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月岡の手記
それは名を『藤波』と申しまして、代々我が家に伝来するものでした。このように言うと、『藤波』とは骨董か何かのように思われるかもしれませんが、そう言うわけではありません。
それはモノではなく、かと言ってイキモノでもなく、ならばその正体は何かと問われれば、答え難き存在ではあるのですが、とかくこの『藤波』というものは人の形をしておりました。
男とも女ともつかぬ、美しい顔をして、切れ長の目にはその名を示すように藤色の瞳を座している。薄い唇はいつも微笑を湛え、見るものに妖しい感情を抱かせた。亜麻色の髪は異人のようでして、後から聞いた話では藤波は海の向こうからやってきたと、伝えられていたそうです。
さて、その頃は歴史上で二回目の大戦が終わったばかりの頃でありました。残念なことに戦の最中に父は夜盗に襲われて死に、一番上の兄は志願兵として。二番目の兄は徴兵にて戦争へ赴き、それっきりになってしまいました。夫と息子を亡くした母は家にいることが辛くなったのでしょう。あるいは自分を家に縛る男が居なくなったので、自由になったとでも思ったのでしょうか。
いずれにしても、早い結婚で三人の子を産んでなお、若い人でしたから、いつのまにやら他所へ男を作り、帰ってこなくなりました。
そうして戦火を免れた広い屋敷に私だけが取り残されたのです。
しかしまあ、家の近くにはそう言った子供は多くありました。何より世間は孤児一人に構うほど暇ではなかったのです。
空襲で焼け野原になった東京ほどではなかったにせよ、五月には鎌倉の畑に米軍の焼夷弾が落とされたり、爆撃機による機銃掃射が行われたりと言ったことがありましたので、皆いつ頭の上に火の玉が落ちるのかと戦々恐々としていたのです。
その日も私は配給の芋をそのまま食らい、暇を持て余して庭で土いじりをしていました。
ふと、真っ青な空に空襲警報が鳴り響き、私は慌てて立ち上がり、庭に掘った防空壕へと走ろうとしました。
しかし運悪く木の根に躓き、私は庭から伸びる坂道を転げ落ちてしまいました。
山梔子の低い枝木に絡め取られ、どうにか転げ落ちるのは止まりましたが、起き上がると足がじんじんとして痛みます。起き上がってみると両方の膝小僧には赤く血が滲み、どくどくと熱い血潮が流れ出していました。喉の奥から耐え切れず、嗚咽が零れます。
鬱蒼と生い茂る木々の中で、警報と自分の泣き声が共鳴して、余計に心細くなって、恐ろしさと痛みで私は声を上げて泣きました。
するとやぐらの中から、声がしました。
「そこの子供。こちらへ来なさい。よく知らぬがアレがなる時に外にいては、まずいのでしょう?」
宥めるような嫋やかで低い声音に吊られ、私は暗い穴蔵へ歩み寄ります。
そして穴蔵の前に立ってようやく、そこが父に行ってはならないと言われていた場所だと気がつきました。
やぐらと呼ばれる崖の穴には、時が来るまで近づいてはいけないと。
一番目の兄は、人を食う化け物がいるのだと言いました。
二番目の兄は、天女がいるらしいのだと言いました。
どちらも正解でした。
「ほうら、そんなところにいないで。こちらへおいで。あの音が怖いのなら、耳を塞いであげよう」
暗闇から伸びた白い手が、私の腕を掴みます。
思わず悲鳴をあげそうになりましたが、暗がりから現れた化け物の姿を見て、私は息を飲みました。
見たこともないほど、美しい男のひとでした。
その人は、ボロ布のような着物を纏っていて、髪も海藻のように乱れていましたが、それでも美しかったのです。
とびきり晴れた日の砂浜のような髪の隙間から覗く藤色の目が私を捉えて煌めきます。
「おやおや。お前は月岡の末子ですか。もう供物を寄越すとは、感心感心」
化け物の薄く乾いた唇から、赤い下がちらりと覗く。
私はそれにさえ目を奪われて、何も言えずにいました。
「して、お前の父はどうしたのです?自分の息子が食われると言うに、見送りにも来ぬのですか?」
「お、お父さまは、死にました!」
振り絞るような私の言葉に、藤波は驚いたように目を見開きました。
「母はどうした?兄も二人、いたはずでしょう?」
「いちばん上のお兄さまは、戦争へ行って死にました。二番目のお兄さまは、パラオへ行ったきり、帰ってきません。お母様は……」
私ははく、と息を飲みこんで、どうにか言葉を続けようとしますが、どうしても涙交じりの声になってしまいました。
「お母さまは、家を出て行ってしまいました。もうずっと、帰ってきません……」
えぐえぐと、涙が次から次へと零れて止まりません。
「……そうかそうか。可哀想に。」
男は私の頭を撫で、優しく抱き寄せてくれました。
「今はほら、アレに見つかるといけません。ここで静かに、静かにしていましょうね」
そういうと化け物は私を抱きしめ、やぐらの中でうずくまりました。化け物の薄い胸に抱かれて、私は息を殺すように空襲が遠ざかるのを待ちました。警報のサイレンと、自分の吐息と、頬に触れる化け物の冷たい手だけが世界の全てでした。
ようやく空襲警報がなりやんで、世界の音が元通りになると、私は美しい化け物の顔を見上げて訊ねました。
「あなたは、だれですか?」
「俺はこの家の憑き物だ。名は、藤波。お前さんの名前はなんです?」
「月岡、倫太郎……」
私は舌ったらずに自分の名前を告げます。
「そうですか。倫太郎と言うのですね」
藤波と名乗った化け物は薄く目を細めて笑います。
「お家が万全でないのなら、今はお前を食べるのはやめておきましょうかね」
藤波がどう言うつもりで言ったのか私は分からず、ただ首を傾げるばかりでした。
後ろを見上げると、やぐらの奥の壁には古ぼけて形を失った仏様が彫られていました。
もしかするとこの人は御仏の使いかもしれないと思い、私は藤波にぎゅっと縋りつきました。
藤波は私を連れて穴蔵を出ると、身なりを整えて私の身の回りの世話を始めました。
初めの頃は電灯の使い方やラジオに驚いたりしておりましたので、まるで古い時代の人が間違ってこの時代へやってきたようでした。しかし藤波はあっという間に慣れて、私の家のお手伝いと近所に名乗りながら共に暮らすようになりました。
なにかとそれぞれの家に事情がある時代でしたから、私の家に藤波が現れたことに、とやかく言う人間もいませんでした。
それよりも周囲の大人たちも自分たちのことで手一杯といった風体で、右へ左へと慌ただしく動き回っていたのを覚えていました。
#
それから間も無くして、二番目の兄がパラオで戦死したと言う訃報が入りました。
「命拾いをしましたね、お前」
訃報の内容を私に読み聞かせたあと、藤波は柔く笑いながらそう言いました。細められた目から覗く紫が、宝石のアメジストのように煌めいています。
「俺はね、ずーっと昔に、お前のご先祖様に拾われて、この家を栄えさせる代わりに贄の子供を頂戴していたのですよ。この家の家長が変わるたび、末の子の命を食らってきたのです。お前はね、本当なら十になる前に死ぬはずだったのですが、お前の父と兄らが死んだ今、月岡の血筋はお前だけになってしまった。月岡の血を絶やさぬようにするのが俺の勤め。ならばお前を死なすわけにはいかないでしょうね」
私はまだ五歳ほどの子供でしたので、藤波の言うことの半分も分かりませんでしたが、どうやらこれからは二人で暮らしていかねばならないのだということは、ぼんやりとわかりました。
「藤波は、私の親になるのですか?」
そう言うと藤波はびっくりしたように目を見開き、それからくつくつと、堪えきれぬように笑い声を漏らしました。
「親!親か!それも悪くはないですねえ」
唇をにんまりと釣り上げ、藤波は意地の悪い声で言います。
「そうだね、お前が望むなら親になりましょうか。父親がよいですか?それとも、母親がよいでしょうか?好きな方になってあげましょうね」
言われた途端に、私はなんだか急に心細くなってしまいました。藤波が母親になるというのなら、私の本当のお母さんはどうなってしまうのでしょう。
「母さんは、もう戻らないの?」
訊ねた私は、どんな顔をしていたのでしょう。幼い頃でありましたから、自分のことはよく覚えておりません。悲しかったとか、辛かったとかいう感情はあったのでしょうが、あの頃は私の家よりも悲しい話がたくさんあって、お前の家はまだ幸福だと、たくさんの人に言われたのもあって感情の記憶が曖昧なのです。
しかし、藤波の笑みがふつりと消えて、迷子のように頼りなく眉を下げた悲しげな顔は今でもよく覚えています。
「……あの嫁子に少しでも月岡の血筋を愛す気持ちが残っていれば、やりようはあったでしょうが、あの子はこの家を出ていってしまいましたらねえ」
可哀想にねえと呟いて、藤波は私を抱きしめました。それでなんとなく、私の母はもう戻らないのだと悟り、わんわんと泣き始めてしまったのです。
「せめて、この藤波がお前の親代わりとなりましょう」
柔く、母のような声で藤波が言うものですから私は余計に母を恋しがって藤波の胸元に縋り付きました。
その日から藤波は、私の親となりました。
藤波は。子供が眠らない時に歌う子守唄を知りません。藤波は、子供が悪さをしたときの叱り方も知りません。唯一知っていたのは、私が嬉しかったり、悲しかったりした時には頭を撫でてやると良いということだけでした。
私の母と違って柔くもなく、私の父と違って汗ひとつも流さない、象牙でできた仏像のように冷たく美しい親でした。
#
藤波が人でないと理解したのは随分早かったように思います。
終戦の日、蝉時雨が鳴り響く中、町の方へ行くと大人たちがラジオの前に座り込んで何やら深刻な顔をしている者が見えました。
ラジオから聞こえるお経のような男の人の声を聞いて周りの大人たちは泣いたり、笑ったりする者で様々でした。
幼い私は大人の話はよくわかりませんでしたから、それが玉音放送だったということは随分後になってから知ったことです。
「ああ、戦争が終わったのですね」
藤波が私の手を引きながら言います。
「本当に?戦争が終わったの?」
「ええ。終わりましたとも。天皇が負けを認めたのですから、そうなのでしょう」
「負けたの?」
私は絶望した声で聞き返します。幼心に、戦争に負けると言うことは絶望的な話だとわかっていたのです。
「そう怯えることはありませんよ。戦争に負けても民草は死にません。むしろ誰かが戦争に勝つと言うことは、これ以上民草が死なないということなのですから。これで良かったのです」
それが真実であるかのように藤波が語るので、私はすっかりと安心してしまいました。しかし、往来で私たちの話に聞き耳を立てていた女はそうではなかったようです。
不意に、藤波の頭に石が投げつけられました。鈍い音と共に、藤波の額が裂けて赤い血が噴き出すのを見て、私は悲鳴をあげました。
「なにが良かったんだ!戦争に負けたんだよ!」
石を投げてきたのは、近所でも有名な国防婦人会の人でした。男の人が戦争に行くのを、応援していた女の人です。
ご婦人は狂ったように叫びながら、二つ目の石を藤波に投げつけます。
「私の旦那は戦争で立派に戦って死んだ!命を賭して戦ったのに、お上はあっさりと負けを認めやがった!こんなのあんまりじゃないか!お前、異人の子だろう!?お前たちの親が私の夫を殺したんだ!」
ご婦人がまったくもって見当違いなことを言うので、私は藤波を庇うように前に出ました。
「違うよ!藤波は異人の子なんかじゃない!」
「いいのです倫太郎。ほら、行きますよ」
ご婦人の罵倒を背に、藤波は私の手を引いて、家路へと向かう坂を登っていきました。
私にはあの婦人がなぜ叫ぶのか分からず、とても恐ろしく感じたのを覚えています。
「藤波、血が」
「平気ですよ」
先を行く藤波の顔は見えませんでした。しかし、血がぱたりぱたりと落ちて地面の砂がそれを吸って赤い跡を残していきます。しかし家に近づくにつれ、血の流れは減り、到着した頃にはすっかり血が止まっていました。
「倫太郎、前がよく見えないので、桶に水を入れてきてくれますか?」
玄関先に荷物を置いて、私は言われた通り、桶に水を入れて藤波のところへ持っていきます。血は乾いて、赤黒い汚れになっていました。
藤波が桶で顔をすすぐと、顔の血は綺麗に落ちて傷一つない綺麗な額が現れました。私は驚いて、わあと声を上げました。
「藤波、怪我は治ったの?かさぶたにはならないの?」
不思議がる私に、藤波は手拭いで顔を拭いてからこくりと頷いた。
「ええ。もう平気です。俺はお前や他の人と違って、傷の直りがはやいのですよ」
どうやら藤波は、恐ろしい速さで怪我が治るようでした。
その後、落ち着いてから藤波は私にしっかりと教えてくれました。
「お前には、説明しておきましょうね。しかし、よそで決して話してはいけませんよ」
そう言って藤波は一つ一つ、自分のことについて話してくれました。
