」を通り越して、青く白くなっていった。越刀を握っている右手は震え出し、心ノ臓は速く鼓動しているのに、全身に前例の無い寒気が走っていた。
話を聴き終えた告は間髪を容れず、今度はレグマの腕を強く掴んだ。
「レグマ、まさかとは思うが、その場所は・・・・・・」
──氷輪が浮かぶ夜空には、分厚く千切れた雲が浮かんでいた。
雲はまるで氷輪を避けるかの様に泳いでおり、そのお蔭で、森には銀色の月明かりが降り注いでいた。
西の街からの帰還途中。
誇らしい戦利品を得て、林道を歩いている旺漣と、その一団。
獣避けの香を焚きながら先頭を歩いている、一団の最年長の男が、歩きながら後方を向いた。
「予定より早く村に着きそうだ。皆、頑張って歩いてくれよ」
「はーい」と、皆の素直な返事を聞くと、最年長の男は再び前を向いた。
一団の皆は、先頭から漂って来る獣避けの香に身を包みながら、思い出話に花を咲かせていた。
「あー、1泊してぇ・・・・・・」
「バーカ。お前も皆も、そんな金無ぇだろ?」
「2回戦の奴、覚えてるか?」
「あぁ、アイツは出す技を間違えたな」
「西の街名物の菓子、買った?」
「買った買った。友達にあげる分もあるよ」
遊び疲れ、眠ってしまった我が子を背負いながら歩く者。西の街の土産を、手にしている者。大演武観戦の思い出話に、熱が入っている者。羽目を外して飲んだ酒で、ほろ酔い機嫌となった者。菓子を頬張りながら歩く女子。等々。
それぞれに、忘れられぬ思い出を刻んだ者達が、月明かりに照らされた林道を歩いていた。
「月が出てて良かったな。灯を使わなくて良いし、何より歩き易い」
鞘に収められた越刀を携えた旺漣は、氷輪を仰ぎながら、直ぐ隣を歩いている一愛に話し掛けた。その旺漣の左手には、紐で丁寧に留められた推薦状が握られていた。
「そうね。これなら安全に帰れそう。
・・・・・・レンは村に着いたら、直ぐに百華の所に行くの?」
「そうしたいんだけどなぁ。アイツに、これを見せてやりてぇし・・・・・・」
言いながら旺漣は、推薦状を己の目の高さ迄持ち上げた。
「でもアイツ、きっとまだ鍛練の最中だろうから、邪魔したくねぇんだよな」
「じゃあ、やっぱり明日見せるとか」
一愛の言葉に、旺漣は渋い顔をした。
「アイツ・・・・・・、明日はいつ村に戻って来るのか、聞きそびれちまったんだよ」
「えー!」
息子と、将来の義娘のたわない会話の様子を、母は、2人の直ぐ後ろで楽しそうに見ていた。その顔には自然と、穏やかな笑みが浮かんでいた。
その時、
「旺れーん、推薦状、見せてー!」
と、1人の男子が元気良く旺漣の隣に来た。
すると、
「俺も、俺も見たい!」
「僕にも見せてよ、旺漣」
「私も!」
次から次へと、旺漣の周囲に村の男子と女子達が集まって来た。
しかし旺漣は、
「駄目だ。お前達より、ビャクの方が先だ」
と、意地悪くに言った。
「えー! 何でだよ? イチエとおばさんには見せてたのにー!」
「ずるーい」
男子と女子達は、不満げな表情を作り、各々好きな事を口にした。
「良いじゃんかよー」
「駄目だ」
「意地わるー」
「言ってろ」
旺漣と男子の遣り取りに、一愛は思わず笑ってしまった。
「ごめんね。旺漣は変な所で頑固だから」
一愛から謝られた男子は、膨れっ面を作ったが、少しだけ大人しくなった。
その一部始終を見ていた旺漣の母は、息子の将来の家族の風景を想像していた。
──そうして一団の各々が、談笑しながら林道を歩いている時だった。
ガサッ・・・・・・。
樹光村へと続く道の、向かって右側の森の奥から突然、小さな音がした。
「ん?」
しかし、その小さな音に気付いたのは、一団の最後尾を歩いていた、ほろ酔い機嫌の男だけだった。
男は歩みを止めると、森の奥を凝視した。
しかし、木々に月光を遮られた森の暗闇からは、何も見えなかった。
「・・・・・・?」
男は凝視するのをやめた。そして、己を置いて行く一団に追い付こうと、再び歩き出そうとした、・・・・・・その時だった。
グルルゥッ・・・・・・!
