第伍章 弔い笛の奏者 

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第伍章 弔い笛の奏者 

 月の光無き、樹光村。  昼から変わらず、家で笛の鍛練に励んでいた百華は、最後の小節を吹き終えると、ゆっくりと笛を下ろした。  「良し・・・・・・」  呟いた百華の口元には、小さな笑みが浮かんでいた。  「昼の時より、大分マシになった。このまま頑張れば、明日は必ず・・・・・・」  息を切らしながら、上機嫌で独り言を呟いた、そんな時だった。再び笛を吹こうと、百華が唇に唄口を当てた時、突然、  「おい百華、開けてくれ! 俺だっ!」  聞き覚えのある声と同時に、戸が激しく叩かれる音がした。  驚いてビクッと体を震わせた百華の笛からは、「ピヒュッ」と言う、変な音が漏れた。  「は・・・・・・い? ・・・・・・告さん?」  百華は、家の戸に目を遣った。  百華の声を聞いた告は、その瞬間、戸を叩くのをやめた。  「頼む、今直ぐ開けてくれ・・・・・・」  息を切らした告の声に従い、百華は急いで戸に近付き、心張り棒を外した。  「どうしたんですか? 一体・・・・・・」  言いながら、百華が戸を引いた瞬間、告が倒れ込む様に眼前に現れた。  左手で膝を突き、肩で息をしている告の額には、びっちりと汗が浮かんでいた。そして、杖を突く様にして握られていた右手の越刀の刃には、血痕があった。  それを見て、思わず息を呑んだ百華は、何か不吉な事が起こったのだと直感した。  「告さん・・・・・・」  「獅子が・・・・・・」  「え?」  百華が何かを言おうとしたのを遮り、告が荒い息遣いで声を発した。  「・・・・・・獅子が出て、村人が襲われた。西の街に行った一団だ!」  「── !」  叫ぶ様に言った、告の言葉を聞いた百華の頭の中は、一瞬にして真っ白になった。  ── 獅子が、人を襲う・・・・・・?── 。  そんな事を思った時だった、  「・・・・・・旺漣も、やられた」  眉間に皺を寄せ、絞り出す様に告が言った。  「そんな・・・・・・!」  百華は思わず絶句した。全身の血の気が引いていく。そのせいで、右手に握っていた笛を、危うく滑り落としそうになった。  「う、うぅ嘘だぁ! そんなぁ・・・・・・」  信じられない、信じたくないと言う思いが胸にどっと溢れた百華は、思わず左手で告の肩を掴んだ。  その時、百華の頭の中では、過去の演武の対戦で、勇ましく越刀を振るう旺漣の姿が、まるで走馬灯の様に浮かんでは消え、浮かんでは消えを繰り返していた。背には寒さを感じているのに、心ノ臓は、速く熱く鼓動している。  告は百華の左手をどかし、息を整えると、  「負傷者は村の広場に運ばれている。来い!」  と、有無を言わさぬ口調で言った。  「あ・・・・・・、はい!」  我に返った百華は、声を震わせながら返事をした。  そして、広場に向かって駆け出した告の背を追い、家を飛び出したのだった。  ・・・・・・気が動転していた百華の手には、笛が握られたままだった。  ──2発の銃弾に、無数の刃と言う深手を負った黒獅子は、荒い息遣いで森の奥をさ迷っていた。  フウゥ・・・・・・、フウウゥ・・・・・・。  傷から溢れ、黒い体毛から滴る血が、通り過ぎて行く道に落ち、幾つもの紅い足跡が出来ていた。  ── やがて黒獅子は、樹木が生えていない、僅かに開けた場所に来た。  その時、氷輪の淵が雲から現れ、森に銀色の光を降らせ始めた。  黒獅子は歩みを止めると、夜空を仰いだ。そしてその氷輪を、深紅に染まった眼で凝視した。  しかし、氷輪が僅かに顔を出したのも束の間。続く分厚い雲が、氷輪を飲み込み始めた。  氷輪が、全て飲み込まれてしまうのを見届ける事無く、黒獅子は、夜空を仰ぐのを止めた。  そして傷付いた体で、再び進もうとした。・・・・・・しかし、    グルゥッ・・・・・・!。  前肢を1歩踏み出した瞬間、体に声無き悲鳴が走った。傷の痛みが増す体に、遂に限界が来たのだ。  黒獅子は、2歩目を踏み出せなかった。  そして、  グウゥゥ・・・・・・。  黒獅子は唸りながら、ドサリと草地に倒れた。  己から活力を奪う、ズキズキと脈打つ痛みと、それに堪える疲労感。・・・・・・黒獅子は、己の命の終わりをぼんやりと感じ始めていた。  しかし、憎き人間の肉を食い千切り、骨を砕いたその顎は、未だに獲物を求めて疼いていた。そして、憎悪の闇を宿した眼は復讐の色に燃え、魂は、「死」に激しく抗っていたのだった。    ──笛を衣の帯に挟み、告と共に広場に到着した百華は、眼前の惨状に言葉を失い、立ち尽くしていた。  まるで地獄を絵に描いたかの様な望まない景色が、そこにはあった。  月明かりを再び雲に奪われ、幾つもの篝火がユラユラと闇を燃やす広場には、獅子の襲撃を受けた村人達と、その家族や友人達の姿があった。  全身に包帯を巻かれた、痛々しい姿で横たわっている者。片腕を無くした痛みに、叫び悶える者。両足に深手を負い、1人では立つ事さえ出来なくなった者。腹部に負った傷の手当てに、歯を食い縛り、堪える者。顔の半分から上を包帯で巻かれ、文字通り血の涙を流している者・・・・・・。  その者達に寄り添う、家族や友人達の目には涙が浮かび、顔には悲愴な色が貼り付いていた。  喉を抉られ、既に息絶えている者の傍らでは、家族の者達が慟哭に震えていた。  黒獅子に頭を噛み砕かれ、頭部を紅く染めた男児の母親は、その小さな亡骸を腕に抱き、狂った様に名を呼んでいた。父親と思しき男は、言葉無く項垂れていた。  「何で・・・・・・、こんな事に・・・・・・。獅子は、人を襲わない筈じゃ・・・・・・」  「惨状」に視線を固めたまま、百華は震えた声で告に尋ねた。  「・・・・・・襲って来たのは、黒獅子だ」  「え・・・・・・?」  口惜しそうな表情で、静かに答えた告に、百華は思わず驚愕の目を向けた。  