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プロローグ 編集者小山内の偏見
その日の鎌倉は、五月の強い日差しが降り注いでいた。
例年通りの異常気象で年々春は短くなり、夏が来るのが早くなる。そのくせ気温は曖昧で、五月ともなると晩冬のような寒さと盛夏のような暑さを繰り返していて、編集者の小山内は不幸にも服選びをしくじった。
朝晩は冷えるからと、春仕様のスーツを選んでしまったのが悪手になってしまっていた。
小山内は白いシャツに滲みるほど汗をかきながら、緩やかなカーブを描く長い坂を登っている。タイトスカートが汗で湿って捲り上がってくるので、度々立ち止まらなければならないのも歩みを遅めた。
額に滲んだ汗が伝い、眼鏡の鼻にあたるパッドに溜まるのを鬱陶しく思いながら、パンプスで靴擦れ寸前の重たい足を一歩一歩進めていく。腕に抱えた、役立たずのスーツの上着が邪魔ったらしくて、この世のなによりも憎かった。
(どうして、作家先生というものはこんな辺鄙な場所に住みたがるんだろう)
都心から近いとはいえ、鎌倉は古都らしく、どこかオフィス街とは違った華やいだ印象を与える。町のどこを歩いても古めかしい木造の民家や、青々と茂る木々が見える鎌倉の街は、山を背に海が見える、竈門のような地形だ。南には弓形になった湾と、北の山の方には切り通しがあって、戦国の頃であれば敵に攻められにくいという寸法なのだが、このために街のどこを歩いても坂、坂、坂が現れる。
いっそタクシーでも使えば良かったのかもしれないが、経理部に領収書を渡したところで出してくれそうな気はしなかった。編集者たるもの、足で原稿を取りに行け。先々代あたりの社長のありがたいお言葉は、どうやら令和になっても生きているらしい。まったくもって糞食らえの昭和思想である。
小山内の向かう作家の家は、交通の弁が悪く、最寄駅の由比ヶ浜から山方向へ三十分以上登り続けた先にあると聞いて、小山内は自らの死さえ覚えた。
都会の舗装された平らな道のりを三十分と言われれば少し遠いなあくらいの感想で済んだだろう。しかしグーグルマップの示した場所は急勾配の山だ。それも三十度近いからっからの五月の炎天下に、スーツ姿にパンプスで踏破しなければならない。
小山内は久方ぶりにビジネスマナーを憎んだ。
「運動不足の編集者に……こんなとこまで原稿、取りに来させるなっての……!」
誰にともなく文句を垂れながら、ようやく小山内はスマホの地図に表示された住所までやってきた。
門扉に『月岡』の表札を見とめて小山内は愕然と目の前を見つめる。目の前には両脇に紫陽花の植え込みを構える古びた階段があった。
「……勘弁してよお……」
小山内はがっくりと肩を落とし、自分に担当編集を任命した上司たちを恨んだ。
#
「小山内、お前たしか結婚してたよな?」
「え、ええと……はい。半年ほど前に……」
編集長の高田に会社近くのカフェに呼び出され、小山内はやや緊張した面持ちで答える。
入社して七年目。今更、上司相手に仰々しく畏まることもないのだが、その隣に座る人物の見慣れなさについ萎縮してしまった。
「まあ、それじゃあ新婚さんね?」
赤い唇をの女性がはコーヒーカップを置きながら、上品に微笑む。
六十代手前と見られる彼女はシワひとつないスーツを纏い、銀縁の眼鏡を掛けている。知的な女性と呼ばれるにふさわしい姿に、よれよれの私服を着た小山内は身を縮こませることしかできなかった。
「なんだお前、朝比奈さんとは話したことなかったか?」
「お、お名前は存じておりますが、なかなかお話しする機会はなくて……」
朝比奈編集長。文芸編集部の総括であり敏腕編集者として名を馳せる彼女のことを知らぬ社員などこの会社にはいないだろう。
勤続四十年以上の大ベテランで、数多くのヒット作を手掛けてきた伝説的なやり手だ。定年間際の今も最前線で活躍するその雄姿は、児童文学編集部に配属された小山内でも噂を聞いたことがある。
「先輩から、朝比奈さんのご活躍はよく聞いております。同じ女性として、とても憧れる人だな、と以前から思っていました」
「まあ、お上手ね。高田さんにそう言えって言われたのかしら」
「朝比奈さん、あんまうちの小山内をいじめないでください。あんたそんなだから魔女って言われんですよ」
「あら、そういう風に言われているの?私」
楽し気に微笑む朝比奈と、困ったように顔をしかめる高田に置いてけぼりにされているような気がして、小山内はただ困惑することしかできなかった。
(なぜ、私はこの編集長二人組に呼び出されてぬるいコーヒーを啜っているのだろうか)
助けを求めるように高田の方を見ると、上司である高田は頭をぼりぼりとかきながら「あー」と声を漏らした。嫌な予感がした。
高田がこんな風にわざとらしく言葉を濁らせるような動きをするときは、大抵厄介な頼みごとをする時だ。
「小山内、これからお前に新しい仕事を頼むんだが」
ほらきた、と小山内は内心ため息をつく。
今度は一体何を頼まれるのだろうか。これまでも編集から逃げ続ける作家の原稿の取り立てや、締め切りを過ぎた作品の無茶な製本依頼などという面倒な仕事を「何事も経験」の一言で押し付けられてきた。
ただ、別部署の長である朝比奈がいるから、もしかすると異動の話なのかもしれない。それはそれで嫌だな、と小山内は考える。ようやくこの部署を好きになってきて、一人前に原稿を取れるようになって、新人発掘だってはじめたというのに、また一からやり直しというのは気が進まない。望み薄ながら異動ではありませんようにと願いながら、小山内は高田の次の言葉を待った。
「お前には、文芸部の仕事を手伝ってもらうことになった」
「…………手伝い、ですか?」
高田の思わぬ言葉に小山内は呆けた。手伝いとは何だ?異動とは、違うのだろうか。
「突然のお話でごめんなさいね」
言葉を継いだのは、朝比奈だった。
「実は、うちの部署で一人産休に入る方がいるんだけど、作家さんが一人、引継ぎできていないの。ほかの社員にお願いしようと思ったのだけど、人手が足りなくて……。高田さんにご相談したら小山内さんにお願いできるかもしれないってことで、こうしてお話の場を設けさせていただいたの」
「は、はあ…………」
朝比奈から補足を受けても、何の意味も分からなかった。
「でも、なぜ私なんですか?文芸って、今そんなに忙しいんですか?」
朝比奈は首を振る。
「そういうわけではないの。ただ、難しい作家さんがいてね。女性の担当編集でなければ仕事を引き受けてくださらないの」
嫌な予感が走る。これは想像以上に厄介な話なのかもしれない。
「それは……どういう方なんでしょうか」
まだ急くのは早いと、小山内は自分を宥める。もしかすると男性恐怖症の女性作家かもしれないじゃないか。それならば納得のいくのだが……。
「月岡凛太朗という作家さんよ。小山内さんも、名前くらいは聞いたことあるでしょう?」
その名前に、小山内の儚い予想が音を立てて崩れた。
「……はい、存じ上げています」
存じ上げているどころではない。
月岡凛太朗。彼の作品は何作もこの出版社の看板作品となっている。ファンタジーを主体としてホラーやSFなど幅広く執筆してきた大御所だ。売れっ子である彼が、いまだにこの小さな出版社で本を出すのは、かつての会長が月岡を作家として見出したからだとか、なんとか。
月岡の作品に憧れてこの出版社に入社する社員も少なくない。小山内も学生時代に彼の作品のいくつかを読んだことがあったほどだ。
そして本名の月岡倫太郎をもじったペンネームから察する通り、彼は男性作家だ。
あの伝説的な大御所が女性の編集を指名する。小山内にとって、どうしてもそれは落胆を覚える事柄だった。
小山内とて、この会社に入ってもう長い。厄介な作家の話など、耳にタコができるほど聞いてきた。その中には決まった男性編集相手にしか原稿を渡さない女流作家や女性編集にしつこく迫る男性作家というものが幾人か存在した。会うたびに尻を触ってくる作家なんてものも先輩の話に聞いたことがある。そういう作家でさえ、売れる本を書くのだから質が悪い。それとも、売れっ子になったから調子に乗ってしまうのだろうか。
ともかく、わざわざ女性編集を指定する月岡にも、なんらかの癖があるのには違いない。
(だめだ響子。決めつけるのはまだ早い。月岡先生が女好きの好色爺だなんて、そんなわけがないじゃない。それにこれは、まだ担当を受け持つと決まったわけじゃないんだから……)
なんとか自分を鼓舞しつつ、それでも小山内はどうにかこの場から逃れられないかと模索する。
「わ、私のような若輩者が月岡先生の担当だなんて、恐れ多いです……!」
「安心しろ小山内。あくまで一時的な担当だ。短期間担当したらお前は元の仕事に戻れる」
高田の無神経な声が神経を逆なでする。問題はそこではないのだが、男である高田には分かるはずもない話だ。
「引継ぎといっても、たいしたことはないの。内容の打ち合わせはほとんど終わっていて、あとは原稿の進捗を確認するくらいだから問題ないわ。元々月岡先生は、編集に内容の相談とかしない人だし。本当はうちの担当者が最後まで受け持つつもりだったんだけど、どうしても産休に間に合わなくてね……。でも、すぐに原稿は上がるはずだから」
朝比奈の薄っぺらいフォローが、小山内の耳を右から左へと抜けていく。小山内が口を挟む猶予も与えず早口に語られる仕事内容はどう聞いてもトラブルの予感がした。
「とりあえず七月の末まで、お願いしたいの」
朝比奈の言葉が、さらに追い打ちをかける。小山内は諦観した。
令和の世だ。セクハラやパワハラのあるべきではない時代だと世間が謳っても、それは上っ面だけのもので古い会社ではこうしてあからさまな部分が出てくる。「仕事を頼みたい」などと高田は都合のいい言い方をするが結局、小山内の引継ぎは決定事項なのだ。
「ま、何事も経験だ」
会社とは、なんとも理不尽でできている。
#
悪夢のような引継ぎから休日を挟んで二日。小山内は鎌倉の月岡邸にやってきた。
炎暑の中の更なる行軍を覚悟した小山内だったが、不思議なことに月岡邸に一歩足を踏み入れると、そこだけ打ち水をされたように冷気を感じた。
長い階段の両脇には紫陽花が色鮮やかな花を咲かせていた。紫陽花の低木はすべてがきれいに丸く刈られており、花に詳しくない小山内でも手入れが行き届いていることがよくわかる。
(でも、五月に紫陽花……?)