「俺はお前と同じ形をしていますが、お前のように年を取りません。ずっとこの姿のままでいます。食事も食べられますが多くは必要としません。水だけでも俺は生きられます。そして怪我を負うことも、病にかかることもありません」
そうした生き物を不死、というのだと藤波は教えてくれました。
他にも藤波はいろんな力を見せてくれました。
家で飼う鶏の卵から雛をかえす力。植えたばかりの種を花へと成長させる力。そして、老いた猫に子供を産ませる力。しかしその力の源はすべて同じだというのです。
「俺の力は全て、これまで食らった子供の力です。生きようとするためにその身にたっぷりため込んだ生命力。月岡の子供を食らうことで、俺は周囲のものを栄えさせる。他から命を奪い、その力を元に消えそうな命には、その先を続ける灯を与え、命を宿すものにはその手助けをする。そうあるようにとされた憑き化け物なのです」
夏の終わり、縁側で右手に羽化したばかりの蝉を、左手に死にかけの蝶を持ちながら、藤波は悲しそうにそう言います。
藤波が見せてくれたのはある実験でした。
左手の蝶は庭に落ちていた、死にかけの蝶でした。もう飛ぶ元気もなく、地べたに落ちて足を震わせることしかできないほど衰弱していたのを、私が拾ったものでした。
薄い黒と青の翅の色は褪せ、足も二本、折れています。幼い私から見ても、もう死ぬであろうとわかるものでした。
一方で右手の蝉は今朝羽化したばかりの蝉で、体もまだ翡翠のように緑色めいた茶色をしていました。蝉は藤波の手から逃れるためにいやいやと脚を動かしていました。
藤波が左手の蝶の翅を壊さぬよう、輪郭をなぞるように撫でます。
すると蝶の羽に艶が戻り、ぴくりと二、三度脚を痙攣させてから起き上がり、力強く羽ばたいて藤波の手から夕景の空へと飛び立ちました。
右手の蝉は、動かなくなっていました。藤波が握り潰したわけでもなく、綺麗な形のままで死んでいたのです。
私が見たものは、奇跡でした。
「分かりましたか?俺の力は奪った命を他の命へと移す力。元になる力が若ければ若いほど、吸い取る力は多くなる。奪い、与える栄えの力」
藤波は少しだけ辛そうに眉根を寄せて呟きます。
「人間の子供は生きる力が漲っているので、そうねすね……赤子を一人を食らえば百年はお前たちに栄えを与えられるでしょうか」
死んでしまった蝉を土に返してやりながら、藤波は説明してくれますが、私はと言えばそれどころではありませんでした。
私はしきりに興奮し、藤波の手を取り、あれやこれやと調べました。けれど藤波の手は、そこらの人の手と同じ形をした、細く白い、美しい手であることしか分かりませんでした。
「お前が私の力にあやかれるのは、きっともう少し先でしょうね」
くすくすと笑いながら私の頬を撫でる藤波の手は少し湿って冷たくて、夏の陽気に熱った頭を心地よく冷やしてくれるものでした。私は藤波の手にすり寄って、懐くようにその手を握りました。
「私、藤波が好きだな」
私はよくそのように、脈絡もなく藤波への好意を口にしていたように思います。その度に藤波は優しく笑って、こう言うのです。
「それはきっと、気のせいですよ」
私は、藤波が好きでした。
まだ母恋しさと愛しさに区別のない児戯の恋でした。ですので、私は何度も藤波に「好きだ」と言いました。しかしその度に藤波は分かったような顔をして「知っていますよ」と答えて、二言目には「でも、それは気のせいですよ」と嗜めた。
幼な心に私は傷つきました。
間違っているのは、藤波の方だ。私は藤波のことを好きなのだ。すぐにでもそう言い返したいのに、藤波が私を撫でる手があまりに優しく、美しく笑うものだから、私はいつも、何も言えなくなってしまうのでした。
成長するにつれて、私は藤波への恋慕を口にしなくなりました。
#
私が十代の頃、戦後の混乱期としては幸運なことに私は中学校に通うようになりました。家のお金については、父と兄たちが、私と藤波がしばらく生きていけるほどの遺産を残してくれていましたので、幸運にも子供の頃から働かず、勉学に励むことができたのです。
どう見ても親子には見えない私と藤波は、近所の人々には、戦後にはよくあった、訳ありの親子として我々は見られていたようで、特にとやかく言われることもありませんでした。
やがて私には友もでき、部活動にも勤しむどこにでもいる思春期の子供に私はなりました。
その頃には、自分の中にある感情が萌し始めている事に気づきかけていました。
藤波の薄い唇や、亜麻色の髪を括った時に見える白い頸を見るたび、如何にも胸と腹の間に鋭い針が刺さったような気持ちになったり、酷く喉が渇いたようになったのです。
幼い恋慕が確かに、成長と共に情欲へと変化していることに自分で自分に嫌気がさして、わざと藤波を避けて、心無いことを言うようにもなってしまいました。まるで自分が別の生き物に変容したような心地です。
藤波はといえば、長いこと人間を見てきたからでしょうか。私の変化にさえ動じることはなく、普段と変わらずに過ごしています。
変わったことといえば、私に好きな子はいないのか、ガールフレンドはいないのかと、やたらに聞くようになったことでしょうか。
私はそれさえ腹立たしくて、藤波をつい無視してしまうこともあったのです。
ある春の日。学校の帰り道で私を待ち伏せている少女に呼び止められました。白いシャツに紺のスカートを履いたおさげ姿の少女に、私はまるで見覚えがありません。しかし少女の方は、そうでないようです。
「これ、読んでください!」
差し出した桃色の便箋と同じ色に頬を染めながら、少女は真っ直ぐに私を見つめて来ました。私は「はあ」と覇気のない返事をしながら手紙を受け取り、少女の顔をもう一度よく見ました。やはり、見覚えはありません。
「……失礼ですが、あなたはどなたですか?」
そう訊ねると少女ははっと傷ついたような顔をして目を逸らし、お下げを揺らして私の前から走り去ってしまいました。
「月岡ぁ、お前は罪な男だなあ」
私の肩にわざともたれ掛かりながら、級友が言います。
「まあ、お前はそれなりに顔も良いしな。目はちょっと切れ長だが、女にはそれがウケるんだろうよ」
「ウケるって、なんだよ」
「お前まさか、分からないわけじゃないだろう?」
級友が呆れたような顔をするのがなんだか腹が立って、私は彼をそっと小突いて引き剥がしました。
気恥ずかしくて誤魔化したのです。私も男でしたから、手にした手紙がどんな意味を持つのか、それを知らぬほど子供ではありません。
「今日、恋文をもらったんだ」
夕飯後に藤波が洗い物をしている側へ寄って、私はそう告げました。すると、藤波は目をぱちくりとさせた後、ぱあっと顔を輝かせて嬉しそうに笑ったのです。
「あら、あらあらまあまあ。それは良かったですねえ」
くふくふと、嬉しそうに笑う藤波を見て、何故だか私は胸に蟠るような感情を覚えた。
「……良かったのかなあ」
気乗りしない私に対し、藤波は興奮を抑えられないようにそわそわと訊ねて来ました。
「良いことですとも。それで?どんな子なんです?」
「どんな子、って……?」
「恋文をくれた子ですよ!可愛い子なんですか?」
洗い物を終えたばかりの手を布巾でパタパタと拭いて藤波は振り返る。
「その子と、お付き合いするんですか?」
かっと顔が熱くなったのは、照れや恥ずかしさからではなかった。
「藤波には関係がない!」
そう怒鳴って私は自分の部屋へと引き下がり、明かりをつけぬまま、カバンを乱暴に投げ捨てて、机に突っ伏しました。
私が恋文をもらったと言っても、なんとも思わない藤波が腹立たしくて仕方なかった。と、同時に、そんな藤波に嫉妬か何かを期待していた自分に気づいてしまったのです。
一時間ほど、そうして拗ねていたでしょうか。しばらくして、藤波が私の部屋の戸を叩きました。
「倫太郎、入りますよ?」
断りを入れて、藤波が戸を開ける。そして部屋が真っ暗なのを見て、呆れたように小さくため息をつきました。
「……明かりもつけないで、もう眠るつもりなんですか?せめて制服は脱がないと、シワになりますよ」
暗い部屋に藤波が入り込んでくる足音を聞きながら、私は黙り込んでいました。
「本当に眠ってしまったんですか?」
藤波の細い指が、肩に触れる。私は思わず肩をびくりと揺らして、頭をあげました。
「起こしてしまいましたか?でも寝るなら布団になさい。そうでないとか背中を痛めますよ」
嗜めるような優しい声でそう言いながら、子供をあやすように藤波は私の頭を撫でました。
「呆れた子。恋文をからかったくらいで、不貞寝するなんて、子供ですねえ」
そう言いながら私の頭を撫でる藤波の手は優しくて、涙が出そうになりました。
藤波は、私に無垢でいて欲しいのです。他の少年と同じように、少女に恋をし、成長し、子を成して欲しいのです。
ずっと語り聞かされたことでした。それこそが藤波の悲願であり、存在意義なのです。
私は庇護されるだけの存在で、藤波はにとってそれ以上でもそれ以下でもありませんでした。絶望に苛まれて、私はつい唇を強く噛みました。
「……藤波は、僕に恋人ができたら嬉しいのですか?」
私の問いかけに、藤波はそっと目を細めながら柔らかく笑んだ。
「ええ、もちろんですよ。そうなってもらわないと困ります」
「どうして?」
「どうしてって、そりゃあ昔に話したじゃあありませんか。俺は本来、お前を食べようとしていたんですよ?」
そう言われて、幼い頃に藤波に説かれた言葉を思い出す。
「俺はこの家を栄えさせる代わりに、歴代の家長の、末の子を食らってきた。そうあれとされた、化け物なのですよ。…………それともお前は、俺が只人のように、本当にお前を我が子として愛すと思ったのですか?」
藤波の手が、私の頭を掴む。側頭部に添わされた手に込められた力は強く、藤波が本当にやろうと思えば私の頭を砕くことくらいは容易いのだろうと分かった。
「早く良い娘と番って、子を産みなさい。そうして二人でも三人でも子供を作って、その末の子を俺に捧げるんです。そうすれば、こんな親子ごっこも終えられる。お前の家族はまた、千代に八千代に栄えることができるのですから」
「嫌だ」
反射的に言葉が飛び出ていました。拒絶されると思っていなかったのか、藤波は面食らったように息を飲みました。
「……どういうことです?」
「私の子なんて、食べさせたくない。いっそ私が、お前に食われても構わないと言ったら、どうするのだ?」
私の問いに、藤波の顔からふっと笑顔が消えた。ぞくりと、背筋が震える。
私は、藤波を試したかったのかもしれません。自分を食べていいと言えば、藤波はどんな顔をするのでしょうか。
呆れて笑うでしょうか。それとも、怒るでしょうか。
藤波はすっと、私の左手を取りました。
何をされるのか分からず、私は首を傾げます。藤波は私の手を口元へ持っていき、口を小さく開けて人差し指の先をかちり、と軽く噛みました。
「そうですねえ。食べていいというのなら、遠慮なく。爪の先からゆっくりと味わいましょうか?」
藤波の舌が、私の指先をなぞります。ぬるりとした感触に、私は背筋がぞわりとしました。
「こうして肌を舐って、お前の味をしっかりと堪能して、その顔が恐怖に染まった頃に………」
藤波の口が開かれ、白い歯が覗く。赤い唇の端に見えたえ犬歯に目を奪われた隙も無く、熱い痛みが指先に走り、私は思わず手を引きました。
見ると、左手の人差し指には赤い歯形が付いています。指を抜く時に藤波の歯と擦れたせいか、歯形の周囲の皮膚は少し削げて、血が滲んでいたました。どくどくと震える心臓に合わせて、赤い色はじわじわと私の指を染めていきました。
「………馬鹿ですね。手を引くのが遅いですよ」
藤波は口元を拭って私の手を取り直す。流石に怯えて手を引きそうになりましたが、藤波は有無を言わさず私を立たせ、台所へと連れていきます。そして私の手を蛇口の下へ持っていき、綺麗な水で洗い流しはじめたのです。
ピリリとした痛みが走り、私が渋い顔をすると藤波はくすくすと笑いました。
「呆れた子。俺が本気で噛まないとでも思ったんですか?」
藤波に顔を覗き込まれ、私は俯いて顔を逸らしました。
愚かなことに、私はこの時、藤波に食べられるなど、露程も思わなかったのです。
「痛いでしょう?これに懲りたら、もう二度と自分を食べればいいなど言ってはいけませんよ」
「私を、食べないのか?」
執拗にまた訊ねると、藤波はため息を吐き、蛇口を止めて、私の手を綺麗な布巾で拭いた。
「……俺が、本当にそうするとお思いなのですか?確かに私は、人の子を食らう化け物ですが、自ら餌場を無くすなんて愚かな真似はしません。お前が子供を作るまではね」
藤波は近くに置いてあった救急箱から手際よく消毒液と絆創膏を取り出して、私の手当をします。
「……大人になって、子供をあげてからも、私はいらないか?」
「嫌ですよ。大人なんて筋張っていて、旨くもない」
藤波は即答する。
ピンセットで摘んだ綿に含ませた消毒液が傷に触れる。じくりとと染みるような痛みが指先に走り、思わず息が詰まりました。絆創膏を綺麗に貼られ、ようやく藤波は私の手を解放してくれました。