告は眉間に皺を寄せ、足下に視線を落としている。  「嘘だ・・・・・・」  「嘘じゃない。この目で見た」  「!」  告の言葉に百華は、告の越刀の刃に付着した血痕の意味を悟った。  そして幼い頃、両親や村の大人達から教えられた「言い伝え」を、思い出した。  ──獅子は神の使い。故に、決して手を出してはならない。出せば最後、獅子は不倶戴天の鬼神、「黒獅子」となり、災いの牙を剥く──。  「・・・・・・百華の言う通り、獅子は人を襲わない。・・・・・・と、言われている。何故かは分からないがな。  だが黒獅子となれば、話は別だ。確か怒りと憎悪を持って、人を襲うと・・・・・・。  あの『言い伝え』は、本当だったのか・・・・・・」  告は最後の言葉を口惜しそうに呟くと、右手の越刀を強く握り締めた。  百華は、告の方に体を向けた。  「じゃあ、僕達人間の側に、獅子を黒獅子にした原因があると言う事なんですか?」  「それは・・・・・・」  問い詰めて来た百華に、告が険しい表情を作った、その時だった。  「知らねぇって、言ってんだろうがよ!」  突然、何処からともなくザンガの怒鳴り声が響き、百華と告は、声のした方に目を遣った。  視線の先には、告の後輩である2人の武人と、4人の男に取り囲まれた、ザンガとナズが居た。2人は、無様な恰好で地面に座り込んでいた。  街の酒場で騒ぎを起こしたザンガは、街の衛兵に捕まり、樹光村に強制送還されていた。そして、村の中にある門番達が管理する納屋に、入れられていたのだった。  しかし、黒獅子の襲撃の後、告の後輩に掴まれ、広場に連れて来られた。  ナズも家に居た所を、同じ様に無理矢理連れて来られたのだった。  「アンタ等、ふざけた事言ってんじゃねぇよ! 『獅子殺し』なんか、馬鹿じゃねぇのか? 俺が村の厄介者だからって、勝手に・・・・・・」  目を血走らせたザンガは、早口で捲し立てていた。その隣でナズは、恐怖に満ちた目で、己を囲む男達を見上げていた。  その時、  「もう、やめろよ」  魂が抜けた様なレグマの声が、ザンガの言葉を遮った。  「! あ?」  ザンガが、壁となった男達の隙間から、声のした方を見た。  レグマは、ザンガとナズを取り囲んでいる男達の背後から、僅かに離れた所に立っていた。  告に保護されたレグマは、着替え、大分真面な恰好になっては居たが、生気の無い目をした顔の頬は、げっそりと痩け、まるで憑き物が付いている様だった。  「俺・・・・・・、その人達に話した」  「!」  レグマの告白に、ザンガとナズは驚愕した。  レグマは俯いた。  「・・・・・・俺達は、取り返しのつかない事をしてしまった。・・・・・・大罪を犯したんだ! ・・・・・・どんな罰も受け入れる。俺は・・・・・・火炙りにされて死んだって良い!」  声を震わせながら言い終えたレグマは、遂に膝から崩れ落ちた。そして背をまるめ、号泣したのだった。  「レグマ、アンタ・・・・・・」  ナズが、怒りに目を吊り上げた時だった、   「──っ!」  頭部に衝撃を受けたナズは、地面に倒れ込んだ。  2人を取り囲んでいた内の1人が、ナズの頭を容赦無く蹴り飛ばしたのだ。  「うっ・・・・・・!」  ナズは蹴られた所に手を当て、小さな呻き声を漏らした。まだ癒えていない頬の傷にも、痛みが響いていた。  それを見たザンガの顔は、みるみる青ざめていった。  「ふざけんなよ! じゃあこの惨状は、やっぱりお前達のせいなんじゃないか!」  告の後輩の怒鳴り声を合図に、2人を取り囲んでいた男達が、一斉に暴行を加えた。  殴られ、蹴られ、越刀の石突で突かれ、ザンガとナズは悲鳴を上げた。  「すまねぇ・・・・・・、すまねぇ・・・・・・!」  「やめて、お願い!」  2人は懇願したが、男達はやめなかった。  元々評判の悪かった2人とだけあって、その憎たらしさは、尋常ではなかったのだ。  「おい、やめろ!」  その様子を見ていた告は、仲裁の為、百華を残してザンガ達の所へと駆けて行ってしまった。  「・・・・・・」  1人になった百華は、「惨状」に再び視線を戻した。  そして祈る気持ちで、その人物を探した。  ──どうか、間違いであってくれ──。  百華の胸中は、その思いで溢れんばかりだった。  しかし、  「・・・・・・!」  百華の目は、やや遠い場所で横たわっている、親友の姿を捉えた。  「・・・・・・」  20歩程進んだ先、篝火の近く。  茣蓙の上で横たわっている親友の体の向こうには、見覚えのある女が居た。座り込んでいるその女は、親友の体を眼前に、両手で顔を覆い、肩を震わせて泣いていた。  半ば放心状態となった百華は、覚束ない足取りで、その2人に歩み寄った。  しかし、10歩程進んだ時だった。  「ちょっとすまねぇ」  何かを包んだ大きな布の両端を持った2人の男が、百華の斜め前から駆け足で現れ、背後へと通り過ぎて行った。  ──え・・・・・・?──。  布の中のものが、チラと見えた百華の足取りが止まった。  大きな布は、人を包んでいた。そして、その布の隙間から見えたのは、又しても、見覚えのある人間の顔だった。しかしその顔は、一切の生気を放っていなかった。  百華は、追い掛けて確かめたい衝動に駆られた。  しかし、  ──嘘だ・・・・・・、嘘だ・・・・・・──。  と、強く思い込み、遠くなって行く男達に振り向く事も無く、再び歩き出したのだった。  ──そして、やっと辿り着いた。  「旺漣・・・・・・」  2人の側迄来た百華は、乾いた唇で、呟く様に名を呼んだ。  百華が見た親友の姿は、変わり果てていた。  「おう・・・・・・、ビャクか・・・・・・」  名を呼ばれた、青白い顔の旺漣は、薄く開いた目で百華を見上げた。そして、浅い呼吸を繰り返す口で、弱々しくとも反応を見せた。  「何で・・・・・・? この怪我は・・・・・・」  百華の声は、酷く震えていた。  「・・・・・・見りゃ、分かんだろ」  旺漣は、呆れている目をした。  