──男が凝視していた森とは反対側の森から、低い唸り声と共に、黒い獣が男に飛び掛かった。
「!」
音も無く、目にも留まらぬ速さで現れたのは、黒獅子だった。
「うわぁぁぁあっ!」
「! 何だ?」
男の叫び声に驚いた一団が、振り向いた。
「は・・・・・・?」
「え?」
その瞬間、一団は戦慄に凍り付いた。
誰もが、「言い伝え」で1度は聞いた事がある巨大な黒獅子が、其処に居たのだ。
ウウゥゥゥ・・・・・・!。
黒獅子は、仰向けでジタバタと抵抗している男を、見るからに強靭そうな前肢で林道に押さえ付けていた。
「うわあぁ・・・・・・、あぁ!」
抵抗する男の顔は、恐怖一色に、涙で濡れていた。
次の瞬間、黒獅子は男の喉元のやや下に食らい付いた。
「あぁ・・・・・・っ!」
一団の誰かが、震えた声を漏らした。
そして、
「やめろ!」
思わず、旺漣が叫んだ。
しかし、
「あ゛ぁ゛・・・・・・っ!」
噛み付かれた激痛に潰れた声を漏らした男は、必死の抵抗も虚しく、肉を抉られたのだった。
醜い断末魔の叫びと共に、周囲に鮮血が飛び散り、最後の最後迄抵抗していた男の四肢は、ドサリと林道に落ちた。
「──っ!」
「あぁ・・・・・・!」
「うっ・・・・・・」
「ひぃっ!」
凍り付き、動きを奪われた一団は、恐怖の声を漏らす事は出来たが、それ以外は何も出来なかった。
──森に響いた、人間とは思えない男の叫び声は、樹光村の門番達の耳に迄届いていた。
「!」
何か話し込んでいた、告とその後輩は、その瞬間話すのをやめた。そして、叫び声がした闇の道に目を遣った。
「先輩、今のは・・・・・・」
青白い顔をした告の後輩が、声を震わせながら告に尋ねた。
その視線はずっと、叫び声のした方角に向けられていた。
「お前は村の武人を集められるだけ集めて森へ行け! 俺は、銃使いを呼んで来る!」
「はいっ!」
早口で捲し立てた告の指示に、後輩の門番は大声で返事をすると、村の中へと駆けて行った。
告は村の中へ足を踏み入れると、後輩の門番とは真逆の方向へと駆けて行った。
「クソッ!」
駆けながら告は、思わず叫んだ。
──頼む旺漣・・・・・・、皆を守ってくれ!──。
告は心の中で何度も、己より強かな後輩に祈りを飛ばした。
──突然眼前で始まった、凄惨な一部始終を見てしまった一団は、遂に叫び声と悲鳴を上げた。
黒獅子は喉元を抉った時の血を口から滴らせたまま、深紅に染まった恐ろしい眼を一団に向けた。
その瞬間、
「皆逃げろっ!」
旺漣が叫んだ。
村人達は、その言葉に弾かれた様に、各々一斉に逃げ出した。先頭の男は獣避けの香が入った容器を落としたが、気にも止めずに駆け出した。旺漣の母と一愛も、青白い顔で逃げ出した。
しかし、旺漣だけは逃げなかった。
旺漣は衣の帯に素早く推薦状を挟めると、越刀の鞘を抜き捨てた。
そして、
「うおおおおーっ!」
雄叫びを上げながら、黒獅子に向かって行ったのだった。
「レン!」
逃げていた母はそれに気付くと振り返り、足を止めた。そして、黒獅子に向かって行った息子の背に、思わず手を伸ばした。
「オニワコ」の形相になっていた旺漣はそれに気付かず、黒獅子との距離を詰め、刃を高く振り上げ、斜め振りを繰り出した。
「ハッ!」
風を斬る音がしたその一撃は、大演武の対戦の時よりも、速く、そして重いものだった。
しかし黒獅子は、宙へ高く飛び上がると、いとも簡単にそれをかわした。
「・・・・・・!」
それは、人間の目では捉えられない程に速かった。
旺漣は、思わず目を見開いた。
──消えた?──。
黒獅子のその動きに、旺漣は一瞬、硬直してしまった。
黒獅子のその身のこなしは、人間の比ではなかった。・・・・・・いや寧ろ、人間などでは話にならない。
溢れんばかりの憎悪を糧に生まれる、黒獅子のその素早さは、「神の使い」と言われるに相応しい、正に神速だった。
狙ったのか、偶然か、黒獅子は越刀の死角に着地した。
そして、直ぐに身を低くすると、一瞬だが隙を見せている旺漣に、勢い良く飛び掛かった。
「くっ・・・・・・!」
身を翻した旺漣は、直ちに越刀での防御を試みた。
しかし、
オオォォオッ!