「はい、おしまいです。ちゃんと寝る前に着替えるんですよ」
藤波は救急箱を片付けると、ほったらかした家事をするためにどこかへ行ってしまいました。
絆創膏に包まれたおかげでいくらか痛みはマシになりましたが、私の喉の奥にはまだ熱いものがぐるぐると蟠っているような感覚がありました。
#
1960年某日
先日、私は二十の歳を迎えました。
近頃は幸運にも私の作品が文壇で評価されるようになり、少しずつ雑誌にも載せていただけるようになりました。藤波は時折、からかいまじりに私のことを「先生」などと呼ぶようになり、よそと会う時はやたらとそれを強調して楽しんでいるようです。
十八の時から通い始めた横浜の大学へ通もそれなりに楽しく、私の世界は少しずつ、外へと開けていくように思えます。
煙草や酒と言った少しの悪さも覚えはしましたが、概ねは好青年として範疇ではないでしょうか。
最も、藤波は煙草の匂いを嫌うので、私も仲間との付き合いでしか吸いません。
そう、藤波とは言えば、まったく変わりがありません。出会った頃のまま、若く美しいままでいます。
私の背もとっくのとうに藤波を追い越し、二人並んでいると友人同士に見られることが増えたように思います。
私が高校に上がったころから藤波は私の親代わりを名乗るのをやめ、近所の人には、『先代の藤波』の親戚で、お手伝いさんとしてこの家にいるのだと言うようになりました。
元からご近所づきあいの薄い家でしたから、大きく疑問には思われなかったようです。
他に少し変わったことと言えば、近頃は庭仕事に精を出しているようでした。
私が子供の頃に山で拾ってきた藤の花の苗木を、藤波は上手に育てています。
今年の春には大掛かりな藤棚を二人で組み立てました。
毎年五月に咲き始める藤の花は、他の藤と違って夏の初め頃にまで花を咲かせ続けます。きっと、あれも藤波の力なのでしょう。
初夏の風に吹かれて揺れる紫の花房越しに、庭にいる藤波を見るのが私は好きです。
薄茶の髪を日に透かして虫や花と戯れる藤波は、見目麗しい夏の神さまみたいで、ここが極楽のように思える時さえあります。
このまま死んで魂が空気になって、庭の日差しを浴びて微睡む藤波の睫毛を透かす光になれたら、きっと幸せでしょうなどと、夢見がちな幻想を抱くことすらままありました。
……私は今でも、藤波が好きです。幼い頃に言わなくなってから、随分長いこと口にしてはいません。きっと藤波も、私が今でも彼を愛しているなどと、思わないでしょう。
なにせ女友達を交えて遊んでくると言うたびにどこかそわそわと、息子の恋人を期待する母親のように落ち着きがなくなるのですから。
もっとも、母親の記憶はおぼろげなので、母のようだと言うのも、想像でしかないのですが、正直これには参ります。
きっと私が好きだと言えば、藤波はきっと困ってしまう。悲しい顔をして私を叱り、この心を否定するでしょう。私はそれが恐ろしくて堪らない。
藤波に拒絶される夢を見ては、夜中に飛び起きてしまうたび、胸を搔きむしるほど気が狂いそうになるのです。
ですが、一体誰にこの心を白状できましょう。
家に憑く化け物に恋焦がれている。美しい不死の男に、この愛を受け止めて欲しいのに、言えば二人が壊れてしまう。
もし人に言えば、きっと夢物語の書きすぎで、頭が狂ったと思われて、笑われることでしょう。愛しい人に、恋焦がれる心を伝えられぬまま、私はこうして紙にインクを滲み越せることでしか、感情を吐露できないのです。
#
1965年 夏
嬉しいことに、少し大きな出版社で妖怪退治の小説の続きを書かせていただけることになりました。
編集長は『祓い屋青紅葉シリーズ』と銘打って続き物にしようと進言してくださっていますが、正直あの話を長く続ける自信はありません。とはいえ、せっかく巡って来た好機です。
ここはひとつ、力を入れねばならないでしょう。
……近頃は、ちょっとした出来事がありました。他人から見れば些細な、それでも私からすれば人生を揺るがす大事件でした。
藤波と、喧嘩をしたのです。
きっかけは、ある女友達を家へ連れて行ったことでした。
その子は名取という子で、長い黒髪と丸い額の綺麗な可愛らしい子です。名取とは大学時代に同じ授業で隣同士だったことを理由に仲良くなった友人の一人でした。
文芸の趣味が良く合い、帰りの電車がなくなるギリギリまで喫茶店で語り合うことも多々ありました。
周囲からは恋仲ではないのかと揶揄われたこともありましたが、名取は凛とした態度で周囲のおちょくりを聞き流していました。
「はしゃぎたいのなら、はしゃがせておけばいいのよ。周りの囃し立てで変わるくらいなら、あたしと月岡くんの関係はその程度ってことよ」
名取は独特の感性を持った女性でした。周囲に流されず、常に自分に芯を持つ、名取のあっさりとしたところが気に入って、私たちは随分と長く、友としてあったと思います。
卒業して幾年か経っても、名取との交流は続いていました。
先日も鎌倉では毎年花火大会をやるのだと話したら、名取は是非とも行きたいと言ったので連れて行くことにしたのです。
花火大会の日、名取は朝顔柄の浴衣を着て、髪型も少しおしゃれしているようでした。
由比ヶ浜の花火大会は浜を埋め尽くすほどの人が集まります。
沖合に出た漁船から打ち上げられる花火が、濃紺の海面に打ちあがる様は何度見ても見事なものです。
屋台を冷やかして、人混みでごった返す浜辺にどうにか落ち着ける場所を見つけて、私と名取は今か今かと花火の打ち上げを待ちました。
「ねえ、本当に藤波さんは来ないのかしら?」
「いいんだ。本人が来ないと言うのだから仕方ない」
「ふうん。せっかく噂の藤波さんに会えると思ったのに、残念だわ」
名取は頬を膨らませながら軽く拗ねました。名取は藤波のことをよく知りません。ですが、私がよく話題に出すものでしたから、彼のことが気になって仕方ないようでした。
花火が始まるまでは互いの近況を話したように思います。
名取は東京の出版社に就職したようでしたが、お茶汲みばかりで全くつまらないのだと愚痴を溢していました。
他にも学生時代の共通の友人が結婚したと言う話、あるいは、別の友人はもう子供が三人いると言うような取り止めのない話ばかりをしていました。
「そういえば聞いたことがなかったけれど、月岡くんは好い人はいないの?」
首をこてんと傾げながら訊ねられて、私はなんと答えたら良いか、ひと時の間を置いてしまいました。
名取とは恋の話をしたことはありません。名取自身、あまり色恋に興味があるような女性ではありませんでしたから。ですが名取であれば、話しても良いかという気もしたのです。
「………好きな人は、いる。まったくもって、叶わない人だが」
口にしてみると、心臓の奥がぎゅうっとしまって、鼓動が早くなるのが分かりました。そしてどうしようもなく、己の中にあり続けた感情の大きさを自覚してしまうのです。
名取は私の言葉が意外だったのか、黒目を大きく見開いて、それから小さな声で呟きました。
「そう、なんだね」
「名取?」
唐突に沖合からヒューという甲高い音が響きました。
夜空が明るくなり、千紫万紅の色が濃紺の海と夜空の二つに現れる。
「わあ、すごい!綺麗ね、月岡くん!」
名取がはしゃいできゃあきゃあと歓声を上げます。
しかし、私は少し呆けて、二、三個の花火を見逃してしまいました。
「月岡くん、今の見た?綺麗な紫の花火!」
目の前に弾ける色を見て、私ははっと我に返り、すぐさま花火に夢中になりました。
ですが、気のせいでしょうか。花火が打ちあがった一瞬だけ、花火の光に照らされた名取の顔は、泣きそうに見えた気がしたのです。
花火大会が終わり、家路につく群衆に紛れて帰ろうとした時、名取が「あっ」と声を上げました。
「どうした?」
「やだ、下駄の紐が切れちゃった……」
「どれ、見せてみろ」
私は屈んで、名取の下駄を直そうとします。しかし下駄の親指と人差し指の真ん中にある前坪が真ん中からぶっつりと切れており、すぐに直すのが難しそうでした。
「こりゃあまずいな……」
どうしたものかと考えて、私は名取の足が、擦れて真っ赤になっていることに気が付きました。
名取は普段、パンプスを履いていましたから、今日は浴衣に合わせて慣れない下駄で歩いて痛めたのでしょう。
痛々しい足が可哀そうで、私は名取に自分の靴を貸しました。
「名取、私の家に寄ろう。道具があるから下駄を直せる。それに、足も休めた方が良い」
「え、でもお家の人に悪いわよ」
名取は困ったように遠慮しましたが、私は首を横に振りました。
「いいんだ。どうせ私と藤波しかいないのだから」
私は名取を連れて、家に帰りました。
玄関先で藤波に声を掛けると、藤波は驚いたような、気色ばんだような笑顔で私と名取を迎えました。
「おやおや、もしかして名取さんですか?倫太郎、どうしてまた急にうちへお呼びしたのです?」
にこにこと機嫌よく私に訊ねる藤波の態度が、私には少し不愉快でした。あからさまに、私と名取になんらかの関係があることを望んでいる風でしたから。
「名取の下駄が壊れてな。道具を使うよ」
「ええ、わかりました。おや、名取さん真っ赤になってしまっているじゃないですか。手当てしてさしあげますから、こちらへどうぞ」
藤波は名取の靴擦れを看止めると、彼女の手を取り客間へと連れて行きました。
戸惑う彼女に、私は遠慮することは無いからね、と精いっぱいの笑顔で見送ったのです。
それから私は玄関で十分ほど、下駄の修理に勤しみましたが下駄の鼻緒はなかなかに手ごわい壊れ方をしていて、新しい紐が必要でした。奥の座敷から代わりの紐を取って玄関へ戻る途中、ふと客間の戸が薄く開いていることに気が付きました。
そのまま通り過ぎればよかったのですが、客間から聞こえてきた声が気になってつい、立ち止ってしまいました。
「それで、うちの作家先生とはどのような関係でいらっしゃるんです?」
藤波の浮かれた声がしました。まさか名取に直接そんなことを訊ねるとは思っていなかったので、私は戸惑いました。
しかし、名取は冷静なようでした。
「残念だけど、藤波さんが期待するようなことではないの。本当よ?私たち、大学時代からずっと仲のいいお友達だもの」
「そうなんですか?それは残念。倫太郎が女の子を連れてくるなんてめったに無いことですから、期待してしまいました」
くすくすと揶揄うように藤波は言いますが、その言葉尻には本当にがっかりしているような無念さが含まれているのが分かります。
「……月岡くんは、私のことよりも、きっとあなたのことを気にするわ」
「……どう言うことでしょう?」
藤波の声に戸惑うような震えが混じりました。名取が、小さくため息をついて、内緒話をするように声を顰めます。
「月岡くんね、昔から時々、恋をしている顔をするの。誰のことを考えているのかなって思っていたけど、きっと藤波さんのことを考えていたのね」
名取の言葉に私は息を呑みます。彼女は一体、何を言うのでしょう。私は一度も名取に藤波のことを好いている白状したことがありません。
彼女が私の気持ちを知り得るはずはないのにと、私は狼狽えました。
名取はまだ、言葉を続けます。
「初対面のあなたにこんなことを言うのもおかしいけれど、私ね、月岡くんが好き」
今度こそ、息が止まりそうになりました。そんなことは初めて聞きました。それと同時に、やめてくれと、全身から汗が吹き出るほどに願ってしまったのです。私は名取の思いには答えられない。名取に好きだと言われて仕舞えば、私たちの関係が壊れるのは明らかです。私は一瞬にして名取との友情が壊れてしまいそうなことに気が付いて、酷く怯えました。
しかし名取は私が思うよりずっと賢くて、冷静な女性でした。
「私ね、月岡くんに振り向いて欲しくて、おしゃれしたり、本を読んだりしたわ。でも全部、彼には意味のないことだったの。今日だって、月岡くんに褒めてほしくて慣れない浴衣を着てきたけど、彼一度も私のことなんて見ていなかった。視界には入っても、心では見てくれないの。でもね、この家に来て、藤波さんを見て、分かっちゃった。女の子ってこう言う時、勘がいいから嫌よね。……ねえ、きっと月岡くんは、藤波さんのことが好きよ」
最後の方は涙の混ざった声で名取が言います。
藤波は、戸惑うように黙り込み、必死に言葉を探しているようでした。
「……それは、貴女の気のせいですよ。私は男ですしそれに……」
“それに化け物だ”とでも続けようとしたのでしょう。しかし言葉を飲み込んだ藤波に、何も知らない名取は否定の言葉を投げかけます。
「いいえ。藤波さん、そんなことはどうでもいいの。理由やしがらみなんて、言い訳にしかならない。だって恋って、そんなもの。シェイクスピアの昔から、そう決まっているのよ。知らなかった?」
静かな沈黙が、家の中に流れます。
庭の方から気の早い鈴虫がチロチロと羽を鳴らす音が耳の奥にまで聞こえるような静寂でした。