「・・・・・・獅子に・・・・・・、黒獅子に・・・・・・やられたんだよ。・・・・・・手も足も・・・・・・出なかった」  「・・・・・・」  切れ々れに答えた旺漣の体の傷を間近で見て、百華は声を飲み込んだ。そして広場に来る途中、告から掛けられた、とある言葉を思い出していた。  ──百華、・・・・・・旺漣はまだ息がある。だが・・・・・・最悪、見ない方が良い──。  告の言う通りだった。  傷を見た百華は、旺漣の側へ来た事を一瞬後悔し、同時に、思わず目を背けたくなった。  引き裂かれた衣から見える、太く長い4本の胸の傷は、深く刻まれている事が分かった。右肩の衣には、2つの大きな穴と、小さく歪な無数の穴が空いており、出過ぎた血は旺漣の髪に迄付着していた。そして左脇腹の傷は、臓器が見えるのではないかと疑いたくなる程に、肉が抉られていた。  直ぐ近くで程好く燃える篝火は、そんな旺漣の体を不規則に照らし、紅黒い血を吸い込んだ衣が、その出血の酷さを物語っていた。  「・・・・・・っ!」  百華は思わず、右手で口と鼻を強く覆った。  その時初めて、「血の臭い」と言うものを知った百華は、吐き気を催したのだ。  同時に百華は、そんな状態でもまだ生きている旺漣を、薄気味悪く思ってしまった。無論、それが不謹慎な事であると言う事は、百も承知だったが。  「お前・・・・・・、連いて来なくて・・・・・・良かったな。獅子に・・・・・・、襲われずに、済んだ・・・・・・」  旺漣は、無理をして薄ら笑いを作ると、百華をからかった。  しかし、  「そんな事言ってる場合じゃないだろ!」  「!」  呑気そうにも聞こえ兼ねない旺漣の言葉に、百華は声を荒らげた。  しかし、目を見開いた旺漣を見た百華は、直ぐにハッと我に返った。  「ごめん、大声を出して・・・・・・」  百華は俯いた。  「いや、いい。・・・・・・お前が、そんな風に・・・・・・俺に、声を荒らげるの・・・・・・、珍しい・・・・・・よな・・・・・・」  か細く、切れ々れに言う旺漣の口の端からは、遂に、唾液に混じった血が滴った。  その時、何かに気付いた百華は、周囲を見渡した。  「薬師は? 薬師は・・・・・・何で来てくれないんだ? こんなに酷い怪我なのに・・・・・・」  「来たの・・・・・・」  一愛が、顔を覆った両手の指の隙間から、声を発した。  「え?」  百華は、一愛の言葉を疑った。  旺漣の体には、包帯の1つも巻かれてはおらず、手当ての「て」の字も無い事は、誰の目にも明らかだった。  「運ばれて・・・・・・、真っ先に来てくれたの。だけど・・・・・・」  一愛は、そこで声を詰まらせてしまった。  すると、  「直ぐに・・・・・・、他の奴の所に・・・・・・行った」  と旺漣が、一愛の代わりに言葉を続けた。  「そんな・・・・・・、何で?」  百華は、全く理解出来ないと言わんばかりの表情で、旺漣に視線を戻した。  旺漣は、更に目を細めた。  「手遅れ・・・・・・。助からねぇって、・・・・・・事だろ。助からねぇ・・・・・・奴に・・・・・・、ずっと・・・・・・構ってたら、助かる奴が・・・・・・助からなく・・・・・・なるかも・・・・・・知れねぇだろうが・・・・・・!」  旺漣は、最後の言葉に怒気を込めた。  そして、  「重傷者が・・・・・・多過ぎる・・・・・・。殆んどが・・・・・・襲われた・・・・・・から・・・・・・」  と、百華を納得させる様に続けたのだった。  樹光村に、薬師は1人しか居なかった。  たった1人の薬師とその家族達で、大勢の怪我人の手当てをするのには、限界があった。専門の知識を持っていない村人が出来る事と言えば、包帯を巻く手伝いをする事や、気休め程度の薬草を傷口に当てる事くらいだった。  しかし、百華は諦め切れなかった。  「薬師は、サロさんだよ! 僕達、小さい頃からお世話になってて・・・・・・。  旺漣が先輩や指南役達にしごかれて、怪我をした時だって、診てくれたのはいつも・・・・・・」  「いいんだ、もう・・・・・・」  興奮して捲し立てる百華の声を、旺漣が遮った。  「え・・・・・・?」  百華は、一瞬で大人しくなった。  「サロさんなぁ・・・・・・、俺から、離れる時・・・・・・『すまない』って言って・・・・・・、泣いてくれたんだよ。  俺は、もう・・・・・・それだけで・・・・・・、充分だ」  そう話す旺漣の表情には、告に似た潔さの気配があった。  「そんな・・・・・・」  呟いた百華の頬を、涙が伝った。  気丈に答えた筈の旺漣だったが、一転、苦しそうな表情になった。そして、まだ辛うじて動かせる左腕で、そっと右肩を掴んだ。  「・・・・・・それに俺は・・・・・・、右肩の骨を・・・・・・噛み砕かれた。例え・・・・・・助かったとしても・・・・・・、もう2度と・・・・・・越刀を振れねぇ。・・・・・・なら、生きてたって・・・・・・しょうがねぇよ・・・・・・」  それを聞いた一愛は突然、両手を顔から離した。そして、側にあった旺漣の右手を取り、己の額に当てると、口を一文字にして首を何度も横に振った。  首を振る度、一愛の目から溢れた涙が儚く散った。  百華はガックリと肩を落とし、項垂れた。  「何で・・・・・・、旺漣がこんな目に・・・・・・」  言いながら百華は、旺漣の体の側に膝を落とした。  旺漣を挟み、一愛と向かい合う様な形になった百華の目からは、次から次へと、悔し涙が溢れた。  「天罰が・・・・・・下ったのかも・・・・・・な」  旺漣は左手を右肩から離すと、静かに言い放った。  「は?」  百華は、思わず顔を上げた。  「親父は・・・・・・、遺族の所に・・・・・・謝罪に行かなかっ・・・・・・た。だから・・・・・・きっと・・・・・・、その時の罰が、息子・・・・・・である・・・・・・俺に・・・・・・」  それを聞いた百華の胸に、熱いものが込み上げた。  一愛は、まだ握っている旺漣の手を、更に強く握り締めた。  「何で? 