紫陽花といえば、六月の花である印象があるが、ここの紫陽花は今が盛りと言わんばかりに咲いていた。
そう言う品種なのかと思いながら、小山内はまた一段、古びた石造りの階段を上っていく。紫陽花の後ろには楓の木が連なっていて、青々と茂った葉がちょうど階段の天井を覆っていた。自然のトンネルを通り抜ける風が涼やかで、小山内は思わずほう、と息をつく。
なんとなく小山内は、以前に担当した作家が神社の境内などを涼しく感じることがあるのは、その場所周辺が木々に覆われていることが多いからだと言っていたのを思い出した。
涼風に吹かれると会社の理不尽にささくれだった心が解けていく気がした。
(自然の力って偉大だなあ)
月並みな感想を胸中で述べながら最後の階段を上ると、突然目の前に立派な屋敷が現れた。
「なにこれすっご…………」
小山内が声を漏らしてしまうのも無理はない。鎌倉といえば古民家に住むイメージが強いが、月岡邸はその予想を凌駕していた。
武家屋敷風、とでもいうのだろうか。まるで時代劇のドラマにでも出てきそうな古い屋敷が林の開けた中に建っている。
いっそ幻想的な光景を前に小山内はただ感嘆の声を漏らすことしかできない。広大な敷地の中には田舎の一軒家である小山内の実家を五つは並べられるのではないだろうか。
本当に大先生のお屋敷なのだと緊張しながら、小山内は恐る恐る玄関のベルを鳴らす。少し錆び付いたベル音が響き渡る。屋敷のどこか遠くから「はーい」という声が聞こえ、間をおいてから人がやってくる気配がした。
ガラリと、少し立て付けの悪いガラス戸が引き開けられ、中から一人の青年が現れる。その姿に、小山内は少しだけ面食らってしまった。
年齢は、大学生くらいだろうか。小山内が見上げるほど高めの身長であるものの、どこか細い体の線が男か女かの判断を曖昧にさせた。淡い亜麻色の髪を三つ編みにして、緩いTシャツとジーパンの上に黒いエプロンを付けている姿は、まるで都会のカフェ店員のようで、純和風の屋敷にはあまり似つかわしくないように思えてしまう。
「はい、どちら様でしょうか?」
低く、嫋やかな声に訊ねられて、小山内ははっとして背筋を伸ばす。
「私、麗泉社の編集者で、小山内と申します。本日は月岡先生と原稿の打ち合わせで参ったのですが……」
青年はゆっくりと瞬きをして、それから「ああ」と小さく声を漏らした。
「お話は聞いて居ります。どうぞお上がりくださいな」
その人は柔らかく笑んで、小山内を家の中に招き入れた。
「お邪魔、します」
玄関で靴からスリッパに履き替え、小山内は青年のあとをついていく。
屋敷の中は流石に幾度か改装されているのか、現代的な間取りで小山内はほっと息を吐く。
冷房が効いているのか、どこからともなく冷風が吹いてきた。
見た目の通りに大きな屋敷の中には長い廊下がどこまでも続いており、歩幅の広い青年についていくのに小山内はつい小走りになってしまう。それでも青年が容赦なく薄暗い廊下を右へ左へと曲がるので、小山内はついていくのに必死になった。
一体この家はどれほど広いのか、このまま廊下に果てなどないのではないかと不安に思った頃、突然視界が開けて小山内の頬を涼やかな風が撫でた。
「わあ……!」
思わず声をあげた小山内の眼前には遠く水平線まで広がる海の景色と、その手前で風に揺れる見事な藤棚があった。
庭の草木をフレームにのようにして、その奥に目覚ましいほどの青と鮮やかな紫が広がっている。思わぬ絶景に小山内はそのまま数秒、見とれてしまった。
「こんにちは。見事でしょう。この庭は、うちの自慢でしてねえ」
不意に背後から男の声がした。はっとして振り返ると、上品な藍色の着物を着た老人が縁側に座っていた。老人は縁側から立ち上がり、柔和な笑顔で小山内にお辞儀した。
銀縁の眼鏡の奥に漆黒の目を宿しているのが、妙に印象に残った。
「初めまして、月岡凛太朗と申します。玄関まで迎えられず申し訳ありません」
月岡の名を聞いて、小山内はさあっと血の気が引くのを感じた。
「あ、こ、こんにちは!麗泉社の小山内と申します。この度は、よろしくお願いします!」
慌てて礼を返す小山内の焦りに反し、月岡はのんびりとした態度だ。
「そう、畏まらないでくださいな。前任の樋川さんから話は聞いています。これから、どうぞよろしくお願いしますね」
目の前に節くれだってしわくちゃの手を差し出され、小山内は握手を返して、恐る恐る顔を上げる。
月岡は、藍色の着物に薄墨の帯を合わせた格好をしていた。確か今年で八十五歳だと朝比奈から聞いていたが、とてもそんなに高齢とは思えなかった。見た目だけの印象でいえば、六十歳そこらの初老の男性に見える。
少し縮んだ背骨や、刻まれた皺が老齢を窺わせるものの、しゃんと伸びた痩躯と後ろへ撫で付けた生糸のような白髪と切れ長の目は見るものに凛とした印象を与える。
月岡倫太郎は老齢にも関わらず、未だ恋文めいたファンレターが届くことがあると編集部の噂で聞いたことがあるが、なるほど。ファンが色めき立つのもわかる気がした。
「どうぞこちらへ」
「はい。あ、あのこちら、つまらないものですが!」
部屋に案内される前に小山内は慌てて手にした紙袋を差し出す。前任の樋川に「必ず持っていけ」と差し出された品だった。都内にいくつもの店を展開する洋菓子屋のふわふわのレアチーズケーキ。持ち歩きのために念入りに保冷剤を入れてもらったので袋はキンキンに冷えていた。作家の家に挨拶に持っていくには渡しづらい品なのではないかと小山内は訝しんだが、樋口はまず絶対にこれを持っていけと含んで言われたので仕方なく経費で買ったものだった。タクシー代は出ないくせに、こういうところは緩い会社である。
樋川が一番重要としたものだ。さぞかし先生の気に入りの品なのだろうかと思ったが、月岡は特に感動をあらわにするわけでもなくただ受け取った。なんだか拍子抜けした小山内だが、大御所ともなるとこれくらいは普通のことなのかもしれないと考え直す。
「ああ、わざわざすみませんねえ。藤波、お茶の用意をお願いしますよ」
「はい、先生」
藤波と呼ばれた青年はにっこりと笑って月岡から紙袋を受け取り、ぱたぱたと足音を立てながら奥へと引っ込んでいった。
小山内は縁側からすぐ隣の部屋に案内された。
部屋の中は板張りの床に青い絨毯が敷かれ、一対の本革のソファーとローテーブルが置かれていた。どこか純和風の外観と合わぬ内装だと思いながらも正座が苦手な小山内はありがたくソファーへ腰かけた。
「まだ五月だというのに、暑くて敵いませんねえ。この家は古くて、なかなかエアコンが付けられないのでこの部屋も少し暑いかもしれません」
「いえ、そんなことはないです」
小山内の言葉は本心からだった。確かにクーラーの効きすぎたオフィスよりは暑いかもしれないが、海風の運ぶ冷気は思いのほか涼しく、今が秋なのではないかと疑ってしまうほどだ。
「立派なお屋敷で驚きました。とっても広いんですね」
小山内の言葉に月岡は小さく首を横に振った。
「いえ、古いばかりで二人で暮らすには広すぎるので、手前の部屋ばかり使っていますよ」
「二人?」
小山内は首をかしげる。聞いた話では月岡は独身のはずだ。
月岡は「ああ」と声をもらし、藤波の引っ込んでいった部屋の方を軽く指さした。
「藤波には住み込みの手伝いとしていてもらっているのです。老人の一人暮らしは何かと不便ですから」
「へえ、そうなんですか……」
月岡はそういうが、小山内はいまだに藤波がこの家で働いている姿にピンと来なかった。まして住み込みのヘルパーなど、あまり聞いたことはなかったが、金のある作家ならではかもしれない。
「さて、それじゃあお仕事をしましょうか」
「はい!」
月岡に言われて、小山内は慌てて鞄の中から資料を取り出した。
仕事と言っても、今日は顔合わせと月岡の進捗確認だけで大したことはない。月岡も慣れたように小山内の質問に答え、話し合いは一時間にも及ばなかった。月岡の執筆している原稿はほぼ完成に近く、来週にはできあがるということだった。
出会って少ししか経っていないが、小山内の月岡に対する印象は様変わりしていた。女性編集を指名する女好きの老爺作家という先入観は剥がれ落ち、目の前には少し気やすい上品な大御所がいた。
仕事の話があらかたまとまった頃、トントンと扉の叩かれる音がした。
「失礼します」
藤波が盆にチーズケーキを乗せて入ってくる。ご相伴にあずかれるのが嬉しくて、小山内は平静を装いながらも心の中でガッツポーズをした。
藤波は月岡と小山内の前に置き、コーヒーのお代わりを注いでくれる。
あまりじろじろみては失礼かと思いながらも、藤波はこっそりと藤波の美しさに見惚れた。伏し目がちの睫毛は小山内からの距離でも分かるほどふさふさと長く、毎朝苦労してマスカラを塗っている小山内は羨ましく思った。ふと、視線を上げた藤波の紫の目とかち合ってしまい、小山内はバツが悪そうに視線を逸らしたが、視界の端では藤波がほんの少し笑ったように見えた。
「それじゃあ、いただきますね」
藤波がまた部屋を出ていくと、月岡はスプーンを手にとり、チーズケーキに手を付けたので小山内もぺこりと頭を下げてもそれに倣った。
「このチーズケーキは樋川さんのおすすめですか?」
「へ?」
問われて思わず間抜けな声が出る。チーズケーキを渡したときは、月岡が土産の菓子に興味を持ったようには見えなかったので、不意を突かれた気分だった。
「いえ、すみませんね。あれは樋川さんがよく買ってきてくださったものなのですよ。彼女選んだお菓子の中で、藤波が一番褒めたものですから」
月岡はにこやかに笑いながらチーズケーキを一口食べる。
「そう……ですか」
答えながらも小山内は混乱するばかりだった。なぜここであの青年の話が出るのだろうか。
広すぎる屋敷と言い、月岡という作家といい、ここに来てから小山内は混乱するばかりだ。手土産のレアチーズケーキは、緊張で味が分からなかったのが少しだけ残念だった。
「……それでは、今日はこの辺で。ありがとうございました」
「こちらこそ、わざわざご足労頂きありがとうございます」
玄関口で別れを告げ、小山内はあの五月とは思えぬ炎天と向き合う覚悟を決める。あれから日はそんなに傾いていないので、行きと同じくらいに暑いのだろう。
「それでは、失礼します」
小山内が引き戸に手をかけたその時、ぱたぱたと奥から足音が聞こえてきた。藤波だ。
水仕事をしていたのか、わずかに濡れた手をエプロンで拭っている。
「編集さん、もうお帰りなんですか?」
「はい、今日はお邪魔しました」
「外、暑いでしょう。俺が送っていきますよ」
「ああ、そうだね。藤波、そうしてくれるかい?」
エプロンを外し、藤波が玄関脇に置いたキーケースから車のカギを取る。
「そんな、申し訳ないです!」
「いいんですよ。ちょうど今夜の晩御飯の材料に使うナスを忘れてて、買いに行くところでしたから」
小山内の静止も聞かず、藤波はさっさとつっかけのサンダルを履いてしまう。
「それじゃあ先生、ちょっと行ってきますね」
「はい。いってらっしゃい。小山内さんも気を付けてお帰りくださいね」
「あ……ありがとうございます……」
押されるままに断るタイミングを失い、小山内は礼を言って藤波の後についていった。
玄関から門扉まで伸びる草木のトンネルの階段を藤波はさっさと降りていく。前に揺れる三つ編みを小山内はパンプスで必死に追いかけた。一番下の段まで下りると、藤波はくるりと振り向いた。