しばらくしてようやく、藤波が口を開きます。
「倫太郎に、好きとは言わないのですか」
「言えません」
はっきりとした声で名取は言い切ります。
「どうせ叶わぬ恋だから。玉砕して月岡くんとの関係が壊れてしまうのなら、私はずっと彼の友人としてありたいの」
それに、と名取は続けます。
「言ってみてから、やっとわかった。私きっと、あなたに恋する月岡くんが好きだったのよ」
……それ以上聞いていられなくて、私は足音を忍ばせながら玄関へと戻りました。
私は自らの愚かさを呪いました。己のことしか考えない馬鹿だと気づいてしまったのです。
目頭から熱い涙が溢れそうになりましたが、私には泣く資格などありません。
名取は私に想いを寄せながら、それを壊すのを拒んで自分の恋を捨てたのです。
少しして、名取の「そろそろお暇しなければ」という声が聞こえてきました。下駄はとっくに直っていましたが楽なんとなく私は声をかけられずにいました。
客間から出てきた名取の足は応急処置の包帯が巻かれており、藤波に手厚く看護されたようでした。
私は名取を駅まで送ることにしました。
名取は、何事もなかったかのように振る舞っています。
「そういえば川端先生の新作はもう読んだ?」
「いいや。まだだなあ」
「とても興味深いわよ。主人公が女の子なのだけど、愛する人の姿が見えなくなる奇病に掛かってしまうの。新潮のバックナンバーをうちに取っといてあるから今度貸してあげるわね」
「それはありがたいな」
名取の足を痛めぬようゆっくりとした足取りで、私たちは駅へと向かいます。
花火客はすっかりといなくなり、静かな由比ヶ浜を三日月が朧げに照らしていました。だんだんと話題も尽きてきて、私たちは無言で浜のそばを歩きました。
「………足、辛くないか?」
「うん、平気……藤波さんとっても上手く手当してくれたみたいでもうちっとも痛くないの」
ふと、私は藤波の力のことを思い出しました。触れたものの命を華やがせる藤波の力は、名取のような女にも現れるのでしょうか。
ようやく由比ヶ浜駅が見えてきて、別れの時がきました。私は最後まで、名取に何か言うべきかと悩みましたが、結局何も言えませんでした。言えば、数少ない友を失うと恐ろしくなったのです。それは名取も同じようでした。
ですから私たちが取り交わした言葉は、いつもと同じものでした。
「それじゃあ、また」
「ええ、また」
それが私たちの関係を決定づけるものになりました。
名取の乗った電車を見送り、私は一人家路につきました。来た道を戻るだけのはずなのに、見慣れたはずの道はまるで知らぬもののようでした。
宵闇に響く波の音が鼓膜の奥へ響くほど私の心が静かでした。
全くどうして私は身勝手な男でしょう。私は名取の愛に応えられないことに傷ついて、一人センチメンタルに陥っていたのです。
私は、なにをしてやれたでしょうか。名取の思いを受け取って、嘘をついてでもその思いに報いてやればいいでしょうか。ですがきっとそれは、彼女を侮辱する行為です。だって彼女は、私の本当の気持ちも知っているのですから。彼女はきっとすぐにそれがうわべだけだと気がつくでしょう。
きっと名取は今日、恋を失った。彼女はどれほど傷ついたでしょう。もしかすると、今宵は枕を濡らすでしょうか。いいえ、私には彼女のそれからを想像することも許されない。彼女は私と友であるために自分の心を殺したのですから。
私はずっと、名取の優しさに救われていたのです。
それでは私は?私もまた、名取と同じように、藤波と二人を壊さないために恋を諦めるべきでしょうか?ぐるぐると考えがまとまらないまま、私は気が付けばとっくのとうに家へついてしました。
「おかえりなさい。今日はお疲れ様でしたねえ」
少しくたびれた様子で、藤波が私を迎え入れます。
私は何も言わず、ただ汚れた足を洗いに風呂場へ行きました。花火大会から帰る時、名取に靴を貸したので、足の裏は土で汚れて真っ黒になっていました。
水道の水を桶に溜めて足を濡らす。石鹸を付けて足を洗うと、これまた黒い泡が次々に溢れてきました。無言で足を洗っていると、藤波が脱衣所からこちらを覗き込んで来ました。
「ねえ、倫太郎。名取さんはとても良い子ですね。賢くって器量も良い。それに、お前を好いているようでしたよ?」
白々しい藤波の態度に、私は苛立ちを覚えました。名取が私を諦めたことを知っていて、私が本当は、藤波を好いているのだと知っていて、よくもまあ言えたものです。
「……私と藤波はただの友人だよ」
「ただの友人のために、果たしてあんなにおしゃれをするでしょうか?」
「近頃の女の子は、ああしていつも着飾っているんだよ」
「ですが、わざわざ東京からお前に会いに来てくれたのに?」
「花火を見に来たんだ。私に会ったのはついでだ」
藤波の問いかけに、私は静かに否定の言葉を返します。段々と藤波の声に焦りが混ざってきました。
「けれど、倫太郎……。あの子は、お前に恋していたのですよ……?」
切羽詰まったような声で、藤波が言う。振り返ると藤波は苦しそうな顔で胸を押さえながら、私のことを睨んでいました。
「…………知っている」
そう言って私は足にまとわりついた黒い泡を水桶に溜めた水で流しました。淀んで濁った水が、排水溝の中へと吸い込まれていきます。
「お前も名取から聞いて、知っているのだろう?」
自分がどんな顔をしていたのか、わかりませんでした。ですがきっと、怒った顔をしていたのでしょう。藤波は怯えたようにアメジストの目を見開いて、二歩下がりました。
「………倫太郎、なぜあの子ではいけないのです?知っていながらどうして?」
分かりきっている答えをなぜ訊ねるのか、不思議でなりませんでした。私の心を知っていながら、そうでなければ良いと願う藤波が嫌でした。
きっと私は頭に血が上りきっていたのでしょう。後先も考えずに、ただ、喉の奥から血が滲みそうな告白だけが溢れ出していました。
「………お前を愛しているからだ。藤波」
口から吐き出してしまうと、やはりどうしても、自覚してしまう。それと同時に、原の中へすとんと落ちるものがありました。
どうしたてきっと、私はこの恋を諦められません。
息の詰まるような間がありました。藤波は狼狽えて絶望に満ちた顔をして、私から目を逸らしました。
「…………いけません。それだけは、いけない」
か細い声が私を否定する音を聞いて、頭の奥で何かが弾けました。気がつけば私は藤波に詰め寄り、声を荒げていた。
「何故だ。お前以外誰も好きになんてなれない」
「なりません。それだけは許されない。倫太郎、お前はもう大人です。早く子どもを作らなければ、間に合わなくなる。お前に子供ができなければ、俺も月岡の血筋も、ここで滅びてしまうんですよ!」
「滅びたってかまわない!」
自分でも驚くほど、空気を震わせる怒号が飛び出しました。
「家がなんだと言うんだ!月岡の血筋はもう私だけだ。家の存続なんて、知ったことではない!」
その途端、藤波が手を振り上げて私の頬を打ちました。弾けるような音がして、左頬の頬骨に熱い痛みが広がります。藤波に打たれるのは初めてのことで、私は思わず目を剥きました。
「何を、怒っているのですか。倫太郎?」
藤波が私を睨みつけます。熱を帯びた涙に覆われた、いつもより深い紫が私を虐みます。
もう、耐えることはできません。胸の内にしまっておいた言葉が、次から次へと溢れて来ます。
「…………私は悔しいのだ藤波。お前に私の気持ちを味合わせてやりたくて仕方がない。呼吸ができないほど苦しくて、心臓は引き攣れそうなほどにお前を愛しているのに、お前は一つもわかってくれない。藤波、お前の心は氷のようだ」
喉が焼けるほど煮えたぎる憎しみを声に乗せても、藤波の言葉はずっと冷めたままでした。
「心などありませんよ。そんなことずっと前に知っているはずでしょう?俺は人間ではないのだから」
幼い頃に幾度も聞かされた言い訳をされて、私はいよいよ脳髄が焼き切れそうでした。きっと藤波の中では、私はまだ戯れ事を本気にする小さな子供でしかなかったのです。
違うと言わねば。目の前にいる男は頭のてっぺんから爪先まで、お前のために心を燃やしているのだと伝えねばなりませんでした。
「目を逸らすな藤波。私を見てくれ。お前を愛する男の顔は、一体どのような顔をしている?」
藤波はこちらを見ません。ただ深く目を瞑り、嵐が去るのを待つように耳を塞ごうとします。
「こんな思いをするくらいなら、あの時お前が私を殺してくれれば良かったのに。お前をただ純粋に好きな子供のままで、お前に食われたかった。こんなに苦しくて汚い心を、私は持ちたくなかった!」
「……やめてください」
「嫌だ!私はお前が好きだ藤波」
「やめて……」
「お前が私の愛を要らぬというなら、死んだって構わない!」
そう叫んで私は藤波の腕を引き、顔を引き寄せました。藤波の紫の目が、恐怖で見開かれて、涙でいっぱいになるのが分かりました。
「やめろ!!!」
叫ぶと共に、藤波が私を突き飛ばしました。
ビシリと何かが割れる音がして、黄色い電球が落雷のように弾け飛ぶ音がしました。暗闇に包まれた中で、二人の荒い呼吸だけが響いています。
「………お願いです……倫太郎……俺に触らないでください……俺は憑き化け物です……。お前の心には、応えられない……」
「藤波……?」
暗闇の中で、藤波が泣いているような気がしました。ですが、次に聞こえたものは、冴え冴えとして、氷の刃のように冷たい声でした。
「………………話は終わりです。金輪際、そのようなことは口にしないでください……」
藤波の声が、遠ざかっていきます。私はすぐに藤波を捕まえねばと腕を伸ばしましたが、藤波の着物の端が、するりと手の中をすり抜けて行くだけでした。
…………あれから、藤波とは口をきいていません。
家にいても、藤波の顔を見るのが辛くて近頃は鎌倉まで出て適当な喫茶店で原稿を書く始末です。このままいっそ、遠くの地へと行ってやろうかとも考えましたが、それでも家の中に一人でいる藤波を思うと、どうしても躊躇われました。
あの憑き化け物は、家から遠くへはいけないようです。と言うのも藤波と会ってからこの方、彼が鎌倉から出るのを見たことがありません。きっと彼はあの家に縛られているのです。そういう呪いが彼にはあるのです。
もし、藤波の呪いが解けたらどこかへ行くでしょうか。それとも籠の鳥のように、大空に怯えて飛び立てぬままでいるでしょうか。
……正しき人であるのなら、藤波の自由を願ってやるべきでしょう。ですがそれと同じほどに、藤波が家に囚われていることに安心している己がいるのです。
これでは名取に顔向けができません。
むしろこのような碌でもない男との恋を諦めてくれて良かったとさえ思います。
自分がこんなにも汚れた人間だとは、私は知りたくありませんでした。
#
1965年 秋
藤波と喧嘩をしてから、一月経ちました。
九月も半ばに入り、空模様もぐっと秋の様相を表してきました。先ほどまで晴れていたかと思えば、大風が吹きたちまち雨になる。不安定な天気に自然とこちらも気落ちが進むばかりです。
「はあ………」
また一つ、大きなため息をつきます。
「ねえお兄さん。また大きなため息ついてるよ?」
ウェイトレスの少女が私に声をかけます。
「ああ、すまない……ここのところ上手くいかなくて……」
白紙の原稿に万年筆を転がしながら私は頬杖を付きました。
頭の中に話はあるのに、それをどうにも引き出せない。
「ふーん。でもそれって、ここに来るようになってからずっとじゃない?」
ウェイトレスは気安い態度で、私の断りもなく、コーヒーのお代わりを注いで来ます。
あまりにも長くこの喫茶店に居着いたせいで、近頃はマスターやウェイトレスともすっかり顔馴染みになってしまいました。ここのコーヒーは味が良いのはもちろんとして、店奥の窓から見える庭が気に入っていたのですが、ウェイトレスが馴れ馴れしいのがたまにキズでした。
「まだ仲直りできてないのー?例のお手伝いさん」
コーヒーをテーブルに置いて、ウェイトレスは訊ねます。
「ああ……まあね。ずっと口をきいてくれない。朝も夜も、ずっと家にいるのに……。自分が透明人間になった気分だ」
ひと月も顔を合わせていると不思議なもので、自然と愚痴の一つや二つが口からこぼれ落ちてしまう。このウェイトレスはそういった話のタネを目ざとく見つけて弄ぶのが得意なようでした。
「奥さんやガールフレンドと喧嘩しちゃった〜って話はたまに聞くけどさ。作家先生んところは相当だね。私が聞いた中でも最長記録の喧嘩期間だわ」
ウェイトレスは意地悪くくすくすと笑います。
「うるさいなあ……。私を揶揄う時間があるなら仕事しなよ」
私は苦笑いしながら彼女を追い払う仕草をしました。ウェイトレスは気にするでも無く「怒られちゃった〜」と笑いながら給仕の仕事へ戻って行きました。