違うだろ!? 旺漣は関係ないじゃないか!」  「親の因果が・・・・・・子に報い。・・・・・・ってな・・・・・・」  絞り出す様に言った旺漣は、僅かに口角を上げていた。  「旺漣!」  百華は、遂に叫んだ。  しかしその瞬間、  「うっ・・・・・・!」  旺漣が顔を歪めた。  ──しまった──。  百華がそう思った瞬間、旺漣は喀血した。  「レン、レン!」  手を握ったまま、やっと顔を上げた一愛が、叫ぶ様に名を呼んだ。  「・・・・・・っ!」  そんな旺漣を見た百華は、何も出来ない悔しさに押し潰されそうになっていた。心ノ臓は、早鐘の様に鳴り出し、喉に石が詰まったかの様な息苦しさを感じる。  「ビャク・・・・・・、聞いてくれ・・・・・・!   獅子が・・・・・・襲い掛かって来た時・・・・・・、俺は・・・・・・誰1人、守れ・・・・・・なかった。その、せいで・・・・・・お袋を・・・・・・、目の前で・・・・・・殺・・・・・・された」  「!」  それを聞いた瞬間、百華の全身に寒い鳥肌が立った。  そして、ついさっき見た「あの景色」が、走馬灯の様に甦った。  ──やっぱり、あの人は・・・・・・──。  百華はそのまま、半開きになった口で空(くう)を見詰めた。  「・・・・・・これ、じゃあ・・・・・・よぉ・・・・・・、親父と・・・・・・同じだ。守るどころか・・・・・・殺した親父と・・・・・・。  俺には、最初から・・・・・・、都の衛兵、に、なる・・・・・・資格なんざ、無かったんだ・・・・・・!」  「都の衛兵」と言う言葉を聞いた百華の目は、旺漣の衣の帯に挟まれた紙を捉えた。それは、血で紅く染まってしまってはいたが、一体何なのか、直ぐに分かった。  「レンは、私を・・・・・・守ってくれた」  一愛は嗚咽しながら言い、旺漣の右手を、己の額に再び付けた。  しかし、旺漣の中では一愛は、「守った」の内に入ってはいなかった。それ所か旺漣は、森の闇から放たれていたであろう黒獅子の殺気にも気付かず、鈍感にも、一団の者達と談笑していた己を、酷く憎んでいたのだった。  ──百華、一愛、旺漣の周囲では、愛する者を傷つけられた者。そして、愛する者の命を奪われた者達の叫び声や泣き声が、ひしめいていた。  越刀を手にした武人は、怒り狂い、声を荒らげていた。  「獅子め! 何が『神の使い』だ!」  「腕に自信のある奴は、森に入って獅子を狩れ!」  「ザンガとナズを殺して、森に放て! 囮にするんだ!」  その時、  「旺漣がやられたのを見ただろ? 相手は黒獅子だ! 何が起こるか分からねぇ!」  武人ではない男が声を張り上げ、諍いが起こってしまった。  「サロさん、早くコイツを診てくれよ!」  「痛ぇ、痛ぇよ・・・・・・。誰か・・・・・・、誰か俺を、殺してくれ!」  助けを求める者達は、正気を失い掛けていた。  「告さん、何でこんな奴等を庇うんですか?」   「そうですよ、先輩!」  「お前等、落ち着け! 無駄な怪我人を増やすな!」  元凶の2人を守る様に立つ告に、詰め寄る武人や村人達は、告に危害を加え兼ねなかった。  ──叫び声、泣き声、怨嗟の声、助けを求める声、堪えられぬ痛みに苦しむ声、行き場の無い怒りを宿した声・・・・・・。  広場は、完全な混沌と化していた。  ──その広場の片隅で、旺漣は、己が命の終わりを、ぼんやりと悟り始めていた。  呼吸は少し前より更に浅くなり、声を出す事さえ辛かった。眼前の景色は霞んで見え、体は重く寒く、小指1本動かす気力さえ、完全に無くなっていた。  周囲に溢れている声も、徐々に聞こえなくなっていた。旺漣の耳は、近くにある篝火の燃える音を拾うのが、やっとだった。傷の痛みも、癒えている訳ではないのに段々と軽く、遠くなっていた。更には、一愛に手を握られている感覚さえ、徐々に分からなくなっていた。  旺漣は、首に僅かに力を込めると、未だに空(くう)を見詰めている百華に、視線を向けた。  「・・・・・・」  旺漣の目は、百華の衣の帯に挟まれていた笛を捉えた。  「なぁ・・・・・・、ビャク」  旺漣のか細い声に、百華は我に返った。  「何だ?」  百華は、旺漣の顔を見た。  その時の旺漣の虚ろな目は、何を見ているのか定かではなかった。目は合っている筈なのに、合っている気がしない。  「最期に・・・・・・お前の笛を・・・・・・、聞かせて・・・・・・くれないか? 腰の、それは・・・・・・笛か?」  言われ、百華は急いで笛を取り出した。  「うん、そうだよ。何を聴きたい?」  百華は笛の唄口を唇に当てた。  旺漣は、口元にうっすらと笑みを浮かべた。  「・・・・・・何でも、良い。お前が・・・・・・吹いてくれる・・・・・・なら、間違いは・・・・・・ねぇ・・・・・・」  旺漣は、もう限界だった。  「分かった」  百華は、袖で涙を拭った。  そして姿勢を正し、深く息を吸い込んだ。    ピィィ━━━━ッ・・・・・・。  百華が息を吐いた瞬間、甲高く、しかし柔らかい笛の音が、広場に響いた。  「!」  「・・・・・・!」  「何だ・・・・・・?」  その瞬間、広場に居た者達全員の視線が、一気に百華の背に集まり、「混沌」を作り出していた様々な声が、やんだ。  皆は動きを止め、突然笛を吹き出した百華を、怪訝な表情で見詰めていた。  「百華・・・・・・?」  それは、告も例外ではなかった。  告は思わず、ザンガとナズの側から離れ、遠くに居る百華の様子を伺った。  ──百華は、己の乱れた心を諫めながら、ゆっくりと息を吐き、澄んだ音を生み出していた。  傷を覆う様に、痛みを和らげる様に、空気に溶ける様に・・・・・・。その優しい音色は、神秘的な旋律となり、まるで、絶望に寄り添う仄かな灯を見せている様だった。  百華が紡ぎ出しているその「再生の調べ」は、かつて母が、子守歌の代わりに聴かせてくれていた曲だった。  己と親友の悪夢を払い、生きる希望を与えてくれた「調べ」を、百華は切なる祈りを糧に奏でていたのだ。  