「車取ってくるんで、少し待っててくださいね」
そういうと返事を待つことなく近くの駐車場へ行ってしまう。それからほどなくして道の向こうから一台の車がやってきた。湘南の海に似合いの、ぴかぴかで真っ赤なスポーツカーだった
「……まじか」
思わず口をついたのは、運転席に藤波が乗っていたせいだ。
「どうぞ乗ってー」
藤波に促され、小山内は車に乗り込む。車内の内装までしっかりとカスタマイズされていた。
「これ、ポルシェですよね………。藤波さんの車?」
「まさか!」
藤波は面白そうに笑いながらアクセルを踏み込む。
「先生の唯一の趣味ですよ。歳とって免許を返納しているくせに、俺が運転するからってこんなかっこいいのを買っちゃったんです」
「へえ……」
売れっ子作家の考えることは、分からないものだ。小山内は月岡の原稿料のことを考えて、そっと鞄を抱きしめた。
車は小山内が苦労して上ってきた坂を風のように駆け下りていく。
「鎌倉駅でいいですか?」
最寄り駅よりも先にある駅を指名され小山内は慌てて首を横に振る。
「いや、大丈夫です!由比ヶ浜のほうで……」
「遠慮しなくていいですよ。ここらへんちょっと不便でね。鎌倉駅まで出た方が、なにかと買い物できるんです」
小山内の了承を得る前に、藤波はウィンカーを上げてハンドルを切り、鎌倉方面へと進路を変えた。
「あ、ありがとう、ございます」
五月の陽気に浮かれるサーファーたちが波間に遊ぶ由比ヶ浜を横目に、車は爽快なスピードで進んでいく。冷房の効いた車内から見る分には、あの憎々しい炎天の景色もさわやかに見えるから不思議だ。
「そういえば前任の樋川さんはおめでただそうですね。無事に生まれたらお祝いを送りたいので、先生に連絡をくださいな」
「ええ、もちろん……。樋川さんともお知り合いなんですね」
「はい。樋川さんが担当になったころから知っていますよー」
藤波の言葉に、小山内は思わず瞬いた。聞いた話では、樋川は三年近く月岡の担当編集をしていたはずだ。その頃から知っているとなると、二十代に見えるこの青年は一体いくつなのだろうか。
「藤波さんは、いつから月岡先生のところで?」
「小さい頃からです。家との繋がりがあって、それでずっと」
それを聞いて小山内は納得がいく。きっと月岡と藤波の家は家族ぐるみの付き合いで、それで旧知なのだろう。
「編集さんは、お家はどちらなんです?」
藤波の言う編集さん、とは小山内を指しているのだろう。
「横浜です。それと、小山内で構いませんよ」
「これは失礼。それじゃこのあとは家に帰るんですか?」
「いえ、まだ仕事があるので……一度社に戻ります」
直帰したいのは山々なのだが自分の仕事がまだ放りっぱなしなのだ。小山内は自分のデスクに積み上がった書類のことを考えて少し憂鬱になった。
「大変ですねえ」
「まあ編集なんて、ようは使いっ走りですからら」
取り留めのない会話をしているうちに車は鎌倉の駅前まで来ていた。
「着きましたよ」
「わざわざありがとうございます。本当に助かりました」
小山内は心の底から礼を言う。扉の向こうに足を出した途端、強い日差しが肌に感じた。
「あ、小山内さん」
藤波が小山内を呼び止め、走り書きのメモを渡す。
「俺の電話番号です。連絡をくれれば次から迎えに来ます」
「そんな!悪いですよ」
「いえ、またあの炎天下を歩かせるわけにはいきませんよ」
それに、と藤波は付け加える。
「チーズケーキのお礼ですよ」
「チーズケーキ……?」
ぽかんとする小山内に藤波は悪戯っぽく微笑んで「それじゃ」と車を出してしまう。
赤いスポーツカーが疾風のように立ち去るのを見送りながら、小山内ははたと気がついた。
「あのお菓子、藤波さんのために持ってけってことだったの……?」
#
『よかったじゃーん。電話番号までくれたってことは、藤波さんに気に入られたってことじゃない?』
「気に入られたとか言う話なんですか?」
小山内は会社に戻ってから念のため先輩の樋川に連絡を入れた。樋川とは大学時代にゼミの先輩後輩だったこともあり、少しばかり気やすい仲なのだ。さっそく藤波に車で送られた話をすると、樋川はさもありなんと言わんばかりに笑った。
『言ったでしょ?あのチーズケーキを持っていくべきだって。私なんて藤波くんに気に入ってもらうのにめちゃくちゃ時間かかったんだから』
「うーん。それには感謝してますけど……」
『それで?月岡先生はどうだった?』
「なんというか、普通に礼儀正しい人でしたね」
『女編集を指名するエロジジイかと思ったのに?』
樋川のからかうような返しに思わず言葉が詰まる。確かに事前の物々しい辞令に小山内は戦々恐々としたが、会ってみればそのような印象は全くなかったのだ。
『みーんな意外がるんだよね。ほら、編集に条件を入れてくる作家って癖の強い人が多いから』
「それは……よく分かりますけど。でもなんで藤波さんの機嫌をとることが重要なんですか?」
『小山内あんたねえ、何年編集やってるの。将を射んと欲すればまず馬を射よって言うでしょ?作家先生本人よりも、家を仕切る鬼嫁を味方につけた方が楽って事だよ』
「ふーん……」
納得しかけて小山内はうん?と引っかかる。
「え、先輩。その言い方だとまるで藤波さんが……」
『あれ?言わなかったっけ』
いけしゃあしゃあと樋川は続ける。
『藤波くん、先生の愛人よ。多分だけどね』
「多分って……」
戸惑いながらも小山内は妙に引っかかる部分があったことを思い出す。
藤波の月岡に対する態度や、逆に月岡から藤波に対する態度は確かにただの主人と使用人とは言い難い気もする。
「そっかあ……そう言うこともありますよね」
『そーそー。まあ、私も直接切り込んだことはないし、首を突っ込む必要もないよ。ただそうなんだろうなあって思ってれば仕事に支障はないしね』
「……ですよねえ」
小山内は複雑な気持ちで、苦笑いした。
#
そうは言われても、一度かけた色眼鏡はなかなか外せないのが人間である。
今の時代は多様性がトレンドだし、なんでもないことだと自分に言い聞かせても、どうしたって特殊な色恋には関心が湧いてしまうものだ。
再び月岡家を訪れた小山内だったが、月岡と藤波の関わりの一挙一動に目を奪われて、つい気もそぞろになってしまう。
「すまん藤波、アレどこやったかな」
「万年筆ですか?朝縁側で書き物をしてらっしゃったからそこじゃないですか?」
「いや、その後昼に新聞の原稿を書いたから居間の机かもな」
「もう〜。いつも同じ場所に置いてくださいって言っているでしょう」
だが、実際目の当たりにしてみると、二人の間に恋人らしい空気というのはあまり感じられない。今も打ち合わせを前に、万年筆の置き場所をめぐって他愛のない言い合いをしている程度だ。
年が離れ過ぎているせい、というのもあるかもしれないが、少しゆっくりな月岡の足取りを支える姿や、世話を焼く様子はほとんど介護のような触れ合いだ。
確かにハウスキーパーとその主人としては距離が近いように感じるが、それもむしろ孫と祖父の空気感に似ている。
(でも本当に先生と藤波さんがそういう仲だとして……。仕事で気にかけなきゃいけないって相当の関係だと思うんだけど)
「小山内さん?どうか、しましたか?」
「えっ……あ、いえ。すみません。少し考え事を」
ぼんやりと意識を飛ばしていた己を叱咤し、小山内はソファーに座り直す。
二回目の打ち合わせでは完成に先駆けて本の表紙イメージを固めるための話し合いが行われていた。
テーブルにはイメージを形にしやすくするためのカラーチャートと藤波の入れてくれたアイスカフェラテ、そして小山内の持ってきたクッキーが置かれていた。
チーズケーキが好きということを鑑みて、味もチーズ系に寄せて見せたが玄関先で手渡した藤波の反応は嬉しそうであったものの前回ほどではなかった。
(難しいよう……樋川先輩……)
心の中で樋川に助けを求めてみるものの、樋川はすでに大きなお腹を抱えて実家に戻ってしまっている。今時珍しい里帰り出産とのことだ。
「表紙のイメージですが、今回は海が舞台なので青色とかどうでしょうか」
「悪くはないですね。ただ、恥ずかしながら今までの作品も青色を多く使っているので、それでは過去作と雰囲気が被りませんか?」
「確かに……それもそうですね」
カラーチャートをぱらぱらとめくりながら小山内は頭を悩ませる。
装丁のデザインは専任のデザイナーに一任してあるが、大元となるイメージを固める必要があった。できるだけ作家の中にあるイメージ通りの表紙を作らなければ、内容と齟齬が出る装丁ではいい本にならない。
うんうんと唸りながら小山内が色見本を広げていると、不意にふしくれだった指がついっと伸びてくる。顔を上げると、月岡の漆黒の目が一つの色を捉えていた。
「これなんて、いいと思いますよ」
月岡の示した色を見ると、それは青に近い、薄い紫だった。
「藤色、ですか」
「ええ」
月岡が目元に笑い時皺を刻ませながら言う。
「夕暮れの、海の色です。私の一番好きな色」
「………へえ」
曖昧に返事をしながら、手元のカラーチャートを見下ろす。夕暮れの海の色は赤ではないのだろうか。小山内の心を読んだかのように、月岡は呟いた。
「この庭から、山陰になっている岩場が見えるでしょう。あのあたりが、よくその色になるんです。夕日が沈む間、青い海は燃えるような赤色へと変わる。そして、太陽が水平線の向こうへ沈み切った後、わずかな時間だけ。赤から青へと戻るほんの短い間だけ淡い藤色になるんです」
小山内は、月岡の言葉を聞いて窓の向こうに広がる海を見た。
今はまだ陽が高く、太陽に照らされた海は青い水面をきらきらと金色に輝かせている。あの宝石のような海が、陽が沈み、闇に飲まれる間際の一筋の光を纏って薄い藤色へと、ほんの僅かな時間だけ染まっていく。それはなんだか、儚くて、とても寂しいような気がした。
「確かに、そう考えるとこの色は作品にぴったりですね」
今、月岡が書いている小説は老いらくの恋を描いている。
定年退職して勤め人としての役割を終えた男が、自分よりもずっと若い女に恋をしてしまう最後の恋の物語。男は浮かれる恋心と、己を律する理性との間で七転八倒した結果、死んでしまう。しかしそこで話は終わらない。男は恋した女に焦がれるあまり、幽霊になってしまう。幽霊となった男は女の守護霊として動き回るが、やがて女の身に危険が迫り……と言う、一風変わった恋愛喜劇だ。
物語のラストでは、若い女は同い年の男と結ばれ、男はそれを見守りながら海辺で静かに成仏していく。コメディでありながら、どことなく寂しさのある終わりを考えると、確かにイメージが合う。
「では、それで進めましょう」
月岡も納得したように頷く。
ふと、廊下の方で電話が鳴った。二つ目のコールが鳴るまでもなく音は止んだが、数秒後、ぱたぱたと廊下を小走りで歩く音が聞こえてきた。
「失礼しまぁす」
部屋の入り口を少し開けて、藤波が顔を覗かせる。
「先生、広倭出版の方からお電話です。来月の文学賞の審査員についてお話ししたいと」
「やれやれ、一度断ったはずなんですけどねえ」
月岡はため息を吐きながら席を立つ。
「小山内さん、打ち合わせ中にすみませんが、少し席を外させてもらいます。良ければ庭でもみて待っていてください」
「は、はあ……」
打ち合わせの中断に若干戸惑いつつ、小山内は曖昧に頭を下げる。
月岡はそのまま電話に出るため、部屋を出て行ってしまった。しばらく待っても月岡は戻って来ず、これは長くなると考えた小山内は月岡の勧め通り、庭用のサンダルを借りて庭を見物することした。