近頃の少女は皆あのように遠慮が無いものでしょうか。時々、同い年の名取のことが少し恋しく感じる時もありましたが彼女も忙しいようでなかなか連絡が取れません。
コーヒーに砂糖とミルクを入れてかき混ぜる。少し甘くなったコーヒーを飲むと、頭が急に冴えてくるようでした。ですが一行二行書き込んでみても筆はそれ以上進んでくれない。粘り気のある泥の中を必死にかき分けて進んでも、また目の前に新しい泥が流れ込んでくるようでした。
またため息をつきながら机に突っ伏して、喫茶店の中庭へ目を向けます。
中庭の木々は夏頃よりも葉を落としてきて、秋の準備を進めるかのように少しずつ黄色へと染まってくる頃でした。
午前は晴れていた空は徐々に雲に覆われて雨を集めているようでした。藤波は今頃、夕食の支度をしている頃でしょうか。私が家にいない時、藤波は何を考えているでしょうか。藤波は……私をどう思っているでしょうか。
いつまでも女の子と付き合わず、藤波に執着する私に呆れ果てているのは明らかです。もしかすると聞き分けのない子供くらいに思っているかもしれません。
ふと、天上からゴロゴロと雲がぐずる音が聞こえてきます。
まずい、と思った矢先にぱたり、ぱたりと空から雫が落ちてきてあっという間に庭に大粒の雨を降らせ始めました。
「ああ……参ったな。今日は傘を持ってきてないのに」
私は独り言のように呟くと、同じく天気の様子を確認しに来たウェイトレスが「あらまあ」と窓から空を見上げました。雲は分厚く、すぐには雨も止まないことは明白でした。
「……ねえ、もしかしたらチャンスじゃない?」
ウェイトレスがニヤニヤしながら私を見ます。その言葉の意味がわからなくて、私は首を傾げました。
「なにが?」
「そのお手伝いさんに電話して傘を持ってきてもらえばいいのよ。そうしたら、仲直りのきっかけくらいにはなるでしょう?」
そう言うとウェイトレスは軽い足取りでキッチンへと引っ込んできました。
何を馬鹿なことを、と思いましたが、流石のこの雨では、原稿も無事ではすまないでしょう。私はしばし悩んだのち、覚悟を決めて喫茶店の電話を借りることにしました。
電話のダイヤルを回す指がとても重たく感じます。最後のダイヤルを回し切ると、数回のコール音が鳴り響きました。コールの合間に聞こえる雨音がいやにはっきりとしていて、不安ばかりが駆り立てられていきます。
がちゃり、と受話器の向こうで電話を取る音がして私は息を飲みました。
『……はい、月岡です』
久方ぶりに、藤波の声を聞いた気がしました。
「あー、藤波、私だ。倫太郎だ」
『ああ……どうかしたんですか?外から電話をかけてくるなんて珍しい』
いつもどのように話しかけていたか思いだせなくなって、なんだか舌がもつれそうでした。
「それが、この雨なんだが傘を忘れてしまってな。原稿を濡らすといけないから、由比ヶ浜駅まで迎えに来てくれないか?」
我ながら稚拙な言い訳に聞こえるな、と思いました。電話の向こうでは藤波が小さくため息をつきます。
『……わかりました。迎えに行きますよ。もう帰るところですか?』
「ああ」
『それじゃあ、由比ヶ浜の駅に着いたら待っていてください。風邪を引かぬように、あまり濡れないでくださいね』
そう言うと藤波は電話を切りました。通話の切れる音を聞いて受話器を戻して、深く息を吐いて自分の席に戻ると、ウェイトレスがにやにやとしながら会計用の伝票を持ってきました。
「ねえねえ、うまくいった?仲直りチャンス、来ちゃった?」
「馬鹿を言わないでくれ。ただ、傘を持ってきてもらうだけだ」
こちらが一世一代の気持ちで電話を掛けたというのに、このウェイトレスは私の事情をただのおもちゃとしか見ていないのでしょう。それを本人も分かってやっていそうなところが余計に腹立たしい。
「まあ!拗ねちゃって可愛くないの。でもなんでもないきっかけで、意外と世の中うまくいくものよ?」
そう言いながらウェイトレスは私のテーブルにこじんまりとしたケーキ箱を乗せました。
「これはマスターからのサービス~。良い加減お手伝いさんと仲直りして、辛気臭い顔で埋めてる特等席を空けろってさ」
ウェイトレスはウィンクしながら、キッチンの奥に立つマスターを指し示しました。この店中に己の境遇を心配されているのかと思うと情けなくて、私は思わず天を仰ぎました。
原稿を抱えるように鎌倉駅まで走って電車に乗り、私は由比ヶ浜駅まで戻ってきました。電車を降りると雨はいよいよ酷くなっていて、私は藤波に傘を頼んで良かったとつくづく思いました。改札を出た駅の軒先には、先客が一人いました。
おかっぱ頭の女学生が一人、途方に暮れたように空を見上げていました。私はとくに声を掛けるでもなく、同じようにただ振り続ける雨を見ていました。彼女も誰かの迎えを待っているのでしょうか。それとも、傘を忘れて成すすべもなく雨が止むのを待っているのでしょうか。
そんなことを考えていると、向こうの道から藤波がやってくるのが見えました。藤波は自分の傘を差しながら、もう片方の手に私の傘を抱えています。
「おそくなりました」
「いや、迎えに来てくれて助かった」
ぎこちない手つきで藤波から傘を受け取って、私は藤波に礼を言いました。何気ない言葉のやり取りのはずなのに、どうにも緊張していけません。
ふと、隣にいた女学生に目をやると少女は憂うように視線を下へと向けていました。
「……なあ君、迎えは来るのかい?」
私が話しかけると、少女はびくりと肩を震わせて首を横に振りました。
「雨が止むのを……待とうと思って……」
雨音に消え入りそうな声で少女が言います。どうしたものかと藤波と顔を見合わせます。藤波が、仕方が無いと言うように肩を竦めたのを見て、私も頷きました。
「ねえ君、雨が止むのを待っていては夜になってしまうよ。私の傘を貸すから早く帰りなさい」
「え、でも申し訳ないです!」
少女は恐縮したように身を竦めます。
「遠慮してはいけない。それに、ここに立っていたってことは、君は由比ヶ浜の子だろう?ご近所さんなら助け合わねばね。傘は晴れてから、ここの駅員に預けてくれてば構わないから」
半ば押し付けるように少女に傘を渡すと、少女は悩みながらも傘を受け取ってぺこりと頭を下げました。
「ありがとう……。あの、お名前を聞いてもいいですか?」
「私は月岡と言います」
「きっと傘はお返しします。本当にありがとう、月岡のおじさま!」
おじさま、と呼ばれて私は少しだけ面食らいましたが少女は傘をさすと急ぎ足で家路へと駆けていきました。
「おじさま、ですって。お前も歳を取りましたね、倫太郎」
「からかうな。私はまだ二十代だぞ」
くすくすと笑う藤波を軽く小突いて、私はふくれっ面を仕舞いました。
「それで?格好つけて傘なんか貸しちゃって。どうやって帰るおつもりなんですか?」
「お前の傘に入れてくれ。原稿が濡れなければそれでいいさ」
「わかりました」
藤波は少しだけ傘を掲げて、私を傘のなかに迎え入れてくれました。雨の中、肩を寄せ合うようにして私たちは帰途につきます。いざ歩き出すと、また二人とも無言になってしまい、雨音が布地を叩く小気味いい音が傘の中に響きました。
「……今日は夕方から雨だと、ラジオでも言ってたのに、どうして傘なんて忘れたんです?」
「ラジオを聞きそびれたんだ」
「……そうですか」
由比ヶ浜の隣を通り過ぎで、山へと昇る坂道を歩き始めると、上から流れてくる砂と雨水が私たちの足の間を通り過ぎていきました。
どこかの家に植えられた金木犀の花の香りが、冷たい風に乗って傘の中へと舞い込んできます。
寒さにくたびれた足をゆっくりと進めていると、ふと、藤波が口を開きます。
「ねえ倫太郎。聞きたいことがあるんです」
「……なんだ?」
一体何を聞かれるのだろうかと、私は身構えました。少しして、躊躇うように藤波の唇が震えました。
「倫太郎は……私を怖いと思ったことはありますか?」
どうして藤波がそんなことを聞いたのでしょう。不思議に思って顔を覗き込もうとしましたが、長く伸びた亜麻色の髪で隠れてよく見えません。仕方なく、私は思ったままに答えました。
「……ない。藤波を怖いと思ったことは、一度も無い」
私の言葉に藤波が立ち止まったので、私も歩みを止めます。静かな雨音だけが、私たちの周りにありました。
藤波は、眉根を寄せて、今にも泣きだしそうな紫の目で私を見上げました。
「……おかしな人ですね。普通は、不気味に思うものですよ。お前と違って俺は歳を取らず、姿も変わらず。両の手は触れるものの寿命を好き勝手に弄ぶ。いつかは自分の命までも脅かされるかもしれないとは、考えないのですか?」
言われてみて、初めて、私は藤波の力のことを考えました。あの夏の日、蝉の命を奪って蝶を生かした藤波の力。それはきっと恐ろしいものです。ですが私はそれを怖がったことなど、一度もありませんでした。
「……そんなことは、考えたこともなかった。だって藤波が私に触れる手は、ずっと優しかったから」
私の言葉に藤波はころりと、涙を一滴零しました。
「お前は藤波だ。確かに人ではないし、不思議な力もある。だけど私は一度だって、それを不気味だなどと思ったことはない。私は、お前の優しいところが好きなんだ」
嘘偽りの無い真っすぐな言葉が、自然と口から出てきました。改まった告白とは、胸の大騒ぎするものだと思っていたが、私の心は不思議と凪のように静かでした。
「……倫太郎、お前はきっと俺と小さい頃から一緒にいるせいで感覚がおかしくなっているんですよ」
藤波は呆れたように、自嘲気味に笑ってこぼれた涙を拭いました。
赤くなった瞼をしっかりと開けて、藤波はアメジストの目で私を真っすぐに見つめます。
「俺、お前の気持ちには答えられません」
失望するような、ですが同時に分かり切っていた答えでした。
「それでも構わない。藤波が私の愛に応えなくても、私の心は変わらない」
毅然と答える私に藤波はこくりと頷いて、そうしてようやく、いつものように呆れた笑みを浮かべてくれました。
「……わかりました。負けました。それならもう、お前の気の済むまで、そうしていなさいな。倫太郎」
それが藤波から貰える、精いっぱいの答えでした。ですが、今の私にとっては十分すぎる答えでした。
「うん。そうする」
私たちは再び、雨の中を歩いて家へと帰りました。
抱え込みすぎた原稿は少しだけ皺が寄っていたものの、中身は無事でした。それと、ウェイトレスのくれたケーキ箱を開けてみると、中には二切れのレアチーズケーキが入っていました。
その日の夜。雨の上がった縁側から、海の上に上がった満月を眺めながら私たちはレアチーズケーキを食べました。マスターのくれたレアチーズケーキは、固めのタルト生地に乗った白いムースがとても甘く、そしてほんのちょっぴり酸っぱかった。
「……ちょっと変わった十五夜ですね」
「……そうだな」
次の日からは、私たちはまた元通りになりました。
少し変わったことと言えば、藤波が以前のように結婚を急かさなくなったことくらいでしょうか。
いずれにせよ、私は人生で初めての失恋を経験しました。願っても無いほどに、穏やかな失恋でした。
#
あくる春、名取が再び家を訪ねてきました。
久しぶりに出会う名取は以前とは少し違う雰囲気で、強気な化粧が少しだけ柔らかくなっているようでした。
桜の見えるように客間の窓を開け放った客間で私たちは名取の持ってきたマドレーヌでお茶をしている時に、彼女が朗らかに笑って言いました。
「私ね、結婚するわ」
藤波の淹れてくれたお茶を思わず吹き出しそうになりましたが、なんとか耐えました。嚥下した喉が熱湯に焼けてしまって、しゃがれた声で私は聞き返します。
「だ、誰と?」
「月岡くんの知らない人。年下の男の子でね。この春に貿易の会社に入って社会人になったからと、プロポーズされたのよ」
名取は幸せそうにくすくすと笑いながら言います。カップを持つ彼女の左手の薬指には確かに、細い銀の婚約指輪がはまっていました。
「まあまあ!おめでとうございます名取さん」
藤波が嬉しそうに笑います。
「式はいつあげるんです?」
「五月よ。それで今日はね、月岡くんに招待状を持ってきたの。もちろん来てくれるわよね?」
「ああ、当たり前だ。おめでとう、名取」
私は心からの祝福を名取に送りました。しかし同時に、あの夏の騒動は一体何だったのかと拍子抜けしてしまったのは秘密です。
「うれしい。ありがとう月岡くん。それと、藤波さんもよかったら出席しないかしら?」
まさか名取が藤波まで招待したがるとは思っていなかったので、私と藤波は思わず顔を見合わせました。
私は可能であれば藤波を連れてってやりたいですが、果たして藤波はどうでしょうか。
「……せっかくですが、遠慮させていただきます。俺がいては、先生も羽目をはずせないでしょうから」
「あらそう……残念だけど仕方ないわね」
藤波は申し訳なさそうに首を傾げながら名取に謝る。それに対して名取はがっかりしたように肩を竦めました。
「結婚式のことに絡めてもう一つ、お願いがあるの」