そして、旺漣が口にした、「最期」と言う言葉を否定する様に、指穴を強く叩いた。  ──生きてくれ、旺漣・・・・・・── 。  たった1つの思いを、百華は、笛の音と旋律に託していたのだった。  ──百華が紡ぎ出す、神秘的な「調べ」は、森の奥に潜む黒獅子の耳にも届いていた。  黒獅子も、その驚異的な生命力で傷の痛みに堪え、苦しみに歯を食い縛っていた。  黒獅子のその鋭い聴覚は、他の生き物よりも群を抜いていた。故に、本来なら聞こえる筈の無い笛の音を、奇跡的に捉る事が出来た。  黒獅子はその「調べ」に、じっと耳を傾けていた。  暫くして、  グルル・・・・・・。  黒獅子は何と、その澄んだ音色と、美しい旋律の気持ち良さに、小さく唸った。  「憎き人間が奏でている」と言う事を分かってはいても、その笛の旋律は、とても清いものだった。  柔らかな笛の音が、傷にじんわりと染みていく・・・・・・。しかしそれは、決して不快な感覚ではなかった。痛みを遠ざける様な、謎めいた力を持つその音色に、黒獅子は、まるで誰かが側で優しく寄り添ってくれているかの様な、心地好さを覚えていた。  黒獅子の、深く荒かった呼吸は、徐々に静かに穏やかになっていった。  するとやがて、黒獅子の体から黒い霧の様なものが放たれ始めた。それは、夜風に流され消えていった。  ・・・・・・そうして黒獅子は「憎悪の化身」から、「神の使い」の純白の獅子に戻っていった。しかし、深手から溢れる血は、その美しい体毛を紅く染め、大地に滴っていく。  ──分厚い雲から逃れ、再び夜空に現れた氷輪の光が、そんな獅子の無惨な体を、哀れに照らし始めた。  ──百華の笛の旋律を聴きながら、旺漣は、霞んで見える氷輪を、ぼんやりと凝視していた。・・・・・・旺漣はその時既に、虫の息だった。  一愛は旺漣の手を握ったまま、すがる様な目で百華を見ていた。  周囲の者達も、半ば虚ろな目で、己の耳に勝手に入って来る「調べ」に身を委ねていた。  旺漣は、目だけを百華に向けた。  演奏に集中する為に目を瞑っていた百華は、旺漣の視線には気付かず、若干夜空を仰ぐ様な姿勢で、笛を吹いていた。  ──ビャク、変なんだ・・・・・・。お前の笛が、聴こえなくなっていく・・・・・・── 。  薄れゆく笛の音に紛れているからなのか、篝火の音さえも、旺漣には聞こえなくなっていた。しかも、その篝火が放つ橙色も、徐々に闇に飲まれ、見えなくなりつつあった。  ──綺麗だな、相変わらず・・・・・・。お前の笛──。  まだ辛うじて聴こえる笛の音を感じながら、旺漣は再び現れた氷輪を見た。  途切れ行く意識の中、笛の音が目に見えない水となり、己の体に染み渡っていくのを感じた、その時だった。  さっき迄、2重3重に見えていた氷輪が、一瞬、正確な1つの円になったのを捉える事が出来た。しかしその後直ぐ、氷輪には、黒い影が掛かり始めた。  それを見届けた旺漣は、己の左側に居るであろう、百華を見た。  百華の顔は、完全な「名人の顔」になっている・・・・・・と、旺漣は想像した。  ──ビャク、ありがとうな。・・・・・・もう、大分楽になった。お前のお蔭だ──。  その時、旺漣の目からは、光が無くなり始めていた。  ──・・・・・・一愛、確か・・・・・・右に居たよな?── 。  旺漣は、再び首に力を込めると、己の顔を、今度は一愛の方に僅かに向けた。  「・・・・・・何?」  旺漣の視線に気付いた一愛が、旺漣の顔を覗き込んだ。旺漣の目は、まるで曇った玉の様だった。  その目は、微かに潤んでいた。最後の力を振り絞り、ぎこちなく口を動かし、声無き言葉を発する。  「・・・・・・!」  一愛は口の動きから、旺漣が何を伝えたのかが分かった。  ──生きろ── 。  旺漣は、潤んだ目に無念の色を滲ませ、確かにそう言ったのだった。  「──っ!」  一愛が、全身に寒気を感じた時だった。  ゆっくりと目を閉じた旺漣の顔が、一愛の方にガクッと傾いた。そして、一愛に握られていた手は、一愛の手をするりと抜け、ドサッと地面に落ちた。  「!」  その音に、ハッと目を見開いた百華の世界から、音が消えた。  「──」  百華の目が捉えたのは、息絶えた親友の姿だった。  月明かりに照らされた旺漣の死に顔から、辛うじて流れた一筋の涙は、ゆっくりと肌を伝い、虚しく落ちた。  ──旺漣は、恩人でもあり親友でもある、百華が奏でる笛の音を聴きながら、絶命したのだった。  「う・・・・・・、あぁ・・・・・・」  それを見届けた一愛は、震えた両腕を伸ばし、旺漣の顔にそっと触れた。そして、愛する者の「死」を確認した瞬間、  「ああぁぁぁあ・・・・・・っ!」  傷深い、旺漣の胸に覆い被さり、慟哭に震えた。  「・・・・・・っ!」  しかし、親友の死を認めたくなかった百華は、往生際悪く、「再生の調べ」を奏で続けていた。泣きたい気持ちを押し殺し、悲しみを否定し、ざわめく鼓動に呼吸が乱れぬ様、集中した。  しかし、百華がそんな事をしている時、周囲では旺漣同様、致命傷を負った者達が、次々と命の終わりを迎えていた。  「アンタ・・・・・・アンタァ!」  「おいお前、しっかりしろよ!」  「目を開けて、お願いぃっ!」  「馬鹿野郎、死ぬなぁっ! 死ぬんじゃねぇ・・・・・・」  夫を失った者、妻を失った者、親を失った者、きょうだいを失った者、子を失った者、友人を失った者・・・・・・。  もう誰も、百華の笛の音に耳を傾けてはいなかった。  残酷な現実を前に、儚い希望に似た「再生の調べ」は最早、これ以上無い「無力」の結晶だった。  そんな「再生の調べ」を奏でながら、百華は周囲の声を背に、旺漣の亡骸を暗い目で見詰めていた。  その時、  ──良い音色だな──。  百華の耳の奥で、在りし日の旺漣の言葉が木霊した。  ──今の所、もう1回吹いてくれよ──。  百華は、目を瞑った。  ──何回聴いても飽きねぇな、お前の笛は・・・・・・。祭りの時が楽しみだ──。  