正直、普通であれば『庭を見ろ』と勧められても、特に植物に対して興味があるわけでもない小山内は「だからなんだ」と退屈にするのが普通であろうと思ったが、月岡邸の庭はそれなりに見応えのある庭だった。
藤の花は五月の半ばには散ると聞いていたが、この家の藤棚は未だ堂々と咲き誇りながら海風に揺れている。
薄紫の花弁の香りを確かめようと、幼いが藤棚にふらふらと近づくと、垂れ下がる藤の隙間から小さな黒い影が大きな羽音を立てながら飛び出してきた。
「きゃっ!」
思わず悲鳴をあげて身を躱す。影の正体を確かめると、それは黒い体に黄色い毛を持ち、ブンブンと不安定に飛び回る、大きな熊蜂だった。
「ちょ、やだ来んな!」
自分の周りをぶんぶんと飛び回る熊蜂を追い払おうと手を振っていると、縁側から楽し気な笑い声が聞こえてきた。
「あはは。大丈夫ですよ、小山内さん。熊蜂は意外と穏やかな虫ですから、ゆっくり離れれば害は無いですよ」
庭用のサンダルに履き替えて、藤波が近づいてくる。
そうして小山内の周りを飛んでいる熊蜂に指を差し出すと、熊蜂は指の周りを確かめるようにくるくると回ってからそっと藤波の指に留まった。
「ふ、藤波さん、それ危ないんじゃ……」
「平気平気。人に寄ってくるのはオスばかりですから。熊蜂のオスには針が無いんですよ」
焦る小山内とは裏腹に、藤波は楽しそうに熊蜂を眺めている。熊蜂は首を傾げるような動きをしながら、藤波の指の上でこそこそと触覚を動かしている。
「ご存知ですか?熊蜂は、藤の花の蜜だけを運ぶんです。ほら、ここの顎がとても大きいでしょう?これで固い藤の花の花弁をこじ開けて、中の蜜を取るんです」
「へ、へえー……」
虫が苦手な小山内は薄目にしながら、熊蜂を見る。よくよく見ると、真っ黒な瞳と瞳の間に、三角形の模様があり、鼻眼鏡をかけているような愛嬌が無くも無いように思える。
「でも、藤の花の方は無理やり蜜を取られて、たまったものじゃないですね」
「そうでもないですよ。むしろ、藤の花は熊蜂にだけ穴を開けられるよう、花弁を固くしているそうですから」
藤波は藤の花の近くに指を寄せて、熊蜂を逃がしてやる。熊蜂はまた激しい羽音を立てながらフラフラと藤の花の方へと飛んでいった。
「藤の花は熊蜂にだけ蜜を吸わせてやる代わりに、熊蜂に自分の花粉を優先的に運ばせるんです。そうやって藤の花は実を付けて増えて、次の年にはまた熊蜂を育てる。そうやって何年も互いに支え合って、熊蜂と藤は共生してきたんですよ」
小山内は感心しながら、藤棚を見上げる。
「よく、ご存知ですね。藤波さん」
「まあ庭の手入れも、俺の仕事ですから。植物のことはよく調べておかないと」
にっこりと笑いながら藤波は髪を耳に掛ける。その表情を見ながら、改めて整った顔だなあと小山内は見とれてしまう。
「あ」
はたと、藤波の薄紫の目が合う。その色にはどこか見覚えがあった。
「どうかしました?」
「いえ、その……藤波さん、綺麗なカラコン入れてるんだなー、なんて思って」
ぎこちなくそう誤魔化すと、藤波がまたくすりと笑う。
「これ、カラコンじゃないんですよ。自前です」
「へ?」
「珍しい色だからよく、カラコンだと誤解されるんですが、どうやら俺の先祖には異国の方がいたようでして。隔世遺伝、ってやつです。実はこの髪もそうなんですよ」
自分の三つ編の毛先を弄びながら言う。
「ご、ごめんなさい!私、失礼なことを……」
「気にしないでください」
頭を下げる小山内に、藤波は肩を竦めて見せる。
「よく間違われるんです」
本当に気にしていないように見えるあたり、藤波にとっては日常茶飯事なのだろう。
小山内は自分の無礼を恥じるとともに、小さな確信を得てしまっていた。
(あの目の色……さっき先生が選んでいたカラーチャートと同じ色じゃない……)
自分のことではないのに、なんだか月岡と藤波の関係を覗き見てしまったような気まずさを感じて、小山内は顔が熱くなりそうだった。
藤波は小山内の胸中も知らず、ふと思い出したように「あ」と呟いた。
「……話は変わるんですが、小山内さん。この庭は自由に歩いていいんですけど、一か所気を付けてほしい場所があるんですよ」
「気を付けてほしい場所……ですか」
首を傾げる小山内に藤波はこくりと頷く。
「一応、場所を教えておきますね。こちらです」
藤波に案内され、小山内は庭の奥へと進んだ。
月岡邸の庭の奥には崖が聳え立っている。周囲には鬱蒼とした木々が影を作っている合間からは鼻をつくような濃く、甘ったるい香りが漂っていた。
足元を見ると、低い木々には白い花が咲いている。
「これは山梔子ですか?」
「ええ、そうです。本当は夏が盛りの花ですが、ここらのは少し早咲きでして。それで匂いにつられたお客様がたまにここまでやってきてしまうんです」
藤波はつい、と下り坂になっている木陰の先を指さした。
「崖の壁のところに、穴があるのが見えますか?」
影になっている場所に目を凝らすと、確かに崖には人が身を屈めて入れそうな大きさの黒い穴が開いていた。
「はい。なんですか?あの穴。人が掘ったみたいに見えますけど……」
「『やぐら』ですよ。簡単にいうと、昔のお墓です」
「お墓……?」
そう言われてもピンとこず、小山内は頭にはてなを浮かべる。自宅の敷地に墓を持つ家というのは、今でも稀に見かけるが、これが墓だとは到底思えなかった。
「中世の頃に使われていたお墓の名残なんです。昔はああいった穴を崖に掘って、中に仏様を祀ったり、ご先祖様の遺骨を安置したんですよ。あのやぐらは、大昔は月岡家の人間に使われていたものでもあるんです。ただ坂の下の暗がりにあるのと、雨が降るとぬかるむせいか、少し危なくて……。先生なんかは、子供の頃にあのやぐらに落ちて怪我をしてしまったんですよ」
藤波は目を細めながら、やぐらの奥を見つめた。
「庭で遊んでいた時に空襲警報に驚いて、転んであそこまで滑り落ちてしまったんですって。先生はわんわん泣きじゃくったんですが、誰にも気付かれず、怖い思いをしたそうです。それ以来、大人になっても先生はやぐらに近づくのが少し怖いみたいなんですよ」
くすくすと、まるで見てきたかのように藤波は笑う。
「だから小山内さんも、この辺りにはあまり来ないようにしてくださいね」
垂れた前髪を耳に掛け直しながら、藤波は小首を傾げる。ふと、小山内は胸の奥で心臓が小さく跳ねた気がした。
自分より若く美しい青年に会うのは久しぶりだからだろうか。こうした小さな仕草一つにも色気があって、小山内はほんのちょっぴり、どぎまぎしてしまう。だがそれは小山内が夫に感じるようなときめきとは違うという気もした。
自分より年下であるはずのこの男からは時折円熟した未亡人のような、余裕めいた色香を感じる。
ぶわりと風が通り、小山内は思わず身震いした。
「そろそろ戻りましょうか。先生の長電話も終わった頃でしょうしね」
そう言うと藤波は先立って屋敷の方へと歩き始めた。
小山内はそれに従いながらも、ちらりと背後の墳墓を見やる。言われるまではなんとも思わなかったのに、墓と知らされた途端に妙な恐れが付き纏う。木々に隠されるようにして墳墓の穴ぐらは闇を吸い込むような暗さがあって、真昼だと言うのに背中にひやりとした寒気を感じた。
#
[やぐら。中世の鎌倉にてよく見受けられる横穴式墳墓。平地の少ない鎌倉において、墓の占有面積を減らすために作られたと見られる。やぐらの内部は長方形の小部屋のようになっており、内部には納骨のための穴や、供養塔、本尊仏が置かれている。祖霊崇拝・神仏崇拝と混ざり合い、信仰の場として使われたことも………]
ネットの情報をぼんやりと拾い上げながら、小山内は昼食のコンビニおにぎりを口へ運ぶ。
あれからどうにも藤波や月岡のことが気になって、小山内は時々こうしてあの家に関連しそうな情報を調べていた。
月岡の家は元々、鎌倉時代の将軍家に仕える血筋だったそうで、その影響から多くの軍人を輩出している。そうなるとあの立派な屋敷にも納得がいくような気がした。
「あれ?小山内ちゃんじゃーん」
頭上から声をかけられて、小山内は顔をあげる。声の主を見て、小山内はぱっと顔を明るくした。
「元原さん、お疲れ様です!」
小山内に声を掛けたのは、小山内が入社当初に世話になった先輩だった。小山内に一年間ほど仕事のイロハを教えたのち、文芸部に移動になり、またすぐに結婚そして産休に入ってその後は事務方に移ったので、仕事の関わりは薄くなってしまったが小山内にとっては仕事の師匠である。ついでに言えば、酒の飲み方を教えたのも元原であり、新人期の苦しい時期を支えてくれた先輩として小山内はよく懐いていた。
小山内が入社した当初、元原の長かった髪は明るいショートヘアーになっており、バチバチのカラーコンタクトも縁が太めのメガネになっていた。
「お隣お邪魔していいかしら〜?」
「もちろんです、どぞ!」
小山内は荷物を片付けて元原のために机の上を片付ける。
「聞いたよ〜。いま部署掛け持ちなんだって?小山内も出世したねえ」
「ただの体のいいパシリですよー。高田のヤロウ、私のことボロ雑巾かなんかだと思ってるんですよ」
周囲に上司がいないことを確かめてから小山内は小声で愚痴を吐き出す。
「高田も相変わらずだねえ〜?最初っからあいつの下にいて逃げなかったのは私とあんたくらいだよ」
くすくすと笑いながら元原は水色のランチョンマットの上に美味しそうな唐揚げと、冷凍食品の惣菜が詰め込まれた弁当を広げる。
「と言うか元原さん、よく私が文芸部を手伝っていることを知ってましたね」
「人事はね、噂話に聞き耳立てんのが仕事なのよ。ってかあれでしょー?月岡先生のとこ行っているんだっけ」
「ええ、まあそうです」
「若く見えるよねーあのセンセ。八十代とか嘘みたい」
「わかります。最初会った時びっくりしましたよ」
合槌をうちながら、元原はふと白ごはんにふりかけをかける元原の指先に視線をやる。短く整えられた爪は飾り気がない。子供を産む前の元原はいつでもネイルを欠かさず、宝石のように指先を輝かせていたものだが、今は保護用のベースコートさえ塗っていないようだった。
「てかさ、先生のとこって相変わらずあの子いるの?」
「あの子?」
「ほら、お手伝いの男の子。きれーに髪染めてて、紫のカラコンをいつもつけてる……なんだっけ、藤波くん?だっけ?」
藤波の話題が出るとは思わず、小山内は面食らったように瞬いた。
「ああ……はい……。元原さんもご存知なんですね、藤波さんのこと」
「そりゃあまあ、月岡先生の担当はいかにして藤波くんに気に入られるかがキモだからねえ」
やはりそうなのか、と納得しかけながら小山内は元原が月岡の担当になったのは五年くらい前ではなかったか?と首を傾げた。
「……藤波さんってかなり若いですよね。まだ二十代前半くらいっていうか、大学生くらい?元原さんが月岡先生の担当になったの、結構前じゃありませんでした?」
「あー?まあ確かにね。でも私の前の数井さんも藤波くんのことは知ってたよ?」
「数井さんって……」
「ああ、小山内はあまり知らないか。あんたが入ってすぐにデキ婚で寿退社した人だよ。今は秋田の旦那の家で子供と楽しくやってるみたい」
プチトマトを口に運びながら、元原は言う。小山内は妙な引っ掛かりを感じる。
どう見ても二十歳そこいらの青年が、三年も五年もあの月岡の元にいるならば、藤波は一体いつからあの家にいるのだろうか?