咆哮と共に放たれた、黒獅子の前肢の鋭利な爪が、旺漣の胸を切り裂いた。
「──っ!」
その瞬間旺漣は、手から越刀を滑り落とし、ガクッと、うつ伏せに倒れ込んだ。
黒獅子は、旺漣の背後に着地した。
「う・・・・・・っ!」
肉と共に切り裂かれた衣から覗く4本の傷から、ドクドクと溢れた血は、布地に染み込み、林道に滴った。
まるで火の刀で斬られた様な、経験した事の無いその激痛に、旺漣の顔は酷く歪んだ。
「嗚呼・・・・・・、レン!」
黒獅子の容赦無い一撃に倒れた息子を見た母は、悲鳴を上げた。
しかしそれが、黒獅子の注意を引いた。
グルルルッ・・・・・・。
黒獅子は旺漣の母と目が合った瞬間、まだ息のある旺漣を無視し、母に襲い掛かったのだ。
血を吐く様な母の叫び声が走り、激痛に悶えていた旺漣は顔を上げた。
「──!」
旺漣は、母が黒獅子に喉元を抉られる瞬間を見てしまった。
黒獅子は飛び掛かった瞬間に、旺漣の母の喉元に食らい付き、一瞬で肉を抉っていた。肉が引き裂かれる残酷な音がした後、母の体は、何の抵抗も無く、林道に無様に崩れ落ちた。・・・・・・それは無論、即死だった。
「おふく・・・・・・っ!」
弾かれた様に、旺漣は急いで起き上がろうとした。
しかし、その拍子に体に走った激痛のせいで、息が出来なくなった。
林道に再び倒れた旺漣の目からは、涙が溢れた。
「馬鹿野郎・・・・・・」
悔しさに食い縛った歯の隙間から、声が漏れた。
「逃げろって・・・・・・、俺は・・・・・・」
ゥオオオォォオオオッ! オオォォオ!
黒獅子は逃げた村人達にあっと言う間に追い付くと、己よりひ弱な者達の体を、爪や牙で捕らえ、屠っていった。
「うわぁぁぁあ゛! あ゛ぁ゛っ!」
「きゃああぁぁっ!」
「痛ぇ、痛ぇよっ!」
「誰か・・・・・・! 誰か助けてっ!」
「イヤ━━━ッ!」
喉元に食らい付かれた者。爪で足を引き裂かれた者。細き腕を噛み千切られた者。目をやられた者。
幼い子供は、何と、生きたまま頭を噛み砕かれた。
オオォオッ! ウオオ!
黒獅子の咆哮と、襲われる村人達の叫び声が、身の毛もよだつ不協和音となり、夜の森に響いた。
黒獅子が屠る度、徐々に少なくなっていく人間の叫び声に対し、林道には、流血して倒れる人間の数が増えていった。
人間の血の臭いと、黒獅子には無力な獣避けの香が混ざり合い、吐く様な異臭が漂っていた。
「うっ・・・・・・!」
旺漣が激痛に堪えながら、ヨロヨロと立ち上がったその時、前方。
「どけっ!」
黒獅子から逃げる村人の男が、同じく逃げている一愛の背を、無情にも突き飛ばした。
「あっ!」
一愛は木の根に足を取られ、転倒した。
しかし男は、そんな一愛を気にも留めず、そのまま行ってしまった。
「一愛!」
旺漣は思わず叫び、駆け寄ろうとした。
しかし、
「・・・・・・っ!」
進む度、胸の激痛が脈打ち、頭がクラクラした。
その時旺漣は呼吸も荒く、尋常ではない量の油汗をかいていた。
「うぅ・・・・・・」
転倒した拍子に足を挫いてしまった一愛は、立ち上がる事が出来なかった。
──その一愛に、黒獅子が狙いを定めた。
目と鼻の先。
深紅の中心に浮かぶ黒獅子の黒目と、恐怖と絶望に染まった一愛の涙目が、交錯した。
──マズイ・・・・・・!──。
最悪の緊張感を感じ取った旺漣は、更に歯を食い縛り、拳を強く握り締めた。そして体の痛みを端に追いやり、黒獅子に向かい、駆け出したのだった。
──黒獅子は憎しみに燃える眼で、牙を剥き出しにすると、低く唸った。
グルルゥ・・・・・・!