笛を吹く度、穏やかな表情で称賛の言葉を送ってくれた親友は、今は亡骸となり、何の反応も見せてはくれない。  ──ハッハッハッ! 何だよ今の小節。ダッセェ・・・・・・──。  ──笑わないでくれよ! まだ練習途中なんだ。下手でも良いから聴かせてくれって言ったの、旺漣じゃないか!──。  ──ワリィ、本当にワリィ。ハハ・・・・・・──。  ──ビャク、先輩に負けた。ムシャクシャする。・・・・・・何か1曲、吹いてくれ──。  ──あぁ、良いよ。何吹いても良い?──。  ──そうだな・・・・・・。じゃあ、「復讐の曲」を頼む──。  ──無いよ、そんな物騒な曲・・・・・・──。  ──ビャク、俺が一愛と「祝言ノ儀」を挙げる時は、お前が祝い笛を吹いてくれよ──。  ──勿論だよ、旺漣!──。  旺漣との沢山の思い出が、走馬灯の様に甦り、虚しく消えていった。  ──旺漣、もう・・・・・・何も言ってくれないんだね──。  百華は瞼の裏の暗闇に、旺漣の死に顔を見ていた。  そう、旺漣はもう2度と、立ち上がる事も笑う事も、越刀を振るう事も無いのだ。  ──夢は、どうなるんだ? 一緒に叶えようって、約束したじゃないか! 君の方から・・・・・・──。  悔しく悲しい気持ちが溢れ、「再生の調べ」の強弱が一瞬狂った。そして段々、指の動きがぎこちなくなっていった。  親友の魂は、志半ばでこの世を去ったのだ。  「・・・・・・っ!」  百華の頭が一瞬、ズキリと痛んだ。その痛みは直に、胸へと下った。  ──・・・・・・何で僕は、こんな曲を吹いているんだろう? 何で・・・・・・?──。  「再生の調べ」を奏で続ける事に、百華は次第に、虚しさを感じ始めていた。それはまるで、空の雲を掴もうとして手を伸ばす様な、酷い虚しさだった。  ──旺漣は、死んだんだ・・・・・・──。  諦めざるを得ないと言う事を、百華は遂に悟り出した。  ──本当は、最初から分かっていた。  傷を癒すとか、痛みを和らげるとか、そんな妖魔の様な力など、己には無い事を。どれ程の祈りを込めて笛を吹いた所で、それは何処迄も、只の「祈り」でしかないと言う事を・・・・・・。「力」ではない。  人間如きの力が及ぶ、世界ではないのだ。  ──百華は、旺漣の無念を思った。  長年憧れていた物を手に、凱旋の道中、黒獅子に襲われ、母を屠られ、志半ばで逝った、旺漣の無念。  ──旺漣、君は・・・・・・、この世に未練があるか?──。  百華は心の中で、旺漣の魂に語り掛けた。  ──無い筈が無いよね。  ・・・・・・でも、この世に未練を残した君が、この世をさ迷う亡霊になる事を、僕は望まない。  旺漣・・・・・・、どうか、受け取ってくれないか・・・・・・!──。  百華は一瞬、息を吐くのをやめ、1拍間を置いた。  ──旺漣、辛かったよなぁ・・・・・・──。  次の瞬間、  ビイィィィイ━━━・・・・・・・・ッ!  まるで泣き叫ぶ様な笛の音が、広場に響いた。  「!」  「?」  「!?」  そして百華の背に、再び皆の視線が集まった。  一愛も、旺漣の亡骸から思わず顔を上げ、百華を見た。  ──笛の音の叫びが、独特な抑揚と共にやむと、短い間が置かれた。・・・・・・そして、物悲しい旋律が紡ぎ出された。  それは決して、誰かから教えられた曲ではなかった。  無論、心のままに旋律を紡ぎ出す、百華の即興だった。  その音色は、実に暗かった。  しかし旋律は、闇にさ迷う魂の穢れを払い、清め、行くべき場所へ導く様な、妖しげで・・・・・・。そして、とても美しいものだった。  「怨霊、亡霊となる事を戒め、冥界へと導く」。それが今、「弔いの調べ」を奏でる百華の、唯一の祈りだった。  ──紅き血に己の体毛を穢しながら、獅子は、先程の曲調とは打って変わって流れる「弔いの調べ」を聴いていた。  致命傷に喘ぎ、ぼんやりとしていく意識の中。耳に届くその「調べ」は、良心を取り戻した獅子を追い詰めた。  グウゥ・・・・・・、グルル・・・・・・ッ!  獅子はまるで、笛の音を払うかの様に、何度も鬣を振った。その目からは涙が溢れ、鬣を振る度に散っていった。  それは獅子が、己が犯した大罪に気付き、流した涙だった。  「弔いの調べ」は獅子の、メスを失った時の記憶を刺激し、後悔と自責の念を、思い起こさせていたのだった。  「弔いの調べ」はまるで、在りし日の己の悲しみを歌っている様にも聴こえていた。  ・・・・・・そう、獅子は、暴走した憎しみに自我を奪われ、仇共と種族は同じでも、無関係な者達の命を闇へと葬ったのだ。愛する存在を失った悲しみを、あの時誰よりも感じていたのは、己の筈だった。  しかし、「不倶戴天の鬼神」となり、報復に出た事によって、新たな憎しみや怨み、悲しみを・・・・・・。過去の己と同じ存在を作り出してしまったのだ。  ──暫くして獅子は、鬣を振るのをやめた。  その獅子の顔の周囲の毛は、血ではなく、涙で濡れていた。  獅子は、大きく息を吸った。  ゥオオオォォォオオォォォオオオ━━━ッ!  声を押し殺し、唸っていただけの獅子だったが、遂に堪え兼ね、氷輪に向かい咆哮した。  ──獅子の咆哮は、樹光村に迄届いた。  侘しい笛の音を遮る様に突如轟いた、獅子の咆哮。  村人達は戦き、擾乱した。  「うわぁぁぁぁっ!」  「あぁ・・・・・・、あぁあっ・・・・・・!」  「うぅっ・・・・・・!」  耳を塞ぎ、頭が割れんばかりの悲鳴を上げる者。手当てされた箇所を、思わず庇う者。目に見えぬ獅子から守る様に、亡骸に覆い被さる者。そして、黒獅子の爪に怪我を負った幼子は、狂った様に母親に泣き付いていた。  そして武人達は、興奮した面持ちで越刀を構え、落ち着き無く四方を見渡した。  「近くに居るのか?」  「来る前に、殺(や)らねば!」  実際獅子は、樹光村からはかなり離れた場所に居た。  しかし、何処(いずこ)から力強く響く獅子の咆哮は、まるで近くから放たれているかの様だった。