「藤波さんってもしかして、私が思うより年上なんですか?」
「さあ知らないわよ。でも、前にお酒の話もしてたし、二十歳は超えてるでしょ。それにしてもあの二人、ほんと若々しくて羨ましいわねえー。やっぱり恋が若さの秘訣だったりして?」
わざとらしくにやにやとしながら元原は肩を竦める。
「もー元原さんまで樋川先輩みたいなことを言うー」
呆れる小山内だが、内心彼らの関係は気になっていた。あの二人は果たして本当に恋仲なのだろうか。
「元原さんが担当してた頃から、あんな感じだったんですか?」
「ん?二人の愛人関係のこと?やっぱ小山内も気になる?」
元原はそわそわとしながら頬杖を付く。根も葉もない恋の噂話に興じようとする下心が丸見えだ。
「うう……その、作家先生のプライベートに首を突っ込むのは良くないですけど……あそこまであからさまだと流石に突っ込まざるを得ないというか……」
「わかるわ〜。でも、私も小山内が知ってるほどのこと以上のことは分からないかな〜。あの二人、関係性は匂わせるけど、はっきりとは示さないのよね。ああでも、藤波くんの方が牽制が強いかも」
「藤波さんの方が、ですか?」
「うん。前にね、月岡先生を飲みに誘ったんだけど、ちょっと離れたところで仕事したのに藤波くんがスススーッとやってきて、私と先生の間に入ってさ。『生憎ですが先生はお酒を控えてるんです』って。その時あからさまにむくれた顔してたのよ。あれは面白かったわ〜」
よほどその時のことが気に入っているのか、元原はくすくすと思い出し笑いした。
「『じゃあ藤波くんも飲もうよ!』って誘ったんだけど、やんわり断られちゃった。編集時代唯一誘えなかったのはあの二人だけだよ」
「え、元原さん、月岡先生と藤波さんを飲みに誘ったんですか?」
小山内としては、藤波のことよりも元原の無鉄砲さに引いてしまった。
酒豪で知られる元原は、担当する作家をとにかく酒に誘うことで有名だった。現代にそぐわないようにも思えるが、それが、元原流の仕事術でもある。しかし、あの老人までも刺そうとは小山内は思っていなかった。
「あーあ、また編集に戻って作家と酒を飲み倒したいなー」
「もうー元原さんったら。……というか、編集に戻ってくる気があったんですね」
「まあねー。うちの子も保育園でだいぶ落ち着いてきたし、次の異動でどこか入れてもらえないかお願いするつもり」
弁当箱の白米を平らげて、元原はにやりと笑う。
「案外、今度は小山内に子供ができて、私が穴埋めで児童書部に戻ったりしてねー」
「そんな玉突きみたいに異動するわけないじゃないですかー。………それにうちはまだ子供って感じでもないですし……」
小山内は少し冷めた気持ちになりながら視線を落とす。
「甘い、甘いよー小山内。赤ちゃんはほんといつできるか分からないんだからねー?」
それに、と元原は続ける。
「あんたが担当してる月岡先生、なんて呼ばれているか知らないの?」
「さ、さあ?」
月岡についてはファンタジー界の重鎮であるとか、決して原稿を落とさないと言う話は聞く。しかし、元原の口ぶりからして、その手のものではないことは分かった。
「子授け先生、って呼ばれているんだよ。昔から月岡さん先生の担当になった女編集は、子供ができて産休に入るか辞めるか、結婚してないなら結婚して子供ができるか。我が社の都市伝説だよ。十数年前までは、『子供が欲しけりゃ月岡の担当になれって』言われるくらいにはね」
元原はさぞ面白げに言うが、信憑性の無い、オカルティックな話だと小山内は呆れた。
「……女の人は誰でも結婚するし、妊娠するじゃないですか……」
「全員がそうなわけじゃないよ。朝比奈さんだって結婚してるけど、子供はいない。かと思えば、西松さんみたいなパターンもあるしね」
「西松さんって、ちょっと前に高齢出産で辞めた人ですよね」
「そ。あの人もね、月岡先生の担当だったのよ。たしか私の後に担当に入って、樋川の前に辞めたんだったかな?」
「は」と声が出る。元原の言い方では、ここ数年の短いスパンで月岡の担当のほとんどが産休に入っていることになる。子は授かり物とは言うが、いくらなんでも異常な気がした。
「だから言ったでしょ。月岡先生の担当になると、どう言うわけかみーんな子供ができるんだよ」
怯えた顔の小山内にあっけらかんと元原は言う。
無意識に手元に力を入れてしまったのか、おにぎりの具のたらこがゴロリと机の上にこぼれる。しかし小山内は、それを拾って食べ直すような食欲は失せていた。
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昨今はなかなか子供ができず、不妊に悩む夫婦も多い。
知人が子宝に恵まれるという神社を渡り歩いているなんて話も聞いたことがある。
子授け先生、と呼ばれる月岡のことを聞いたらあやかりたい人間は数多くあるのではないか。
(いっそ帯の煽りに書いて見ようか?子授け先生最新作。読めばあなたも子宝に恵まれる……なーんて)
その場合小説の表紙は月岡本人の写真になり、中身もファンタジー恋愛小説ではなく、ハウツー開運本になるのかもしれないが。
「何か、考え事ですか?」
月岡に声をかけられ、小山内ははたと我に帰る。
「いや、その、少しぼーっとして……はは、いらっしゃったのに気が付かず、すみません」
誤魔化し笑いしながら立ち上がり、小山内はぺこりと謝る。
(そもそも、この上品なお爺様にインチキっぽい本は書かせられないか)
月岡が子授け先生であるという話しを聞いた時は得体の知れない不気味さに襲われたが、数日経てば飲み会の話の種でしかないという気になった。
(元原さん、昼休みにあんな話をするなんて、かなり飲み会に飢えてるんだろうな。今度誘ってみるか)
気を取り直して、小山内は仕事へと向き直る。
「月岡先生、お体は大丈夫なんですか?藤波さんからあまり調子がよろしくないと伺いしました」
今日も今日とて、小山内は月岡との打ち合わせのために月岡邸を訪れていたが、月岡の体調がすぐれないと言うことで数十分、待たされていた。
月岡は穏やかに笑って、顔の前で手を振った。
「いやいや、老人にはよくある癪のようなものです。お待たせしてしまって申し訳ない。どうぞお掛けになってください」
月岡に椅子を勧められ、小山内は会釈をしてソファーに座る。いつものローテーブルを挟んで、こうして大御所と向かい合うことにも少しは慣れてきた。それは、月岡が大御所という割に穏やかな好々爺であったためかもしれない。
「それでは早速打ち合わせを進めさせていただきます」
こうして小山内の方から場を取り仕切ることもスムーズにできるようになってきた。
時が経つのは早いもので、もう六月の半ばになっていた。
部屋から見える庭の花々は相変わらず美しく咲き誇っている。早散りであるはずの藤の花でさえ、薄雲の下で房を優雅に揺らしている。
「………と、いうわけで単行本のデザインはこのような形でまとめたいと思います」
「うん。それでお願いしますよ」
「ありがとうございます。……ところで、原稿の進捗はいかがでしょう?」
小山内は少し遠慮がちに月岡の様子を窺う。
本を作るまでの過程も、発売時期も滞りなく進んでいる。だが肝心の原稿について、ここへきて月岡が「ラストを書き換えたい」と進言してきたのだ。
小山内としては初めに読ませてもらった結末で十分だと思ったのだが、月岡としては納得がいかないらしい。文芸部の朝比奈に相談しても『月岡先生にとっては最後となり得る可能性のある作品だから仕方ない』と首を横に振った。
トラブルを想定して余裕をもった締め切りになっているとはいえ、これには小山内も流石にやきもきとした。
作家というのはたった一行の文章にさえ、何年も時間をかけることがあるという。
朝比奈は小山内の任期である七月を過ぎるようであれば、文芸部の人間へ担当を変更し直すとは言われているが、小山内とて編集の端くれだ。短い間でも原稿の最後を任されたのなら、完成まで見届けたいという欲がある。なにより、月岡が猶予までに仕上げられなかった場合、さまざまなスケジュールが狂ってしまう。
「そう、時間はいただきませんよ。予定している発売日には必ず間に合わせます」
小山内の不安を見透かしてか、月岡はそう言う。
年の功か、はたまた月岡が人の感情の機微に敏感なのか、月岡は時折こうして小山内の欲しい言葉を先んじることがあった。
小山内は不安が顔に現れていたのかと焦り、笑顔を取り繕う。
「いえ、お気になさらないでください!……朝比奈さんから聞きました。月岡先生はこれまでに一度も原稿を落としたことがないのでしょう?だから心配していません」
「……そうですか。ありがとうございます」
月岡が微笑んで礼を言う。
その時、トントンと戸が叩かれて奥から藤波がやってきた。
「失礼します。先生、お茶をお持ちしました。今日は小山内さんがプリンを持ってきて下さったんですよ」
藤波は盆に乗せたプリンと紅茶をテーブルに置く。
今日は風が冷たかったので、小山内は温かい飲み物にほっと人心地ついた。
打ち合わせの終わり際を見計らって出されるお茶の時間になると、月岡との話も世間話へと移り変わる。初めの頃は疑問に持っていたおもたせも、会社の経費と見れば悪くない。もしかすると月岡の担当たちはご相伴に預かれるのを分かっていて、この伝統を受け継いでいるのかもしれない。
「そういえば小山内さんは元々児童文学の担当でしたね。今も並行してお仕事をされているんですか?」
「ええまあ。とはいえ、いま受け持っているのは、幼児向けのおとぎ話をリニューアルしてしゅっぱんしなおす、という仕事ですが」
「おとぎ話というと、桃太郎や赤ずきんのような?」
「はい。その通りです」
小山内が本業として請け負っているのは、アンデルセン童話やグリム童話といった、いわゆる『名作おとぎ話』の刷新版である。昔から語り継がれてきたおとぎ話を現代の倫理観に合わせて書き直す仕事で、小山内はなかなかにこの仕事を気に入っていた。
「刷新に合わせて、絵柄も現代風に変えるんです。今、人魚姫の編集を進めているんですが、イラストレーターさんに描いていただいた新しい絵がとても綺麗で……」
つい興奮気味に話してしまったことに気づいて、小山内は慌てて口を噤む。
「すみません、別のお仕事のお話なんてしてしまって……」
「いえいえ。他のお仕事についでお話を聞ける機会はそうそう無いですから、大変興味深いですよ。なによりアンデルセンともなれば、我々にとっては大先輩にあたりますからね」
冗談めかしながら、月岡は微笑む。
「でもやはり、いくら現代に合わせて内容を変えるとはいえ、人魚姫のラストは変えられないでしょう?」
「そうですね。アニメ映画だとハッピーエンドになっていますけど、人魚姫は元々悲恋のお話ですから」
小山内はアンデルセン作の人魚姫の内容を思い出しながら話す。
「陸の王子様に恋をした人魚姫は、声の代わりに足を手に入れて王子と出会う。しかし、王子は人魚姫に優しくしてくれるものの、お声の出ない人魚姫ではなく別の姫と結婚してしまう。王子と結ばれなければ、死ぬさだめの人魚姫は、悲しみの果てに海の泡へと姿を変えてしまう。……泡となった人魚姫は、風の精となり、王子に姫に祝福を与える……。大人になってから読むと、なかなかにビターな話ですよね」
肩を竦めながら小山内は言うが、小山内は子供の頃からこの悲しくて美しい話が好きだった。大学の卒業論文の題材にもしたので、思い入れが強いと言うのもあるかもしれない。
「へえ、人魚姫ってそんなお話なんですね。俺、映画の方しか知りませんでした」
そばで話を聞いていた藤波が感心したように息を吐く。
「そういえば先生、この家にも古い人魚伝説がありますよね。折角だからお話ししたらどうでしょう?」
藤波に問いかけられて、月岡は「ああ」と声を漏らした。
「恵比寿信仰のことだね。確かに、少し日本版の人魚姫とも言えるかな」
「恵比寿信仰……。もしかして鯨のことですか?」
「ほう。さすが、博識ですねえ小山内さん」
月岡に褒められて、小山内は内心少しだけど誇らしくなった。専門ではないものの、恵比寿信仰については大学で論文を書くときに少しだけ聞き齧っていたのだ。