名取は鞄をごそごそと漁り、一台のフィルムカメラを取り出しました。銀の機体にレザーの覆いが巻かれたカメラは新品そのもので、キャップを外すと傷一つないレンズがきらりと光り輝きました。
「結婚式でお友達との写真を使ってスライドショーをやろうと思って過去の写真を探してたんだけど月岡くんの写真だけ全然いいのがなかったのよ!」
名取はわざとらしく頬を膨らませながら言います。
「そうかな?集合写真とかはよく撮っていたんじゃないか?」
「どれも小さくて月岡くんの顔なんて分かんないわよ。数少ないスナップショットだって、半目かブレてるやつばかりだったの。だからね、今日は私と一緒に写真を撮って欲しいのよ。今をときめく月岡大先生とのお写真なら、編集者として箔がつくしね」
にやりと笑う名取につられて私も思わずくすりと笑ってしまいました。
「お前は昔から、そういうところは調子いいよな」
「いやだった?」
「いいや。いっそあっけらかんとしていて、友として好ましく思うよ」
名取はふふふ、と満足そうにうなずきました。
「そう来なくちゃ。早速撮りましょう!藤波さん撮ってもらえるかしら」
「ええ……構いませんが……僕はこの手の写真は不得手でしてねえ……」
藤波は名取から恐る恐るカメラを受け取り、落とさないようにためつすがめつした。
この家にはカメラがありません。数少ない私の写真も学校行事や友人との遊びで取られたものか、卒業や入学と言った節目に撮ったものばかりでした。そういえば、藤波の写真は、一度も撮ったことがありません。
「大丈夫よ。シャッター押すだけだもの。しかもこれ、タイマーがついている優れものなの」
そうだ、と名取が手を叩く。
「藤波さんも一緒に撮りましょ!」
名案だとばかりに藤波の手を取りながら名取が言う。藤波は当惑したように首を振る。
「ええ?でも結婚式に周りの誰も知らない男の写真があったら変ですよ」
「それじゃあ、私の個人的な思い出として、一緒に映ってくれない?結婚式に来られない代わりとしての。ね?」
「でも……」
「お願い!ね、この通りよ!」
ぐいぐいと迫る名取の態度に押し負けて、口籠る藤波はなんだか珍しいような気がしました。
「……それじゃあ、一枚だけなら」
「やった!嬉しいわ藤波さん!」
結局、名取の圧に押し負け、藤波も写真に映ることになりました。
庭の桜と海の見えるところを背景にしようと、私たちは縁側に本を積み上げて簡易的な三脚を作り、その上に名取のカメラを乗せました。
名取がうまい具合に調整してくれる間、藤波は目に見えてそわそわと所在無げにしています。
「……俺なんかがカメラに撮られて、写真に変なものが映ったりしないでしょうか?」
「何を馬鹿なことを言っているんだ。そんなわけないだろう」
「でも、心霊写真なんてものがあるくらいですよ?縁起が悪くなったりしないでしょうか……」
藤波は本気で心配しているようで、私はなんだかおかしくて噴き出してしまいました。
「だったら日本初の、本物の心霊写真になるかもしれないな。藤波はお化けだから」
意地悪くそう言うと、藤波が怒ったように睨みつけて来ましたが、気にしません。
「きっと世界一綺麗な心霊写真になる」
藤波は私の口説き文句に驚いたように目を見開き、すぐに呆れたように口角を持ち上げました。
「……馬鹿なことをいうんじゃありません」
カシャリ、とシャッターの音が切られた音がして名取の方を見ると、名取はにやにやと笑っていました。
「あら~?ごめんね、間違えてシャッターを押しちゃったみたい!もう一回調整するね!」
藤波は良く分からないようで、首を傾げていますが、私は名取がわざとシャッターを切ったのだと分かって苦笑いしました。
「よし、今度こそオッケー!いくよー!」
名取が慌ただしく走ってきて、私の隣に立ちました。カシャリと音がして再びシャッターが切られます。今度はうまくいったようでした。
その後、私は約束通り名取の結婚式に出席しました。初めて見る西洋式での結婚式はとても煌びやかで、やはり藤波も連れてくれば良かったかと思ったほどです。
緊張した年下の新郎の隣で、白いウェディングドレスを纏い、誰よりも幸せそうに笑う名取は、世界で一番綺麗な花嫁だったことでしょう。
あの時撮った私と名取の写真は披露宴の見ることができました。新婦と新郎のこれまでを紹介するスライド写真に使われていたのです。
私は大学時代からの友人の一人として、紹介されました。月岡の名を呼ばれた途端に、名取の同僚数名に振り向かれたのは少しだけ気恥ずかしくもありましたが、三人での写真撮影の後に藤波が撮ってくれた写真はちょっぴりぼけていて、それがまた笑えて来ました。
帰り際、引き出物の折詰と一緒に名取は一通の封筒を寄こしました。家へ帰ってから封筒の中身を空けてみると、中には結婚式へ来てくれたことの感謝の手紙と、二枚の写真が入っていました。
一枚は、私と藤波と名取で取った三人の写真。そしてもう一枚は、私と藤波の写真でした。
……私は、こんな顔をしているでしょうか?
写真を見ていると、頭から湯気がのぼりそうになります。
小さな紙の中にいる私は、藤波の隣にいるというだけで、世界の誰よりも幸せそうで、しまりのない腑抜けた顔をしていたのです。
この写真を見たらきっと名取でなくたって、私が誰を想っているかなんて分かるでしょう。
私は親友に白旗を上げながら、自室の畳の上でもんどり打ちました。
「ちょっと倫太郎、せっかく上等なモーニングなんですから畳に擦り付けないでください!」
私の部屋の前を通りがかった藤波から叱責の声が飛んできます。まったくなんて酷いやつでしょう。私がどれほどお前に心酔しているのか知っているくせに、モーニングコートの心配ばかりをするのです。
私は藤波と私の写った写真をそっと鍵付きの引き出しへと仕舞いました。
こんなものを見られては叶いません。
なにより、私のことを振った男にこの写真を見られることが癪でなりませんでしたから、これは墓場まで持っていきましょう。
#
1989年 春
気が付けば、私も五十を近くなりました。
近頃は、バブル景気だとかで、世間はおおい賑わっているようです。
かくいう私もこの好景気にあやかり増して、先日念願だったポルシェを買いました。
憧れの赤いスーパーカーで近所を走ると、あっという間に小学生のヒーローになれるので大変愉快です。
意外なのが、藤波も免許を取ったことです。免許を取るために必要な戸籍などといったものはどうしたのかと訊ねると、戦後の混乱に乗じて兄の戸籍を誤魔化していたので、それを使ったと言うので、驚きました。
藤波は私が思うよりもずっと小賢しい生き方をしていたようでした。
赤い車を運転する藤波は少し格好良くて、私よりも車に似合っているのがほんのちょっぴり、羨ましく思います。
小説を書かない日には、時折湘南の道を二人でドライブへ行くこともあります。行きは私で、帰りは藤波でといった具合に交代で運転するのが私たちのひそやかな楽しみになっているのです。
ある日、江の島まで行った帰りの車で、私は開いた窓にもたれ掛かりながら少しばかり微睡んでしました。夕刻の時間帯の風は少し冷たくもありましたが、薄桃に染まる空を眺めながら風に当たるのは爽快でした。
ふと、藤波がなんてことの無いように、私に訊ねます。
「そういえば倫太郎。お前、今年で五十になりますけど、本当に嫁をもらわなくていいんですか?」
久方ぶりに聞く質問だな、と思いながら私は座席にもたれ掛かるついでに背伸びをして答えます。
「気が変わるまでそうしていろと言ったのは、藤波じゃないか」
「そうは言いましたけど、もう大分時間が経ってしまったじゃないですか。……お前も、もうすぐ、若くないと言われるような歳になってしまうんですよ?」
いつもの呆れ笑いで藤波は言います。
「もうとっくになっている。誰かさんが答えてくれないせいでな」
「まったく、相変わらず憎まれ口を叩くのだけはうまいんですから」
そう言う藤波は、昔ほどがっかりした様子もなく、まんざらでもないように見えるのは、私の希望的観測でしょうか。ですが、人生は短いのですから、それくらいの夢を見ても罰は当たらないでしょう。
そうそう。それと、最近担当の編集者が変わりました。
保志野さんという女性の方で、流行りのかっこいいレディーススーツにブランドバッグを下げて、唇に真っ赤な口紅を引いた派手な女性です。
まだ若い方なのですがやる気に満ち溢れていて、新作の打ち合わせも大変よくしてくださいます。しかし困ったことに、保志野さんは私のことをやたらに知りたがり、仕事に関係のない話をしたがるのです。
仕事終わりにいつまでもうちに居座るので、近頃は藤波も辟易しているようでした。
今日も冷め切った紅茶のカップを抱えながら、保志野さんがおしゃべりに精を出しています。
「ねえ、月岡先生って美容とかに気を遣ってらっしゃるの?」
「特に何もしていませんよ」
私がそう言うと保志野さんはえー、と声をあげます。
「うっそだあ。だって先生、五十歳くらいなのに、私よりちょっぴり年上くらいにしか見えないもん」
ぴくりと、カップを持つ指が震えました。
近頃、見た目が若いというようなことをよく言われるようになった気がします。流石に髪も白髪が増え始めて、昔のような体力もありませんが、言われてみると私は同い年の友人たちと比べて、少しばかり肌の張りがあるようにも思いました。
もしかするとこれも、藤波の影響によるものかもしれません。
藤波はもちろん、昔と同じままです。
ずっとあの象牙菩薩のような美しさを保ったままで、彼だけが時間に置いてけぼりにされたままのようでした。
数年前までは付き合いの長い友人やご近所に会っても若作りなのだと誤魔化していましたが近頃はそう言うわけにもいかず、藤波は以前にも増して外との付き合いを避けています。特に初対面の編集者なんかには「父の代から月岡家で幼い頃から家の手伝いをしているのだ」と言うようになりました。ですので、保志野さんも藤波のことは少しも疑問に思っていないようでした。
「どうしても教えてくださらない?先生の若さの秘訣」
「秘訣も何もありませんよ。ただ早寝早起きをして野菜を食べているだけです」
あながち、嘘ではありません。私のやっている健康法といえばそれくらいのものでしたから。
しかし保志野さんは納得がいかないのか、頬杖をつきながら駄々を捏ねています。
「保志野さん、ここは喫茶店じゃないんですよ。少しは弁えていただけませんか?」
少しきつめに嗜めても、保志野は頬杖を止めるだけでにやにやと笑っています。
「えーじゃあ一緒に喫茶店行きましょうよ。あたし、先生のお話を聞くのが好きよ?」
「……仕事をしなくていいんですか」
「今日はこのまま直帰だもの。月岡先生、お仕事の話が早いからもう終わったようなものです」
仕事が終わったのなら早く帰って欲しいと思いました。私はこの女性のことが、どうにも苦手でした。
見兼ねた藤波が客間の入り口から声をかけます。
「保志野さん、先生はこのあと別の出版社と打ち合わせがありますので……」
「えー、先生ほかの出版社でも書いてるんですか?浮気者だー」
保志野は文句を言いながらようやく帰り支度を始めてくれました。重たそうな鞄を肩にかけて、保志野は私に振り返ります。
「ねえ先生、今度は外で打ち合わせしましょうよ。出版社がお茶代出しますから」
「……考えておくよ」
適当にあしらって、私たちは保志野が帰るのを見送りました。どっと疲れが出て、私は今のソファーに深く沈み込みます。
「……倫太郎、編集長に言って担当を変えてもらったらどうですか?」
藤波がお茶を片付けながら進言します。
「そうは言ってもなあ。こちらも随分と無理を言っているから……」
藤波のこともあり、私は編集部にあるお願いをしていました。
私の担当編集をできるだけ女性にして欲しい、と言うものでした。
彼女たちに失礼であるとは分かっていますが、女は結婚して、子どもを産みます。そうなれば自然と、仕事から離れ、私たちからも離れていくのが常でした。
それに藤波の力で祝福を与えた女は、その身に命を宿せる。そう藤波が言うので、私たちは力を使い、周囲にいる人間を、必要以上に自分たちの傍に近づけさせないようにしました。
残酷なことをしたと、分かっています。ですが女の身で仕事をなさる方は、子供ができれば必ず、その身を仕事から家に置く。新しい命を前に、私たちのことを覚えている余裕などなくなる。
そうして何人もの女性を私たちの元から去らせていきました。
案外、うまくいってしまったものです。巷では「授かり先生」などというあだ名がついていたようですが、構いません。
傍から見れば私のような男に、そのような不思議な力があるとは思わないでしょうから。
ただ、二十年前とは様子も変わったのでしょう。近頃の社会は、女性はお茶汲み、結婚をしたら寿退社をするというわけでもなく、女性の社会参加に精力的な企業が増えてきたと、聞いています。うかうかとはしていられないかもしれません。