そしてそれは、弱き者達を威圧するかの様な迫力に満ちていたのだった。  ──『黙れ』と・・・・・・、言っているのか?──。  百華は、獅子が怒りを胸に咆哮しているのだと受け取った。  その百華の眼前では、旺漣の亡骸に覆い被さっていた一愛が耳を塞ぎ、悲鳴を上げていた。  ──黙るものか・・・・・・。僕は、死者の為に笛を吹く。お前に屠られた者達の為に!──。  百華は、まるで獅子の咆哮に応戦するかの様に、笛の音を大きくした。そして怯む事無く、「弔いの調べ」を奏で続けた。  獅子の咆哮を聞いた百華の胸には、熱い怒りの炎が燃えていた。  ──切なく、妖しく、しかしたおやかな神聖さを醸し出す、「弔いの調べ」。それに応える様に響くのは、弱き者達を屠り、惨たらしい苦しみを与えた獅子の、氷輪を割るかの様な咆哮だった。  その咆哮に怯える者達は、真っ直ぐに伸びた百華の背を、すがる様な目で見ていた。  「・・・・・・」  旺漣の亡骸から顔を上げた一愛が見たのは、獅子の咆哮に微動だにせず、笛を吹き続ける、百華の姿だった。  一愛の虚ろな目の向こうには、全てを見下ろしている氷輪が浮かんでいた。  ──どれくらい、時が経っただろうか。    ウウゥゥゥ・・・・・・、ウオォォ・・・・・・ッ!  「弔いの調べ」に応える獅子の咆哮は、徐々に迫力を失っていき、苦しみの気配が濃く滲んで響いていた。  その咆哮は、最早誰の耳にも「威圧」として聞こえてはいなかった。村人達の耳に届いていたのは、獅子の「苦しみ」の叫びだった。  逃れられない「苦しみ」に対し、血を吐く様に許しを乞い、己を責め続けているかの様な、弱り切った悲しい咆哮──。  それが、「弔いの調べ」と冷たく調和していた。  ──これは・・・・・・──。  百華は、初めて聞いた筈のその咆哮に、何故か聞き覚えがあった。  ウオォォォォ・・・・・・、オオォ・・・・・・、ゥオォォー・・・・・・。  獅子の咆哮は、百華の胸の奥に眠る記憶の扉を叩いていた。  少しして、百華は思い出した。  ──嗚呼、そうか・・・・・・──。  その瞬間、百華は肩の力が抜け始めた。  ──同じなんだね、お前は。・・・・・・僕と──。  百華はその時、己の過去を思い出していた。  開いた扉は、燃え盛る様な感情を抱いていた百華を、その中へと誘った。  ──獅子の悲しい咆哮は、幼い頃、両親を失った時の、己の泣き声と同じだった。  取り戻したくても、取り戻せないもの。手を伸ばしても、届かない悔しさと、その悲しみ。そして、己をそんな目に遇わせる運命への、どうしようもない怒りと、許せないと言う気持ち。  しかし、何も出来ない・・・・・・出来なかった己の無力さを刻んだ、止まらぬ涙。そして、弱き己を憾んだ、涙に混じった叫び。  愛しい者達を守れず、そして詫びたかった。無力で非力な自分で、申し訳無かったと。  ──獅子が黒獅子と化した原因に、ザンガが絡んでいる事は、既に分かっていた。なら、どれ程憎くとも、獅子も傷付けられた犠牲者だった。  「──」  百華はその時初めて、獅子の「苦しみ」を思った。  ウウゥゥゥ・・・・・・ッ、ウオォォォ・・・・・・。  まだ聞こえる獅子の咆哮は、もう、いつ聞こえなくなってもおかしくない程に弱り、小さくなっていた。  その時、百華の胸中にあった怒りの炎はとうに無く、代わりに、哀れみの感情が生まれ始めていた。  ──獅子よ、この村の愚か者に、何を奪われた? ザンガが一体、お前の何を奪った?──。  旋律が獅子の声を絡み取り、百華に届く。  心の中で獅子に語り掛けた百華は、ゆっくりと決断を下した。  ──森の奥に潜む傷付いた獅子から、懺悔の声を受け取った百華は、今度は、1拍間を置く事無く、徐々に曲調を変えていき、新たな即興曲を奏で始めた。  ──獅子よ、眠れ。・・・・・・安らかに──。  それは、憎むべき獅子を思い、紡ぎ出された旋律だった。  その音色は清く、儚く、慈しみに満ちていた。そしてそれは、聴いている者達の荒んだ心に、雫の様に静かに染み渡っていった。  遺された者達の目からは、ゆっくりと涙が溢れ、頬を伝っていた。その胸には、さっき迄とは違う感情が芽生え始めていた。  笛を吹きながら、百華は心の中で、何処に居る獅子に再び語り掛けた。  ──獅子よ・・・・・・、僕はまだ、お前を許す事は出来ない。だけど、お前を憎悪の鬼神にしてしまった出来事を憎み、そうなってしまったお前を哀れむ事は出来る。  嗚呼、悲しき「神の使い」よ。願わくば、全ての憎しみと怒り。そして苦しみから解放され、安らかに眠れ──。  百華は心の底から強く願い、「慈悲の調べ」を奏でていた。  ──遂に咆哮をやめた獅子は、それと同時に、氷輪を仰ぐのもやめ、「眠ろう」としていた。  怒りと憎しみを糧に、「死」に抗っていた黒獅子はとうに居なく、獰猛な魂は、百華の笛の音と旋律により、鎮められていた。・・・・・・この時、獅子はもう、体の感覚を無くしていた。  「神の使い」とされている事を疑いたくなる程に、見るも無惨な姿となった獅子は、ゆっくりと目を閉じた。  獅子はその時、己の体が「慈悲の調べ」に包まれている事を、薄れ行く意識の中で、確かに感じていた。  そして、    フウゥー・・・・・・。  獅子は、大きくゆっくりと息を吐いた。そして静かに、最期を受け入れたのだった──。  その顔にはもう、怒りも憎しみも悲しみも無く、本当に、唯眠っている様に穏やかだった。  ──夜空に浮かび、透明に輝く氷輪だけが、紅く傷だらけの獅子の最期を見届けた。  ──逝ったのか・・・・・・?──。  獅子の咆哮が遂に聞こえなくなった時、百華は再び、徐々に曲調を変え、先程と同じ「弔いの調べ」を奏で始めた。  無論それは、「眠った」獅子を思い、紡ぎ出されていた。  その時広場に、百華の行為を咎める者は、誰1人として居なかった。  広場に居た村人達は皆、半ば放心状態となり、眼前の亡骸、腕の中の亡骸を見詰めながら、笛の音を聴いていたのだった。