日本の海沿いには海から漂着した様々なものを神として信仰する文化がある。恵比寿信仰と言ってまず挙げられるのは、海辺に打ち上がる鯨の死体のことだ。
大昔の人間にとって、海から運良く流れ着いた鯨の肉は思ってもない恵みだったのだ。
その一方で、漢字を変えて『蛭子』と呼ぶこともある。こちらは日本神話にあるイザナミとイザナギの子供のことで、生まれながらに不具の子供であったがために海へ流されたという。しかし蛭子は流されたて漂着した土地で神になり、人々に恩恵を与えたなどという神話もある。ということを小山内は記憶の中から掘り起こした。
「まあ、鯨に似たようなものです。うちに古くから伝わる、話がありまして。……時代としては確か、戦国時代の頃、鎌倉で大津波がありましてね。ほら、長谷寺の大仏様は雨ざらしでしょう?あれはその時に起きた津波で大仏殿が流されたからなんて言われておりますが、その津波で陸に流れ着いた物を、私の先祖が拾って祀り上げたところ、家がみるみるうちに栄えたそうなんです」
「流れ着いた物ってなんですか?」
「……信じがたい話ですが、私の先祖は人魚を拾ったと、言い伝えられているんですよ」
「人魚を……ですか……?」
恵比寿信仰の中には鯨の他に難破した船から流れ着いた仏像や水死体を恵比寿とするものものあるが、人魚というのはあまり聞いた事がない。
小山内が困惑していると、月岡はふふっと笑った。
「まあまあ、古い家にはたまにある、大袈裟な伝承ですよ」
一般家庭に育った小山内にとっては途方もない話だが、民間伝承は得てしてそういうものであるということも、なんとなく理解できた。
「その拾った人魚を祀ることで、お家が栄えたんですか?」
「伝わっている話によるとね。その人魚を家で祀って以来、船で海に出たら大漁が続いたとか。嵐で沈没した船から落ちた大仏が網に引っかかって、それを殿様に献上したら、なかなかお子ができなかった奥方が御懐妊されたとか。その功績を讃えられて部下として取り立てられただとか、ね。祖母や大叔父が語るだけでも様々なバリエーションがあって大変なのですが、まあとにかく人魚を祀って以来、この家はいい事づくめだったそうです」
小山内は感心して頷きながら目を輝かせる。こう言った伝承は小山内もなかなか好きだった。
「そんなに古くからのお話が伝わっていると言うことは……月岡先生のお家は今もその人魚を祀っていらっしゃるんですか?」
「ええ。庭の奥にやぐらがありますでしょう?あそこに祭壇があって、まだ足の自由が効く頃には、たまに掃除をしてお供えをしたものです」
やぐらと聞いて、小山内は先日、藤波に案内された梔子の坂のことを思い出す。
「あああの、先生が子供の頃に転んでお怪我をされたという……」
「おや、どこでその話を?」
何の気なしに口をついた言葉だったが、月岡が驚いたように目を見開くのを見て、しまったと唇を引き締めた。
慌てて藤波の方を振り返ると、藤波は笑いを堪えきれずに吹き出して肩を震わせているところだった。
「あー……その、藤波さんに、お伺いしましてえ……」
気まずげな小山内は言う。月岡は少し恥ずかしそうに藤波を睨みつけた。
「全く、おしゃべりが過ぎるぞ藤波……」
「別にいいじゃないですか。先生の失敗談の一つや二つ。先生、大御所っぷりが板につき過ぎているからいつも編集さんを怯えさせているんですよ?少しは気安くしないと」
楽しそうに笑いながら、藤波は盆を持ってくるりと踵を返し、立ち去ってしまった。
月岡は少ししょんぼりした顔で腕を組む。
「……そんなに怖いですかねえ、私」
「いえ、その、そんなことは全くなくて!むしろとてもいい先生でいらっしゃると思います!はい!」
突然気まずい空気に放り出されて、小山内は慌ててフォローを入れた。
むしろ小山内のような若い編集が月岡のような大御所に怯えるのはそのカリスマ性ゆえの部分が大きいのだが、若輩者の小山内がいくら言ったとてゴマスリにしか聞こえないであろうことが残念だった。
その後、時間が押していることもあり、人魚の話はこれまでとなってしまった。
帰り道、再び藤波の車に乗せてもらいながらそういえば、と小山内は思い出す。
(人魚を祀ったら、仏像が海から上がってお殿様の奥様が妊娠したって言っていたけど………もしかして子授け先生と関係があるのかな?)
小山内は別にオカルティストではない。だが噂話程度の怪談を嗜む情緒は持ち合わせていた。もし何らかの関わりがあるとしたら、自分も人魚の信仰で子を宿したりするのだろうか。
そうだとしたら少し薄気味悪い気がする。
小山内は思わず、自らの腹を摩った。
結婚して一年。まだ、子供はできない。もしかしたら一生そうかもしれなかった。
元から月経不順だったが、二十歳を超えてからは月のものはほとんど来なくなった。昨年の婦人検診では、既に不妊の可能性があると告げられている。不妊治療という言葉は、三十歳を超えてから聞くものと思っていたが、まさかこんなにも早く失望を突きつけられるとは思ってもみなかった。
二十代のうちに子供を産んだ方が良いと言われても、あまりピンとは来なかったが、いざ産めないと医師に言われると、目の前が真っ暗になってしまった。
診断書を出された夜、共に泣いて背中を擦ってくれた夫に申し訳なくて仕方が無くて、小山内はそれ以来、妊娠の話題が出ると少しだけ苦しくて仕方がないのだ。
産休で休む同僚や先輩を花束で送るたび、小山内の胸には小さな棘のようなものが刺さっていく。故に元原から子授け先生の噂を聞いたとき、もしかしたらと、つい考えてしまったのだ。
考えてしまう自分が、嫌だった。
「小山内さん?どうかしました?」
信号待ちで車を停めている間、腹を摩る小山内に気づいた藤波が声をかける。
「あ、いえ!何でもないですよ」
「そうですか?お腹さすってるから、痛いのかと……」
「全然大丈夫です。ちょっと、考えごと、してただけでして……」
「そうですか」
信号が青になり、藤波は前を向いてアクセルを踏み込む。
「…………そういえば、編集部に朝比奈さんってまだいらっしゃるんでしたっけ」
「は、はい。います」
「ふうん……」
静かなエンジン音が車内に響く。藤波の表情がどことなく暗いのは、今日が曇りだからと言うことではないような気がした。
「藤波さんも、あ、朝比奈編集長のことをご存知なんですね」
「まあ、そうですね。よく知っていますよ。元気でいらっしゃいますか?」
「はい。なんかもう六十歳くらいなのに、定年退職とか知らないって感じで……」
「そうですか」
坂道のカーブを曲がりながら、車はゆっくりと大通りへと入っていく。夕方の時間帯だからか、道は少し渋滞していた。
ゆっくりと進む車の中で小山内は、藤波の様子がおかしいと、何となしに察した。
いつもであればもう少し朗らかに話す藤波のテンションが、朝比奈のことを聞いてから明らかに低いのだ。
「俺、あの人のことあまり好きじゃないんですよ」
「え?」
藤波のはっきりとした声音に驚き、小山内は肩を震わせる。
「編集として、先生とお仕事の付き合いが長いのはわかりますけど、先生のことを何でも知っているような態度が気に食わないんですよねえ」
不機嫌そうに話す藤波に何と答えたら良いか分からず、小山内は「はあ」と曖昧に返事を返す。
これは嫉妬、なのだろうか。
「……こんなこと言うと、俺が朝比奈さんに嫉妬しているみたいに聞こえるかな?」
心を見透かされたのかと驚いて小山内が藤波の方を見ると、藤波は横目でにこりと微笑んだ。
藤波といい、月岡といい、人の心を読むのがうまい。
「編集部では、俺が先生の愛人だってことになっているみたいですね」
小山内はぎくり、と身を固くした。自分が言い出したことではないが、人の色恋に関心を持っているとバレてしまうのは何だか気まずかった。
「いやその……すみません。不躾な先輩ばかりでして……」
「別に気にしてないですよ。それよりも小山内さんは聞かないんですね。俺と先生の関係について」
「は………それは……まあ、プライベートなことですから……」
言葉を選びながら、小山内は慎重に答える。
気にならないと言えば嘘になる。しかしここで図々しく二人の関係に踏み込めるほど小山内の心臓は太くない。
「ふぅん」
今度は少し明るい調子で返事をしながら藤波はにやりと笑う。
「教えてあげましょうか?」
「うぇっ!?」
小山内の素っ頓狂な声を聞いて、藤波は声をあげて笑った。
「あはは!小山内さん、反応いいなー。なんか面白くなっちゃいます」
くすくすと笑う藤波に揶揄われて、小山内は気が気では無かった。
「か、勘弁してください。こういう話題はやっぱりセンシティブなところが多いというか……作家先生のご事情を探るのはあんまりしたく無くてですね……」
下手に作家の色恋に首を突っ込んで、悲惨な目に遭った先輩編集のことを思い出して小山内は耳を塞ぐ仕草をする。上司の高田に聞いた話では、作家の恋人に浮気相手と勘違いされて刺された編集もいるらしい。
「そんなに怯えなくたっていいじゃないですか。…………別に、俺と先生には何もありませんから」
「へ?」
思わず間抜けな声が出る。
あれだけ噂されて、月岡も思わせぶりな態度をとっていると言うのに出された答えは拍子抜けするものだった。
「いやまあ、本当に何もないわけじゃないか。俺、前に先生に告白されたし」
「ええ!?」
「振りましたけど」
「ほええ!?」
次から次へとジェットコースターのように情報を出されて、小山内は眩暈がしそうだった。当の藤波はおかしくて仕方が無いと言うように、くすくすと笑っている。
「それももう、かなり以前に終わった話です。そうでなきゃ、今もあの人の家にいない。だからそうですね。今、俺と先生には何も無いんですよ」
穏やかに笑いながら、藤波はそう首を傾げる。
小山内はどっと疲れたように座席の背もたれになだれかかる。藤波はなんてことのないように言うが、ある程度社会というものを渡り歩いた小山内は知っている。
『何も無い』ということは『何かはある』ということだ。
(少なくとも、月岡先生は藤波さんのことが好きなんだろうなあ)
そうでなければ、振られた相手を雇い続けたりはしないだろう。
作家のプライベートに首を突っ込むものでは無いというのは自戒だが、ここまで話されて踏み込まないほど、小山内は無粋では無い。
「ふ、藤波さんは……月岡先生をどう思っているんですか?」
その問いに、藤波の口元からふつりと笑みが消えた。そうして考え込むように首を傾げる。伏せられた睫毛が、カーミラに反射した夕陽を浴びて透明に輝くのを見て、小山内は綺麗だな、と場違いに思った。
「……さあ、どうなんでしょう?……でも、もう後がないのかなって思うと、気持ちというのは変わるものなのかもしれませんね」
藤波は眩しそうに目を細める。まるで苦痛に耐えるかのように。
窓から差し込んだ夕日がアメジストの目を揺らしたうように見えたのは、彼が泣いていたからかもしれない。
「先生は…………もう、長くないそうなんです」
#
凛と立って、平気なように見えるが、月岡の体調はあまり芳しく無いようだ。
本人はそれを隠して作品を書き続けていると、藤波は言う。
あの日、藤波に伝えられた月岡の余命について、誰かに話すべきか、小山内はしばらく考えあぐねた。しかし、やはり『言うべきタイミング』というものは巡り来るものである。
編集の朝比奈に呼び出されたカフェで、小山内は初めて担当の引き継ぎを言い渡された日のように身を縮こまらせていた。それは上司に対する緊張のためだけではなかった。
「月岡先生の原稿は、修正が入ったようだけどどうにか間に合いそうね」
「はい。さすがは月岡先生って感じで……私も安心して仕事を終えられそうです」
小山内はそう言いながらも、自らの声に覇気が無いなと感じた。それはもちろん目の前にいる臨時の上司にも伝わったようで朝比奈は不思議そうに首を傾げた。
「元気が無いわね。もしかして、月岡先生となにかあった?」
朝比奈に問われて、小山内は言うならばここかと、覚悟を決める。
「実は……月岡先生に直接聞いたわけでは無いのですが、先生、お体があまり良く無いそうで……」