「保志野さんは、性格はああだが、仕事はとても早いんだ。編集長に聞いたら実際、とても優秀らしい」
念のため、保志野のことを弁明しますがふうんと藤波はつまらなそうに生返事をするだけです
「俺はあの人、あまり好きじゃ無いですよ。無遠慮で無作法で馴れ馴れしいじゃないですか」
「なんだ藤波、いつもは編集さんに文句なんて言わないのに」
藤波がこんなにも分かりやすく人を嫌うのは珍しいと思って訊ねると、藤波は拗ねたような顔をしてぷいと顔を背けました。
「別に?俺にだって、人の好き嫌いくらいはあると言うことです」
そう言うと藤波はそそくさとお茶を片付けて奥へと引っ込んで行きました。
近頃の藤波は保志野が来るたびにこの有様で、彼女が帰ってからもしばらくは不機嫌な様子でした。ですが私や彼女に当たるわけでもなく、一人で機嫌を損ねているだけなので何もしてやれないのが少しだけ歯痒く感じます。
いっそ保志野と外で打ち合わせようかとも思いましたが、それは良くないような気がしました。
保志野は、時折隙を狙っては私の肩や手に触れて思わせぶりな態度を取るような事があるのです。もちろん私自身は何も思いません。
……いいや、実を言うと少しだけ、困るのです。
彼女の化粧臭い手に触れられるたび、肌が粟立つような不快さを感じます。保志野が私に気があるのではないかと勘繰って、そんなことを考える己に嫌気がさすのです。
何を今更五十を越えた男が色気付いているのでしょう。それも本気にする気のない相手に対してなど。
保志野だって、何の気なしにそうしているように思えます。彼女のような女性は初めてで何かと持て余すことが多く感じますが、近頃の若い人はとても奔放であると聞いています。
あるいは、私が彼女の若さを理解できないほど、歳を取っただけかもしれません。
#
1989年 夏
暑い日差しの日でした。
保志野がいつものようにうちへ来て、打ち合わせをしていましたが、藤波が聞いていたラジオで光化学スモッグ注意報が出たのです。
警報が頻発していた十年前よりはましとはいえ、これほどの警報が出るのは久しぶりでした。念のため、あまり外へ出ない方がいいだろうと私は保志野を引き留め、窓を閉め切って、警報が収まるのを待っていました。
やがて夕方になると警報が解除され、藤波は昼間にできなかった朝顔の剪定を始めました。
保志野も帰り支度をはじめていましたがふと、庭から見える景色に気が付いたようで、縁側の方へと近づいていきました。
「わあ、先生のおうちからだと夕日が海に沈むのが見えるんですね。素敵―」
そういえばこの時間まで保志野がいたことはなかったな、と思いました。
丁度、赤い太陽が湾を越えて稲村ケ崎の山陰に消えていくところでした。
山向こうから漏れる夕日に照らされた海は、オレンジから青に染まる空の色を映して、綺麗なグラデーションを波間に描いていきます。
やがて太陽が沈むと、わずかに残った残り火が空と海を淡い紫に包んでいきました。私と保志野はひと時、夕暮れ時のマジックアワーに見惚れていましたが、ふと保志野がぽつりと呟きます。
「もう、このまま泊まりたいなー」
またいつもの調子が出たと思って私は小さくため息をつきました。
「何を言っているんですか。早く帰らないと暗くなりますよ」
「暗くなっても構わないですよ。その方がきっと都合がいいもの」
保志野は手を後ろに回して、私の方へと歩み寄ってきた。彼女の赤い唇が、悪戯っぽく開かれます。
「ねえ、先生。一緒のお布団に入れてくださいな。夜はまだ、冷えるそうですし」
あまりにあけすけな言い方に、私は唖然としました。
「……保志野さん、揶揄うのも大概にしなさい」
私は少し語気を強めて叱ります。そうやって突き放せば、保志野も悪ふざけしただけと笑って誤魔化すだろうと思いましたが、保志野は私が思うような女性ではありませんでした。
「……揶揄ってなんかいませんよ。あたし、先生を誘っているの」
いつもより静かな声でそう言って、保志野は私の肩に手を置きました。
「ねえ先生。あたし先生のことが好きよ?」
気が付けば、保志野の鼻先が私の顔に触れる位置にありました。油断をしていた私の唇に、保志野の吐息が掛かります。
世界が停まったかのような錯覚がして、「いけないと」思った時、がしゃんという大きな音が庭から聞こえました。その音に驚いて保志野を突き放します。
音のした方を見ると薄暗くなった庭で、藤波の足元に割れた朝顔の鉢植えが転がっていました。
右手に生花挟を持ったまま、藤波は立ち尽くしています。逆光で暗くなった藤波の顔の真ん中で、藤色の目が白目がはっきりとこちらを凝視しているのが見えました。
次の瞬間、藤波が駆けだして、保志野に掴みかかりました。
「きゃあ!」
保志野が藤波に引き倒されて床に転がります。すかさず藤波は右手に持った生花鋏を保志野に向けて振り下ろしました。
赤い赤い鮮血が、辺り一面に飛び散ります。
「藤波ッ!」
劈くような悲鳴が喉からはじき出されました。
私の声に藤波は息を荒げながら顔を上げます。その顔面は蒼白で、我に返ったように藤波は自分の手と保志野を見比べて、ふらふらと後ろへ座り込んでしまいました。
何が起きたのか、頭がパニックになって、現実に戻る数秒が永遠にように感じました。
「…………倫太郎、これはなんですか」
震える声で、藤波が私に問いかけます。
「こんなものを俺は知りません。知らないのに、この女がお前に触れた途端、目から炎が吹き出しそうになる程、脳が灼けたのです……ねえ、倫太郎……俺は一体、何をしてしまったのですか?」
藤波の目は、青ざめた表情とは裏腹に悋気の炎を灯していました。水膜に揺れる瞳は、縁側に転がる女を灼いてしまいそうなほどに強い嫉妬を孕んでいます。
その色に気を取られて一拍、反応するのが遅れてしまいました。
「保志野さん、大丈夫ですか保志野さん!」
慌てて保志野を助け起こすと、保志野は涙を流しながら震えていました。咄嗟に顔を庇ったのでしょう。鋏は保志野の左腕を切り裂いていました。薄手の白いブラウスが、流れる血で見る見るうちに真っ赤に染まっていきます。
「いけない、救急車を……」
「いいえ先生!救急車はだめ!」
叫んだのは、保志野でした。
「止血を……それで、車で、病院へお願いします……救急車は、騒ぎになります……」
保志野は低く息をして、脂汗をかきながら私の目を見て言います。普段のふざけた態度からは感じられない気迫に圧倒され、私はただ頷いて、保志野を助け起こしました。一刻も早く、藤波から彼女を引き離すべきだと考えたのです。
ですが、庭を振り返ると当の藤波は茫然自失としたまま、ただ虚空だけを見つめていました。
車を運転し、鎌倉の大きな病院へと彼女を連れて行きました。病院へ着くころには血は止まり始めていたものの、五針縫う大怪我になってしまったようです。
「一体、どうしてこんな怪我をしたんですか」
処置が落ち着いたころに医者に訊ねられ、私は口ごもりました。家の者が刺したと言えば、きっと警察を呼ばれるでしょう。そうなれば藤波は司法で裁かれることになる。そうなった時に私はどこまで藤波を守ってやれるでしょうか。
そのように身勝手なことを考えていると、私より先に保志野が口を開きました。
「あたしったら、先生のお庭でうっかり転んでしまって。転んだ先に鋏が落ちていて、それで怪我をしてしまったのよ」
いつものおちゃらけた様子の保志野の言葉に。私は瞠目しました。
「保志野くん、何を……」
私が口を挟もうとすると、保志野は私をキッと睨みつけました。
「ね?先生。私何も間違ったこと言ってないわ」
保志野は私に視線で従えと命じてきました。先ほどの気迫と同じような目に私は何も言えず、こくりとただ頷きました。
医者も不注意からの事故として納得し、私たちはそのまま返されました。
保志野を家まで送る車の中で、私たちはしばし黙り込んでいました。
高速道路に入って少してから、沈黙に耐えかねて先に口を開いたのは私でした。
「保志野さん……なぜ、藤波に刺されたと言わなかったんだ?」
保志野は少し悩んだそぶりを見せたのち、伏し目がちに話し始めました。
「……編集と作家の間で起きた刃傷沙汰なんて、週刊誌のいいネタになってしまいます。先生は売れっ子なのだから、あっというまに根も葉もない噂が広がってしまう……私のミスで、あなたの本に傷をつけるのだけはダメだわ……」
自分が刺されたと言うのに、保志野は冷静そのものでした。まるで人が変わったかのような態度に、私は驚きました。
「あたし、浅はかでした……。同い年の男の同僚たちが次々に昇進していく中で、私だけずっとヒラのままだったのに、焦っちゃったんですよね。作家先生とお近づきになれば、ラクに出世できるかもなんて甘い考えで……一方的に押しかけて既成事実を作ろうとしたんです」
聞きながらとんでもないお嬢さんだと今更に怖気が走り、私は思わず顔を顰めました。
「先生が迷惑がっているのは分かっていたけれど、一度寝てしまえばこっちのものだと思ったんです。馬鹿な女でしょう?でも、それでしか男に勝つ方法を知らないんです。私」
自嘲気味に、保志野は鼻をならしました。
もしかすると彼女はそうやって、今までも生き抜いてきたのかもしれません。男だけが活躍できる社会で、女が武器にできるのは己だけということでしょうか。
「藤波さんが先生のことを好きだなんて、考えもしなかった。……あの人に刺されて『あー私、ほんとに愚かだったんだ』って、急に頭が覚めたんです。まあ、血が抜けたせいってのもあるかもしれないけど」
冗談交じりに保志野は言いますが私はひとつも笑えませんでした。
軽はずみに自分を使う保志野も、突然悋気を起こして人を傷つけた藤波も、そして、何もできずにただ見ていることしかできなかった自分も、全てに腹が立っていました。
高速道路のランプが明滅するように次々と後ろへ消えていく様が、カーブミラー越しに流れていきます。
悔恨と憤怒と罪悪だけが、永遠と私の中に蟠っていました。
「……私が言うのもなんですが、どうか自分を大切にしてください」
精いっぱい言葉を選んだつもりでしたが、保志野が噴き出したように笑いました。
「ほんと、どの口がって感じになっちゃってますよ。月岡先生」
またしばらく、無言の時間が続きます。
高速道路を下りて、彼女の住まいへと向かうした道に入ってから、保志野が私に問いかけて来ました。
「ねえ、先生。あなたは一体、何と暮らしているんですか?」
保志野の口元は笑っていましたが、伏した目は恐れの色に染まっているのが分かりました。
「藤波さんに掴みかかられた途端、体中の力が抜けたんです。腕を動かせたのが、運がよかったってくらい。まるで、私の血が全部抜き取られていくみたいな……生きる力が失われるような感覚がしたんです。……あの人、きっとただの人ではないでしょう?」
「…………」
どう答えるべきか、私は随分と悩みました。
おそらく保志野はあの時、藤波に命を奪われたのでしょう。それがどれほどのものかはわかりません。もしかすると、彼女の命は随分とすり減らされたのかもしれません。
しかし、私は藤波の罪を理解していながら、どうしてもそれを言うことができませんでした。
「……教えられない。ただ藤波は、私にとっては誰にも奪われたくないものです……」
振り絞るような私の答えに、保志野は「ふうん」とだけ答えました。
「先生も、藤波さんにぞっこんでいらっしゃるのね。本当に、私の入る隙なんて、どこにもなかったんだわ」
保志野は深く息を吸って、背筋を伸ばしました。
「……わかりました。月岡先生がどうしてもとおっしゃるのなら、これ以上は聞きませんわ。……ただ、もし今際の時に、私にだけ真実を教えてもいいと思ったのなら、きっと教えてくださいね」
#
保志野を東京の家まで送り、鎌倉の家へ帰ると時刻はまもなく日を跨ぐ頃でした。
玄関の灯りに照らされて、ようやく私は自分の服が血で汚れていることに気が付きました。服を着替えて家の中を見回ると、中は暗く、縁側の窓も空いているようです。
「…………藤波?」
暗い家の中へ藤波の名を呼び掛けてみますが、返事はありません。
不思議に思い、庭のほうへ行くと、そこには血で汚れた服のまま、縁側に座って空を見上げている藤波の姿がありました。
もしやずっと、何時間もそこでそうしていたのかと心配になり、私は藤波に歩み寄りました。
「…………藤波。大丈夫か?」
私が問いかけても、藤波は答えません。まるで魂が抜け落ちたかのように、ただ黙り込んでいます。
風音が私たちの間をすり抜けていく音だけが、しばらく聞こえていました。ふと、風に混ざって藤波の唇から音が漏れました。
「ふふ……ふふふふふふ…………あはははは………」
藤波は、笑っていました。狂ったように顔を覆ってまた静かに黙り込みました。
長い長い沈黙の後、ようやく藤波は口を開きます。