さっきより穏やかそうに見えるその表情には、落ち着いた悲しみの色が差していた。  「・・・・・・」  広場の地面に、無様な恰好で座り込んでいたナズは、口を半開きにし、生気の無い窪んだ目を下に落としていた。  ザンガとナズを取り囲んでいた武人や村人達は、口を一文字にして、静かに涙を流し、項垂れていた。  告は歯を食い縛り、泣くのを堪え、「調べ」を聴いていた。  「・・・・・・っ!」  その時、越刀を握っている右手には力が入り、震えていた。  しかしその時ザンガは、隣に居るナズとは反対に、訳が分からないと言わんばかりの表情で、広場の光景を眺めていた。  告は突然、そんなザンガを、殺気に満ちた目で睨んだ。  「・・・・・・!」  その殺気に気付いたザンガは、告の方に目を遣った。  鬼の様に吊り上がった目が、こちらに向けられている。ザンガは、思わず身震いした。  告は、ゆっくりとザンガに歩み寄ると、ザンガの近くに立っていた後輩を左手で押し退けた。  「先輩・・・・・・?」  後輩の武人はその時、告から発せられる只ならぬ狂気を感じ取っていた。  次の瞬間、告は、閃く様な速さで越刀を振り上げた。  「先輩!?」  「告さんっ!」  後輩と村人が、思わず声を上げた。  「うわぁぁぁぁっ!」  驚いたザンガは、両腕で顔を覆った。  告が刃を振り下ろした瞬間、ザンガの右腕が斬り落とされた。  「ぎゃあ゛あ゛ぁ゛ぁ゛ぁぁぁあ゛あ゛あ゛っ!」  肩から下を斬り落とされた激痛に、ザンガは強烈な叫び声を上げ、のたうち回った。  「・・・・・・!」  ザンガとナズを取り囲んでいた武人と村人達は、告の狂気の沙汰に戦き、息を呑んで体を硬直させた。  告は、大出血しているザンガの右腕を、片足で容赦無く地面に押さえ付け、素早く手拭いを巻いた。  しかし、それで終わりではなかった。  告は、近くの篝火に越刀の刃を突っ込み、少しすると、その熱せられた刃を、ザンガの傷口に押し当てたのだった。  「うあ゛あ゛ぁ゛ぁ゛あ゛あ゛━━━ !」  鼓膜が破れんばかりのザンガの叫び声が、再び響いた。  しかしその間、告は眉1つ動かす事無く、冷たい程の無表情を貫いていた。  死にそうな程の激痛に、ザンガは遂に暴れ、告の足を退けようとしていた。しかし抵抗すればする程、告は足に力を入れ、ザンガを決して逃がさなかった。  無論、余計に踏み付けられたザンガの右腕には、更なる激痛が走っていた。  「・・・・・・っ!」  その光景を見ていた男の1人が、背を向けて座り込み、たちまち嘔吐した。  ──止血が完了した頃、告はザンガを解放した。  自由の身になったザンガは、青白い顔で「ひー、ひー」と情けない声を漏らしていた。その顔は、涙で濡れていた。  太い血管を、まだちゃんと処置していない腕からは、多くはないが少ないとも言えない量の血が滴っていた。  「おい」  告は、怒りに震えた声を発した。  ザンガは、苦しみに満ちた涙目で告を見上げた。  ザンガと目が合った瞬間、告は、「ヒュッ」と言う風を切る音と共に、越刀の刃をザンガの顔面に向けた。  「ひっ・・・・・・!」  体をワナワナと震わせたザンガの目には、かつて己に刃を向けた、旺漣の幻が見えていた。  「この日の事を忘れた時には、俺がお前の喉を斬り裂く。・・・・・・分かったか?」  只ならぬ殺気を放った告の目に怯えながら、ザンガは何度も頷いた。  近くに居たナズは、その一部始終を声も無く呆然と眺めていた。  「おい、お前。あの馬鹿の手当てをしてやってくれ。サロさんに言う必要は無い」  告は、後輩に指示を出した。  「あ、・・・・・・はい」  後輩の武人は、怯えた声と表情で返事をした。  告は最後にザンガを睨み捨てると、百華の「弔いの調べ」を背に、広場から歩き去って行った。  残された後輩や村人達が見た、告の後ろ姿は、とても寂しそうだった。  「旺漣・・・・・・」  告は歩きながら、この世を去った後輩の名を呟いた。その目からは、涙がジワッと溢れ、頬を伝っていた。  ──告さんは、俺の憧れですよ。武人らしい立ち振舞いとか、潔さとか・・・・・・。本当に、格好いいと思います──。  告の耳の奥では、生前の旺漣の言葉が、何度も木霊していた。  歩き続けながら、告は手から越刀を滑り落とした。そして顔を歪め、両手で耳を塞いだ。  ──何故、お前が死んだ・・・・・・?──。  告は、答えの出ない思いを、悲しく美しい「弔いの調べ」に、何度も問い掛けていた。  「弔いの調べ」を奏でていた百華は、最後の音を小さく長く伸ばした。そして、唇からそっと笛の唄口を離した。  「・・・・・・」  やっと、うっすらと目を開けた百華は、旺漣の死に顔に再び目を遣った。  生気の無い、真に白いその顔は、さっきよりも穏やかそうに見え、本当に、唯静かに眠っているだけの様にしか見えなかった。  使命を果たし、傷心した百華を、一愛は複雑な表情で見詰めていた。  それは、救われた様な・・・・・・しかしまだ、運命を受け入れられていない様な、難しい感情だった。  「・・・・・・っ!」  今迄抱いた事の無い感情を糧に、笛を吹いていた百華は、やっと涙を流す事を許された。  その時、心ノ臓は熱く鼓動し、呼吸は震えていた。  力尽きた百華は、手から笛を転がすと、地面の土を握り締めた。  そして、  「何・・・・・・で・・・・・・、皆・・・・・・」  と、涙声を絞り出し、旺漣の亡骸を前に地面に体を丸め、慟哭に震えたのだった。  ──こうして、50年前のその日、西の街に繰り出した一団23人の内、19人が、黒獅子の襲撃により負傷。内、旺漣を含めた11人の村人が、帰らぬ者となった。その中には女も、齢10にも満たない幼子も居た。  そして、その凄惨な「災い」を嘲笑うかの様に、夜空には、美しく見事な氷輪が浮かんでいたのだった。
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