小山内は膝の上に置いた手を握りしめる。
「もしかすると、朝比奈編集長には早く伝えるべきだったのかもしれませんが……私、編集としてどこまで出張っていいのか、分からなくて……。しかも私は昔からの担当ってわけじゃ無いし、むしろ臨時だしで……」
消沈する小山内に、朝比奈はコーヒーカップをソーサーの上に置いて、軽く手を組む。引継ぎを言い渡した時とは違う、明らかに深刻な表情だった。
「……月岡先生のご容態については、誰が言っていたの?」
「藤波さんです。月岡先生のところの……ハウスキーパーの方の……」
「……………そう」
少しの沈黙がある。
朝比奈は何かを考え込むように目を閉じて、ゆっくりと瞼を開いた。
「藤波さんが言うのなら、間違いはないようね」
朝比奈は「小山内さん」と向き直り、真っ直ぐに向き直る。
「酷なことを言うかもしれないけど、どうか原稿をあげることだけに集中して。月岡先生を心配する気持ちは分かるけれど、それはここでだけ、吐き出せばいいわ」
優しげな普段の朝比奈からはあまり感じられない、冷淡な反応に小山内は困惑するように眉根を寄せる。
「え……でも、朝比奈編集長、これは、先生の遺作になるかもしれないって……」
「だからこそよ。私たち編集の仕事は作家の作品を読者に届けること。月岡凛太郎の新作を多くのファンが待ち侘びている。エンディングの書かれていない本を出すわけにはいかないの」
小山内は言い返そうと口を開いて、自分にそこまでの主張が無いことに気がつき、口を閉ざした。
月岡のことは心配だ。その寿命を削ってまで作品を書かせることに抵抗はある。しかし、月岡の体調を気にするのも、結局は彼の書く新作のためだ。
小山内が何も言えずにいると、朝比奈は慰めるようにそっと小山内の肩を叩いた。
「……残酷ね、私たちの仕事は。作家が命を削って書いたものを売って生きているのだから」
朝比奈は自嘲するように笑った。
ふと、小山内は自分の肩に乗せられた朝比奈の左腕の袖口に、傷跡のようなものを見つけた。
古いものなのか、痛々しさはほとんどないが、周囲より一際濃い肌色が、朝比奈の細くシワを刻み始めた腕に一文字を引いている。
「……ああ、嫌なものを見せてしまったわね」
小山内の視線に気がつき、朝比奈はそっと左腕を引っ込めて、もう片方の手で押さえる。
そう言えば今日の気温も高いというのに、半袖の小山内に対して朝比奈はきっちりとスーツを着込んでいた。
「その……どうなされたんですか?その傷……」
聞いていいものかどうか迷いながらも小山内は訊ねる。朝比奈は罰の悪そうな顔をすると、赤い口紅を引いた唇を開いた。
「古株の中じゃ、有名な話よ。あなたも聞いたことはないかしら?スキャンダルで作家の恋人に刺された編集の話」
あっと、小山内は小さく息を飲む。一度、飲みの席で冗談混じりに高田から聞いた話だ。
『作家の恋人に浮気相手と勘違いされて刺された編集がいるらしい』と。
「高田さんから聞いたことない?あの人、社内で一番の噂好きだもの」
「その……はい。……すみません、まさか朝比奈編集長が事件の当事者だなんて……」
「謝ることはないわよ。ずっと昔からの語り種ですもの。……作家のプライベートに首を突っ込んではいけないなんて、戒めでもあるしね」
朝比奈は腕の古傷をさする。
「……浮気相手と勘違いされた、なんて言われているけど、本当は私から月岡先生に近づいたのよ」
「え?」
驚いて顔を上げると、朝比奈は情けなさそうに眉をハノ字に開いていた。
「若気の至りって、誤魔化せたら良かったのだけど、私が先生と藤波さんの間に入ろうとしたのがいけなかったのよ。自業自得だったの」
恥いるように朝比奈は俯く。しかし小山内の頭は混乱でいっぱいになっていた。
朝比奈が月岡に言い寄っていたという話を本人の口から聞いたことも驚きだが、それよりも今、朝比奈は藤波と言わなかっただろうか?
朝比奈の傷はかなり古いものだ。高田の話ぶりからしても、事件があったのは昔のことだろう。
しかしそうなると少し、年齢が合わない。小山内は朝比奈に、恐る恐る訊ねた。
「朝比奈編集長、それって一体、何年前の話ですか?」
「……随分昔のことよ。そうね、かれこれ三十年前になるかしら」
(でも、それっておかしくない?)
藤波はどう見ても二十代だ。どんなに若作りだとしても、三十年前にも月岡の愛人だったとは思えない。
何かの勘違いか、あるいは藤波は家族ぐるみで月岡と付き合いがあるらしいから、藤波の家族の誰かが、月岡と愛人関係だったのだろうか?
様々な可能性を考えて思考を巡らせる。しかしそれら全てを、小山内の直感が否定した。
あの日、車の中で月岡に告白されことがあると笑い、朝比奈を嫌いだと言った藤波の美しい顔が脳裏に焼きついて仕方がなかった。
彼は一体、何代前の編集から知られていただろうか?
青ざめる小山内の顔を見て、朝比奈は首を傾げる。
「どうかしたの?小山内さん」
小山内は何も言えなかった。今自分の中に浮かんだ考えは、あまりにも馬鹿げた妄想だ。この頃、妙な話ばかりを聞いたので思考がオカルト寄りになっているだけだ。
小山内は手元のコーヒーを抱え込み、ぎこちなく笑って見せた。
「いえ……少し、ここの冷房が効き過ぎたみたいで……」
その時、小山内のポケットでスマートフォンが震えた。
朝比奈に断りを入れ、スマートフォンの画面を確認すると、そこには一通のメッセージが通知されていた。差出人は、藤波と表示されている。
あまりにぴったりなタイミングに小山内は嫌な予感を感じながらメッセージを開ける。そして、その予感は的中してしまった。
「朝比奈編集長……………。月岡先生が、倒れたそうです」
#
小山内が、再び月岡邸を訪れたのはそれから一週間後のことだった。
編集部と月岡には長年の関わりがあるとはいえ、面会謝絶となってはそこに入り込むこともできない。結局、藤波からの連絡を待ち、容体が落ち着き自宅療養に入ってから改めて小山内が見舞いに向かうこととなった。
「お加減はいかがですか?」
見舞品の高級ゼリーと花を藤波に預け、小山内はベッドで半身を起こす月岡に声をかける。
一週間前まではしゃんと背筋を伸ばし、ハキハキと喋っていた月岡だったが、今はすっかりと頬がこけ、目も落ち窪んでいる。
ほんの数日で、人間はこんなにも弱るものなのかと小山内はショックを受けた。『ああ、この人は死ぬのだ』という確信めいた予感を抑えたくても、表情に出さないようにするだけで精一杯だ。
「いやはや、見た目ほどは酷くはないんですよ。病院にいる時より、むしろ家にいた方が元気でしてねえ。お医者様に無理を言って自宅療養に切り替えてもらったんです」
弱々しい声音で月岡は言う。
「病室で原稿を書こうとしたら看護師さんに酷く叱られてしまいましたよ」
「当然ですよ。今はお体を治すことに集中して……」
「いやね、小山内さん。原稿は出来上がりました。」
そう言って月岡はベッド脇の小机の上に置いた、分厚い封筒の一つを震える手で持ち、小山内に差し出した。
小山内は驚いて瞠目した。差し出された原稿を受け取り、断りを入れて中身を確認する。
「……拝読しても、よろしいでしょうか?」
「ええ。お願いします」
小山内は出来上がった原稿に目を通す。大筋はほとんど書き換えられていない。
言葉の表現や、ちょっとした言い回しが赤字で直されてはいるが、ブラッシュアップに近いものがほとんどだ。そして問題のラストシーンについても、完璧なものができあがっていた。
哀愁を伴いながら、愛した女の幸せを願って成仏する男の心情が、暮れなずむ空に溶け込んでいくように、詳細に美しく描写されている。
小山内は震える手で原稿を整え、深く息を吸った。
「……ご病気の中で、これを書かれたのですか?」
なぜそのような無茶をするのかと問いただしたげに小山内は月岡を見上げる。
「……自分の体のことは分かるものです。これはもうダメだと思いましてね、大急ぎで仕上げました。………寿命、でしょうねえ」
呼吸をするたび、喉が掠れるようなひゅーという音がする。目の前の老人がゆっくりと死に向かう姿を見て、小山内は何も言えずにいた。言葉を扱う仕事をしているくせに、こう言う時に何も言えないことが辛かった。
それでも社会人として、溢れそうになる涙を堪え、小山内は顔を上げた。
「先生、ダメですよ。きっと、これは素敵な本になります。ファンが喜ぶ姿を見るまで、気を強く持ってください」
どこまで行っても、仕事に絡めたことでしかうまく話せない自分の立場が悔しかった。数か月にも満たない作家と編集の関係で踏み入れることができるのは、ここまでだった。
そんな小山内の心中を察してか、月岡は優しく笑ってみせる。
「……ありがとう、小山内さん。私の作品のことを、よろしくお願いしますね」
小山内ははっと顔をあげる。編集として、今自分は『遺作』を託されたのだと直感的に分かってしまった。
また、なにか言葉を紡ごうとして、小山内は口を閉じる。そうしてただ、深く深く、一礼をした。
月岡とのやりとりはそれが最後になった。
月岡の部屋を後にして、小山内は小さく鼻を啜った。そこでちょうど様子を見に来た藤波とかちあい、小山内は少し気まずそうに会釈をする。
藤波はそれにただ頷き、小山内に声をかける。
「小山内さん、お茶飲んで行ってください」
「あの、藤波さん。私はここで失礼を……」
遠慮しようとする小山内に藤波は首を横に振る。
「そう言わないでくださいな。ここ数日、先生以外とお話ししていなくて、少し寂しいのです」
見れば藤波の顔色はいつもより精彩を欠いていて、目の縁は涙の痕で荒れていた。
きっと今は話し相手が欲しいのだと悟った小山内はそれ以上何も言わず、ただ頷いた。
「あ、それともお忙しかった?」
「いえ。大丈夫です。今は、この仕事だけですから」
月岡が倒れてから、小山内の仕事は月岡の小説編集だけに集中させてもらっている。
高田の判断によっては本来の仕事である絵本の担当は代理が入るかもしれなかったが、構わなかった。
「そう……それじゃあコーヒー淹れますね」
小山内を客間に通すと、藤波は台所へと向かった。
客間に残された小山内はいつものソファーに座り、開け放たれた庭を見る。
ざわりと淀んだ空気が、冷たいのと熱いのが入り混じった風にかきまぜられている。
季節外れの台風になると天気予報があったが、確かに空はどんよりと暗く濁り、空の色を映す海もまた、鈍色に白い荒波を立てていた。
月岡の庭には相変わらず、美しい藤の花が揺蕩っている。
六月も終わると言うのに、異常な咲き方だ。こういうものを狂い咲きというのだろうか。
小山内は視線を室内に移し、ぼんやりと客間に置かれた飾り棚へと目をやった。
飾り棚には様々な写真が飾られている。どれも色褪せてはいるものの、この家の歴史を表しているようだった。
一番古いものは家族写真だろうか?軍服を来た二人の若者と着物の姿の中年の男。それと、幼子を抱いた着物姿の女の人が写っていた。
恐らくは月岡の家族写真なのだろう。
それ以降に家族写真はなく、若かりし頃の月岡のみが映る写真が置かれている。どれも入学や卒業といった節目に取られたものばかりで若者然とした浮かれた写真は少なかった。
青年時代の月岡はスラリとした目鼻立ちに銀縁の眼鏡をかけた美丈夫で、今と同じ漆黒の瞳がよく目を引いた。きっと周囲の女の子は放っておかなかったであろうだろうなと、小山内はくすりと笑った。
ふと、数少ない写真たての中に小山内は見覚えのある顔を捉えた。
まだ二十代と思しき月岡と共に写るのは、ワンピース姿の若い女と、ぎこちない笑みを浮かべる藤波だった。
小山内は我が目を疑いたくなった。
親戚であるとか、血縁であるなどという言い訳が通じないほどに、写真にいる亜麻色の髪に紫の目をした男は藤波そのものだった。
何かの悪戯としか思えない。だが、そんな悪戯をこの家の人間がするとも思えない。頭の中を、これまでの先輩の話や、朝比奈の話が過る。
何代も前の編集から藤波を知っている。それに若い頃に朝比奈を刺したという月岡の恋人。月岡の恋人が藤波であるのなら、藤波は一体いつからこの家にいるのだ———?