そして、倒れている一愛に飛び掛かった。
「きゃぁぁああ!」
一愛は両腕で顔を覆い、悲鳴を上げた。
黒獅子に容赦無く屠られる、地獄の苦しみを覚悟していた。・・・・・・しかし、
「させるかっ・・・・・・!」
襲われる寸手の所で、旺漣が追い付いた。
オオォ!
旺漣は、一瞬宙に浮いた黒獅子の背後から飛び付き、両腕で黒獅子の首を捕らえた。そして、黒獅子が着地する軌道をずらしたのだった。
着地に失敗した黒獅子は、一愛の直ぐ側で派手に倒れた。
ウオオォ・・・・・・、オォッ!
そして黒獅子は、己の体にしがみ付いている旺漣を振り払おうと、暴れに暴れたのだった。
「うっ・・・・・・、あぁ!」
しかし旺漣は、激痛に歯を食い縛りながら必死にしがみ付き、首を締めていた両腕を決して離さなかった。
その間一愛は、恐怖に体を震わせながらも地を這い、その場から離れようと試みていた。
「一愛・・・・・・、早く・・・・・・逃げろ!」
絞り出す様に、旺漣が言った時だった。
ゥオオオオオオオッ!
咆哮した黒獅子が、突然、棹立ちになった。
「は・・・・・・!?」
そして次の瞬間、黒獅子は前肢を勢い良く林道に叩き付け、腰を浮かせた。
「あっ・・・・・・!」
旺漣はその衝撃で、思わず両腕を離してしまった。そして、一瞬宙を舞った体は、林道に仰向けで放り出された。
「あ゛ぁ゛っ!」
背中から林道に叩き付けられた瞬間、旺漣の体には、気絶しそうな程の激痛が走った。そのせいで、旺漣は動けなくなった。
ウウゥゥ・・・・・・ッ!
解放され、自由になった黒獅子は、唸り声を上げながら旺漣に飛び掛かった。
「あぁっ・・・・・・!」
そして前肢で、負傷した旺漣の体を林道に押さえ付けた。
「レンっ!」
一愛が声を上げた、次の瞬間、
オオォォーッ!
黒獅子は、旺漣の右肩に食らい付いた。
そして、まるで腐り掛けの木の枝を噛み砕くかの様に、旺漣の骨を砕き始めたのだった。
「あ゛あ゛あ゛ぁ゛ぁ゛あ━━━!」
ミシミシ、バキバキと、骨が砕かれていく残忍な音が、直ぐ耳元で響き、旺漣はその例え様の無い激痛に、喉が潰れ兼ねない程の叫び声を上げた。
──コイツ・・・・・・、知性が・・・・・・!──。
旺漣の肩から溢れ出した血飛沫は、黒獅子の眉間に迄掛かっていた。
「イヤァァアアアアアアアッ!」
その光景に一愛は目を瞑り、耳を塞いでうずくまると、途切れんばかりの悲鳴声を上げた。
しかし黒獅子は、そんな一愛には眼もくれなかった。
ウウゥ・・・・・・ッ!
右肩から牙を離した黒獅子は、次に、旺漣の左脇腹に、その牙を突き刺した。そして肉を抉った。黒獅子は、旺漣には特に容赦が無かった。
「──っ!」
骨を噛み砕かれた時とは違う、肉を千切らる激痛に、旺漣は遂に声を奪われた。
旺漣は、胸、右肩、左脇腹の激痛に、全神経が集中し、もう、指1本動かす事さえ出来なくなっていた。
「レン・・・・・・」
一愛は耳を塞ぐのをやめ、そんな旺漣に届かぬ手を伸ばした。
その時旺漣の虚ろな目は、寸手の所で雲に飲み込まれそうになっている氷輪を、ぼんやりと捉えていた。
完全に弱った旺漣に、止めを刺そうとした黒獅子が、旺漣の喉元に食らい付こうとした、・・・・・・その時だった。
つんざく様な、重く鋭い銃声が森に響き、一瞬にして仰け反った黒獅子の右前肢の付け根から、血飛沫が上がった。
グオオォ・・・・・・ッ!