「……ごめんなさい倫太郎……………自分でもどうしたことか、よく分からないのです。お前があの女と番になることは、私にとっても喜ばしいことのはずなのに。あの女がお前に触れた途端、どうしてか、嫌だと思ったのです………。俺のものではないはずなのに、俺のなにかが奪われる気がして、怖かったのです……」
低い声で、藤波は私を見ます。苦悶の表情で眉間に皺を寄せ、藤波は自らの薄い胸を押さえました。
「ここが、苦しいのです。あるはずの無い心臓が煮えたぎっていて、臓腑の奥まで焼けただれそうなのに、どうしてか寒いのです。………本当は、どうすればお前や、あの女への罪を贖えるかを、それを考えなければならないのに。それができないのです。浅ましい心が、どうしたらお前に愛してもらえるか、そればかりを考えるのです」
藤波は手を伸ばして、私の手を掴みます。その手は氷のように冷たくて、もう片方の手で触れてやらねば、今にも死んでしまそうな気がしました。
藤波は私の手を縋るように握りしめ、そっと自分の頬へとすり寄せました。掠れた声が、私の耳殻に響きます 。
「寒いのです。倫太郎。どうしようもなく寒い」
心臓が、震えるとはこのことでしょうか。長年私の中で折り重なった仄暗い感情が沸き上がって、黒煙のように思考を奪っていきます。
私はもう、保志野のことなど気にかけていませんでした。
ただ目の前にいる、美しい化け物に捕らわれて、動くことができません。
「倫太郎。どうか俺に情けをください。お前の熱が、欲しくてたまらない。俺の正体がなくなるまで……骨も身も砕くほど、強く抱いて……!」
アメジストの目が、深い紫になって涙に揺れる。夏の夜だと言うのに、どうしてか薄ら寒い宵でした。
私は自らの腕に縋る化け物を両の腕で抱きしめて、それが己と同じ、寂しい魂の形をしていることに初めて気が付いたのです。
どちらからともなく、私たちは互い唇を奪い合いました。藤波の柔らかな唇に触れると、湯に触れた陶器のように、徐々に熱を帯びていきます。
お互いの体温を写し合うように、私たちは一つになろうとしました。孤独な魂と魂がぶつかって、少しずつ互いの刺をそぎ落として、東の空が白み始めても、私は藤波を離しませんでした。
「ねえ……倫太郎。どうして俺を、諦めてくれなかったのですか。お前が諦めないので、俺はお前の愛を望んでしまった。手に入れても、指の間からこぼれ落ちていくものが欲しくて欲しくてたらなくなってしまう……」
私の腕の中で、藤波はすすり泣くように嘆息しました。藤波は、怖いのでしょう。愛を消えるものと知っているから、失うことを恐れてはじめから触れようとしないのです。しかし、藤波は触れてしまった。気が付いてしまった。私たちの間にあるものが、どうしようもなく、手放しがたい祝福であるということに。
私は藤波の亜麻色の髪に口づけながら、ずっと前から決めていた答えを口にします。
「藤波。堪忍してくれ。私はお前に、共に滅びてほしいのだ」
隠し続けていた私の思いに、藤波はただ黙って、こくりと頷きました。
#
2000年 五月
先日、久方ぶりに保志野さんとお会いしました。
新世紀を迎えた記念として、今年はいつもより大きな会社記念パーティーがあったのです。私はいつも通り欠席するつもりでしたが、担当の編集と編集長にどうしてもと言われ、出席することにしました。
久しぶりのパーティーでは、昔の編集担当や、顔見知りの作家ともお会いできて、なかなかに楽しくはあります。……何名かの同世代作家が、既に早世していたと知るのも、この仕事ならではかもしれません。
こうして同世代の中へ混ざりこむと、自分の若作りが異様に思えるような気がしました。誰もかれもが久しぶりに会う私の見目に驚き、そしてお化けでも見るような顔をするのです。
私は六十歳を越えますが、見た目だけであれば十から二十、若く見えるようですので、私は少しだけ、自分が化け物にでもなった気持ちになりました。
「おや、お久しぶりです。月岡先生」
「……ああ、保志野さんでしたか」
先に声を掛けてきたのは保志野でした。
恥ずかしながら、一瞬彼女が一体誰であるのか、分かりませんでした。すっかりと落ち着いたスーツを着て、顔も十年前よりは少し老けたようでした。それでも、強気な色のルージュを引いた唇が、彼女を彼女たらしめているのが、はっきりとわかりました。
あの事件の後に保志野のほうから担当編集の変更を申し出たようで、あれ以来、彼女には会っていませんでした。
「本当にお久しぶりです。十年ぶりくらいですかね」
つい固くなる私に対し、保志野はくすりと笑ってみせました。
「そんなに畏まらないでください、月岡先生。あなたはいまや、うちの看板作家なんですよ?」
保志野が髪をかき上げようと左手を上げた時、ちらりと袖口にヒビのような傷が見えて、私はすっと心の臓が冷えたような気がしました。
「……傷は、消えなかったんですね」
「ああこれ?気にしないでください。あれは全部、身から出た錆ですから」
保志野はそっと左手を隠すように押さえました。
「本当に、若気の至りというには愚かなことをしたと思っています。あなたを襲ったりして、本当にごめんなさいね」
謝るべきはこちらのはずなのに、申し訳なさそうに眉を寄せて保志野は微笑みます。つくづく、強い女性です。
「そうそう、最後に。今の私は保志野ではありません。結婚して名前が変わりました。今は朝比奈と、そう呼ばれています」
保志野の左手の薬指には、銀色の指輪がはまっていました。
そう言えば、藤波に装飾品を送ったことはないなと、私はその時場違いにも考えてしまったのです。
#
パーティーの帰り道。新宿駅での乗り換えでふと、私はジュエリーショップへ寄ることを考えました。こんな時間にやっている店などあるだろうかとも思いましたが、意外にも新宿の夜は賑やかなものでした。
浅葱色の看板のジュエリーショップに駆け込んで、私は指輪を二つ買い上げました。
何を考えているのだろうと、想いながら、浅葱色の袋を抱えながら私は電車に乗って帰途につきました。
ですが同時にどこか緊張と浮かれた気持ちが私を高揚させてくれたように思います。
家へ帰ると、藤波はもう寝る支度をしていました。昔から着慣れた着物姿に、三つ編みを下ろした姿は、あの日やぐらで出会った時を思い出させるようで、不覚にも鼓動が早くなりました。
「おや、今日はもう帰ってこないのかと思いましたよ」
「そうはしゃぐような歳じゃないさ」
平静を装いながら靴を脱ぎますが、私の胸は年甲斐もなくどくどくと強く脈打っていました。下手をするとこのまま心臓発作で死ぬかもしれません。どうにか落ち着こうと深呼吸をして、私は藤波を縁側へと呼びました。
「なんです?なにかいいものでも買ってきたんですか?」
「ああ、うんまあ。そんなところだ。」
縁側に座ると、藤棚の花が風に揺れているのがよく見えました。
藤波は私の隣に座って、次の言葉を待っています。私はぎこちない手つきで袋から手のひらに収まる小箱を取り出して、藤波の前に差し出しました。
流石の藤波も、それがなにか気が付いたようで、驚いたように目を丸くしていました。
「……私たちには、必要のないものかもしれないと思ったが、一度くらいは形にしても構わないだろうと思ったんだ」
取り繕ったような言い訳をしながら、私は小さな箱を空けました。藤波が、小さく息を飲むのが分かります。
箱の中には月の光に照らされて、二つの銀色の指輪が光を帯びて輝いていました。シルバーだけで作られた指輪には、波を思わせるような流線形のデザインが施されています。
藤波は、揺れる瞳で指輪を見つめてそして、幸せそうに笑いました。
「……憑き化け物が、一体何に愛を誓うというんです?」
「それはお互いにで、構わないだろう」
私も笑って、藤波の左手を取り、指輪の片方を薬指へと通しました。いつもよく触れる手でしたから、大きさはぴったりと合っていました。
藤波は嬉しそうに左手を月に翳して「綺麗」と呟きました。
「失くしてしまわないようにしないと、いけませんね」
「失くしたって構わないさ」
「嫌です。これはずっと、大切にします」
左手をぎゅっと握りこみながら藤波は言います。
「いつか来る滅びが俺たちに訪れるまで、絶対に失くしません」
頬を紅潮させて、アメジストの目を輝かせながら藤波は言います。
やはり、藤波は出会った時から変わりません。ですが、変わったものも、多くありました。
「ねえ倫太郎。お前の手にも付けさせてください」
そう言って藤波は私の左手を取り、薬指に銀の指輪をはめます。
なるほどこれはなかなかに、気恥ずかしくも嬉しいものだと、私は微笑みました。
「……愛している、藤波」
「ええ、知っています。」
でもそれを気のせいとは、藤波はもう言いません。
「俺も愛していますよ。倫太郎」
私たちの指輪は、紐に通して首から下げることにしました。なにせ左手の薬指に飾りがあると、目ざとい女性編集たちが大喜びして祝福と噂話を振りまいてくれるでしょうから。これは、私と藤波だけの、秘密にすることにしたのです。
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2020年 某日
蔵の奥から先祖の書いた記録のようなものが見つかりました。どうやら藤波に関するもののようで、内容は要約すると次のようなものでした。
「月岡の岩倉に藤波という憑き物あり。曰く、藤波の呪いは月岡の嫁御に必ず三人の子を産ませる。三人目の子を五つまでに必ず藤波に食わせること。さもなければ、月岡の血は弱まり、血が絶やされることになる。藤波は子を食らうことで弱い月岡の血を強める。月岡の治める土地に命を与える。されど藤波の力がなければ、たちまち我らは滅びる」
……どうやら、私の血筋は体の弱い家のようでした。それを藤波に子を捧げることで、家の者に生命力を与える力の恩恵を受けていたようです。
逆に言えば、藤波がいなければ私の家はとっくの昔に途絶えていたのでしょう。
父の代から考えても、藤波に子が捧げられないまま百年が経つ頃になりましょうか。
私はもう八十歳を越えました。……私の体には、いくつかの癌があるそうです。
進行が遅々としていたため見つかるのが遅くなったそうですが、きっとそれも、藤波の力のおかげなのでしょう。
私は藤波に、私の体のことを話しました。藤波もそれを承知のようで、涙ながらに分かったと頷いてくれました。
私たちの終わりが、もうすぐそこまで来ているのです。
少し強い日差しを涼しい風が冷やす爽やかな昼下がりでした。
藤の花の咲く縁側でひとしきり泣いてから、私たちは二人で肩を寄り添わせました。
そのままぼんやりと過ごしていましたが、ふと藤波が口を開きます。
「倫太郎、俺ね。何度か考えたことがあるんです」
「……何を考えたんだ?」
「……どうして俺は、女の形で生まれなかったのかって、ことをです」
思いもよらぬ発言に、私は呆気にとられました。
「憑き化け物でも、女の姿であれば、お前の子を生めたかもしれないのにね」
例えばの話です、と言い添えて藤波は悲しそうに微笑えみました。私は小さくため息をついて、藤波の肩を抱き寄せました。
藤波がそんなことを気にしているのは、おそらく彼が、数々の女たちに祝福を与えた存在だからでしょう。月岡の始祖から数えて五百年。ここ八十年は殊更に、彼は子を生み、愛を与える女たちを見てきたのです。
命を与えることができても、命を作り出せないことに、歯がゆさでも感じていたのでしょうか。ですが私にとっては、そんなことは必要のないものでした。
「堪忍してくれ藤波。お前が女に生まれたら、きっと月岡の誰かが娶っていたに違いない。……それに結局、お前が月岡の憑き化け物だったから、私はここに在るんじゃないか」
藤波は、少し驚いたように目を見開いてそしてくしゃりと笑いました。
「そうですね……。俺が生まれた先にいたのが、倫太郎であったというのなら、それはきっと良い終わりですね」
藤波が私の胸に肩を預け、ゆっくりとなる心臓の音を聞いています。
こうして穏やかに滅びていけるのなら、きっとこれ以上のことは無いでしょう。
私と藤波は、きっと世界で一番、幸せでした。
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この手記を、見つけた時、他者に見せるべきかどうか随分と悩みました。
なにせ手記というにはあまりにも赤裸々な事情が書き連ねてあるものでしたから。
だがどうか許してほしい。なにせ月岡は八十年もの間、誰にも惚気ることができなかったのだ。
この手記を、創作だと思うが、事実だと捉えるかはあなた次第だ。
真実かどうかはあなたたちが決めるといい。それが私からあなたがたに差し上げられる、唯一の贖罪なのだ。
それにこれが世に開かれたとて、俺は一つも困らない。
あなたたちが真実か気づく頃には、月岡も藤波も、もうきっとどこにもいないのだから。
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