「小山内さん?」
声をかけられて、小山内はびくりと肩を震わせる。
振り返ると、コーヒーを盆に乗せた藤波が客間の入り口に立っていた。小山内は写真立てを慌てて元に戻す。
「ご、ごめんなさい。つい見てしまって……」
「良いんですよ。飾ってあるものですから」
藤波はコーヒーをテーブルに置いて、小山内に近寄る。
小山内は何か言われないかびくびくとしたが、藤波はただ、小山内の目の前にある写真を見て、穏やかに目を細めた。
「ああ……この写真。びっくりしたでしょう?」
藤波は、三人が写る写真を手に取り、亜麻色の髪の男を指さす。
「これね、俺の大叔父なんです」
「大……叔父?」
間抜けにオウム返しをする。
「この人、藤波さんのご親戚なんですか?」
「ええ。そっくりでしょう?大叔父と僕って、おじいちゃんの血の影響なのか、すごく似ているんです」
藤波はにっこりと笑って言う。
そういえば以前、藤波の家は月岡と古い付き合いがある、と言っていた。
小山内は納得すると同時に、自分の妄想を恥じて、小山内はどっと力が抜けそうになった。
(そりゃあそう……藤波さんが大昔から若いままなんて、あり得るわけないのに何を考えていたの……)
ファンタジックな妄想癖は子供のころからのものだが、最近はどうにも現実と混同してしまいがちな気がした。それもこれも目の前にいる、藤波という非現実な雰囲気を纏った男のせいなのだが。
「……先生が僕に告白をしたのは、きっと大叔父に似ているからなんです」
藤波は伏し目がちに写真を見つめながら言う。
「このワンピースを着ているこの子がね、月岡先生のことが好きだったんですけど、振られてしまったんですって。大叔父がどうしてこの子を振ったのだと聞いたら、大叔父のことを好いているからだ、と」
思わぬ泥沼な恋模様に、小山内は思わず息を飲む。
「え、じゃあその時、大叔父さまは月岡先生とお付き合いを?」
藤波はゆるりと首を横に振る。
「いいえ。大叔父は先生を酷く振ったそうです。当時は今よりももっと、男同士の恋愛が難しい時代でしたからね」
ああ、と小山内は息を吐く。同性愛への偏見は昔より薄まってきているとはいえ、そうである人と、そうでない人では相互理解が難しい。月岡が青年だった頃は殊更、奇異の目で見られたことだろう。
「でも、交友は続いたようでして。僕もご縁があって、こうして先生のとこでハウスキーパーの仕事ができているんです」
「そうだったんですね」
大叔父が若い頃からの付き合いということは、きっと藤波は幼い頃から、月岡のことも知っていたのだろう。
それ故に月岡と藤波の関係は気易く、互いに誰よりも近い場所にいるのかもしれない。
「じゃあ、月岡先生にとって、藤波さんは、家族みたいなものかもしれませんね」
小山内は素直な感想として、そう告げた。その言葉が意外だったのか、藤波は少し呆けた顔をして、照れるような寂しいような不思議な表情で笑った。
「そう見えていたら、嬉しいですね」
その時、小山内たちの背後で空がごろりと鳴った。あ、来るなと思った次の瞬間には空が明滅し、鋭い雷鳴がとどろいた。
轟音に肩を震わせて庭を振り返ると、ぽつ、ぽつと小さな間を置いてバケツをひっくり返したような豪雨が降って来た。
「まずいですね」
藤波は顔を顰めて慌てて雨戸を閉じ、小山内に声を掛ける。
「もう空が荒れて来ましたね。電車が止まる前に、早くお戻りになったほうがいいかもしれません」
「そうします」
こくこくと頷きながら、小山内は身支度をする。
「ごめんなさい、今日は俺、車で送れないんですよ。タクシーを呼びますから。コーヒーを飲んで待っててください」
「大丈夫です。歩いていけますから」
遠慮しようとする小山内の肩に触れ、藤波は半ば無理やりに小山内をソファーに座らされた。
「何を言っているんですか。台風が来るんですよ?女の人を雨風の中歩かせるわけにはいきません。タクシー代くらいは俺が出しますから、ね?」
藤波に諭され、小山内は身を縮こまらせて「すみません」と小さく誤った。
スマホを手に取り、藤波は手早くタクシーを手配する。
待っている間に小山内はせっかく入れてもらったコーヒーを慌てて飲む。まだコーヒーは熱かったのか、少しだけ舌を火傷してしまった。
藤波は小山内を門扉まで見送った。
すでに風が出てきているのか、傘をさしていても横殴りの雨が小山内の服を濡らす。
月岡邸の入り口に停まったタクシーに乗り込み、慌ただしく礼と別れを告げようとすると、藤波が封筒を差し出してきた。
「これ、朝比奈さんに渡してください」
「なんですか?これ」
封筒の大きさからして原稿にも思える。しかし月岡の原稿は防水用のビニール袋に入れられてしっかりと小山内の鞄の中に入っていた。
「手紙です。朝比奈さんへの」
小山内が顔を上げると、藤波は雨に濡れる前髪を避けながら微笑んだ。
「先生は朝比奈さんに渡すかどうか、悩んでいたみたいなんですけど。きっと届けた方がいいと思ったから」
それは、どういうことだろうか。
小山内は疑問に思ったが、問いかける暇は無いと二度目の雷鳴が知らせた。
「……わかりました、朝比奈さんに渡します」
「ありがとう。小山内さん」
藤波はほっとしたように微笑む。
タクシーのドアが閉じられ、車が発信する。
後ろを振り返ると、雨で滲んだ窓越しに藤波の見送る姿だけが映っていた。
鎌倉駅に着くと、駅は線路への落雷があったらしく、あらゆる路線に『運休』の表示がされていた。
「げええ……嘘でしょう?」
深いため息をついて、小山内はがっくりと肩を落とす。
会社からは、既に直帰して良しとの連絡が来ているがこのままでは自宅の横浜まで出るのにも苦労しそうだ。
途方に暮れていると、小山内のスマートフォンが鳴った。ディスプレイの表示は夫になっている。
『もしもし響子?まだ仕事中?』
「ううん。もう帰るとこ」
『そっか。鎌倉の作家さんのところに行くって聞いていたけど、さっきニュースで全線運休って出ていたからさ。もしかしたら帰れなくなってるんじゃないかって』
夫の心配に小山内はじんわりと泣きそうになり、つい弱弱しい声になった。
「そうなの~、今鎌倉なんだけど、どうしようかと思っていたところで……」
『分かった。そっちに迎えに行くよ。どっかカフェでも入って待ってて!』
「うん。分かった……ありがとう」
電話を切り、小山内はほっと息を吐く。優しい夫に感謝しつつ、ひとまず小町通りに入ってすぐの場所にある喫茶店へと逃げ込んだ。
さすがに台風ということもあり、店の客数はほとんどいない。
小山内は早く帰りたそうにしている店員にコーヒーを注文し、ようやく一息ついた。
夫が鎌倉に着くまでにはまだ時間が掛かるはずだ。今のうちに月岡の原稿を見ておこうと鞄を開いて、ふと藤波からもらった封筒が目に入った。
月岡から、朝比奈への手紙。しかし、月岡は渡す気が無く、藤波が渡した方が良いと判断した手紙だった。
封筒を手に取ると、封はされておらず、ちらりと中身が覗けてしまった。他人の手紙を見てはいけないと理性で押しとどめようとするが、小山内はどうにもその中身が気になって仕方なかった。
恐らくは編集部への仕事に関する手紙だろう。しかしもしかすると、朝比奈と月岡の間におきたスキャンダルに関することかもしれないと思うと、好奇心が抑えられない。
(……少し、はじめの文を見るだけ。プライベートなものだったらすぐに元に戻して誰にも言わないし、見なかったことにするから)
そう自分に言い訳をして、小山内はちらりと封筒の中身を引き出す。そして、一番初めにあった文章に、釘付けになり、背筋が凍った。
読んではいけない。見てはいけない。それでも震える手は無我夢中で手紙を捲った。運ばれてきたコーヒーはとっくのとうに冷めているが、それに構う余裕もない。
二十枚以上にも及ぶ手紙の最後の一枚を読み終えて、小山内は真っ青な顔で手紙を机の上に置いた。
これは、何だ?何かの冗談なら誰か早く言ってくれ。すべてはフィクションだと、ここに書き記してくれ。
しかし小山内がいくら手紙の文字を探しても、そこにあることは真実として書かれていた。
(朝比奈編集長に電話……いや、それよりも月岡邸に戻って…………………………)
「っ!」
とにかく動こうと立ち上がった瞬間、腹部に鋭い痛みが走り、自分の中からどろりとぬるいものが流れ落ちていった。
(どうして、どうして今になって……!?)
体全体が、氷のように冷たくなっていく。それに反して全身の血は忙しなく巡り、体に起きた異変を脳へと伝えていた。ここ数年音沙汰の無かった月経が突如、訪れた合図だった。
久方ぶりに訪れる子宮の痛みに冷や汗を溢しながら、小山内は呻きながら疼くまる。
小山内の異変に気がついたのか、店員が駆けつける。しかしその声も酷く遠くに感じた。
苦し紛れに机に置いた小山内の手が手紙を引きずり落とし、濡れた床に手紙が散らばった。
『拝啓 朝比奈様
このことをあなたにお伝えすべきか、随分と悩みました。しかしあなたはれっきとした我々の被害者です。きっとあなたには知る権利がある。
故に月岡の手記をあなたに預けます。
月岡の家に住む憑き物。藤波についてのお話を』
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