撃たれた衝撃で、旺漣の体から離れた黒獅子は、林道に仰向けで倒れた。
「!」
銃声に驚き、咄嗟に耳を塞いだ一愛は、混乱した頭でその光景を呆然と見ていた。
次の瞬間、
「うおおおおおっ!」
銃弾が飛んできた方向から、告を含めた樹光村の5人の武人達が、雄叫びを上げて現れた。
黒獅子に向かって行く武人達の顔は、般若さながらだった。
突然の出来事に、呆気に取られている一愛の近くに、武人達から少し遅れて銃使いの男が現れた。
銃使いは林道に膝を付くと、素早く、次の発砲の準備に取り掛かった。
武人集団の先頭を走り、黒獅子に向かって行った告は、越刀を大きく振り上げると、気合いと共に、重い斜め振りを下した。
「ハッ!」
告のその一撃は、ヨロヨロと立ち上がった黒獅子の横腹を斬った。
ウオォッ・・・・・・!
初めて越刀の一撃を受けた黒獅子は、斬られた痛みに猛った。
「オラァッ!」
「フッ!」
そして、告に続いた武人達が間髪容れずに、黒獅子に斜め振りや、突き、横振りを繰り出し、その体を刻んでいった。
グオオォォッ、オオォ・・・・・・! ウオォォオ!
新たな傷が出来る度、刃が振られた方向に黒獅子の鮮血が飛び散り、月明かりがそれを照らした。
黒獅子は当然反撃を試みて、爪を剥き出しにした前肢を振ったり、牙を露出して、飛び掛かろうとしていた。
しかし黒獅子は、撃たれた時の深手に、体の自由を奪わていた。
武人達は、そんな黒獅子の鈍い動きを読み、威勢の無い反撃をかわし、越刀を振っていたのだった。
ウウゥゥ・・・・・・、グルル・・・・・・!
斬られる度、黒獅子は悲痛な唸り声を漏らしたが、武人達はやめなかった。
そうして、荒い息遣いの黒獅子の体に、幾筋もの紅い傷が出来た時、
「離れろっ!」
と、銃使いの声が響いた。
その声を聞いた武人達は、即座に黒獅子から離れ、林道の淵に捌けた。
その瞬間、銃使いは黒獅子に銃口を向けると、鋭い目付きで狙いを定め、引き金を引いた。
──再び森に、先程と同じ銃声が響いた。
銃使いに向かって、やや横向きになっていた黒獅子の体の脇腹から、花火の様に血飛沫が上がった。
グウゥゥ・・・・・・ッ!
再び撃たれた黒獅子は、吐血と共に、悲痛な唸り声を漏らした。そして、撃たれた時の衝撃に抗う事無く、グラッと林道に倒れた。・・・・・・倒れた黒獅子は、ピクリとも動かなかった。
「・・・・・・やったのか?」
林道の淵に捌けていた武人の1人が、声を発した。
そして息の根を確認しようと、黒獅子に近付いた、・・・・・・その時だった。
黒獅子は突然、カッと覚醒し、素早く起き上がった。
「!」
その瞬間、周囲に緊張が走った。
「くっ・・・・・・!」
完全に油断していたその武人は、大慌てで越刀を構えようとした。
しかし黒獅子は眼前の武人を無視すると、その脇を駆け抜け、森の奥へと消えて行ったのだった。
その動きは、傷の痛みなどまるで感じていないかの様に、素早くしなやかだった。
「待てっ!」
林道に残された武人達が、逃げた黒獅子を追おうとした時だった。
「馬鹿野郎、追うんじゃない!」
告の怒鳴り声が響き、武人達は動きを止め、振り返った。
「怪我人を村に運べ。もう、獅子には構うな!」
告のその指示に、ハッと我に返った武人達は、素直に従った。
「レン、しっかりしてよ・・・・・・。レンっ!」
一愛は足を引き摺りながら、倒れている旺漣に近寄った。
そして、傷を避けて旺漣の体に触れると、涙に濡れた悲痛な表情で名を呼んだ。
しかし旺漣は、一愛のその涙声に、一切の反応を見せなかった。
「旺漣・・・・・・」
告は、己より強かな後輩の変わり果てた姿に、思わず言葉を失った。
無論、旺漣は、尊敬の念を抱く先輩の、呟く様な呼び掛けにも、一切の反応を見せなかった。
──さっき迄、氷輪を避ける様に泳いでいた雲が月明かりを飲み込み、戦慄の森に無情な闇をもたらし始めた。
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