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エピローグ 編集者・小山内の偏見2
晴れた空の下、由比ヶ浜の浜辺を小さい子供が駆けていく。
最近になってようやく走ることを覚えた小さな命は、親の手を離れてどこまで走れるかを試すことに躍起になっていた。
「待ってー!お母さんから離れちゃ駄目っていったでしょー」
小山内が慌てて小さな手を捕まえても、娘はそれさえも楽しいようできゃあきゃあとはしゃいでいる。
いまからこれでは、暴れん坊盛りには大変なことになるかもな、と少し先の未来を憂いながら、小山内は我が子を抱き上げた。
月岡邸の一件の後、小山内は突然訪れた生理に驚き、慌てて婦人科に行った。
医者曰く、それまでほぼ動いていないに等しかった小山内の子宮が突然活発化し、不妊状態を抜け出したというのだ。
医学的には考えられない自然回復を医者は奇跡、と呼んでいた。しかし小山内は少なからず、奇跡の正体を予想できた。
あまりに突飛な話で誰にも話すことはできないが、「子授け先生」とその愛人のおかげであるかもしれない。
小山内は帽子で日をよけながら、由比ヶ浜から見える山の斜面を見上げた。
由比ヶ浜から極楽寺へと延びる道の途には、ぽっかりと土色の穴が開いている箇所があった。
あの日の台風で、月岡邸の周りには大きな土砂崩れが起きてしまった。
救急と消防が駆けつけて、数日にわたる救出作業が行われたが、月岡も藤波も出てくることは無かった。
月岡邸の横にある崖が、更なる崩落を巻き起こす可能性があると判断し、救出はそこで断念された。
藤波から預かった手記を朝比奈に見せると、あらかたの予想はついたのか、特に驚いた様子もなく二人の終わりを悼むだけに留まった。
あの手記が、真実であるかどうかは、小山内たちに確かめる術はない。もしかすると最初から最後まで、月岡というファンタジー作家が頭の中で作り出した恋物語であると言う可能性の方が高い。
それでも、月岡の担当をした女の編集たちは、誰が真実と明言せずとも、あの二人の恋は実際にあったものだと証言するだろう。
もしかすると、と小山内は考える。
彼らは二人だけの場所へ行ったのかもしれない。
誰にも脅かされることの無い、滅びを迎えるための場所。あの家にはうってつけの場所があった気がする。
「まま!」
我が子に呼ばれ、小山内ははたと我に返る。
小さな娘の手には、綺麗な貝殻が握られていた。
「これ、あげう!」
舌ったらずな言葉と共に差し出されて、小山内は慈愛に満ちた顔で微笑む。
「ありがとー!ママうれしいなー」
おでこをくっつけて礼を言うと、娘は嬉しそうにえへへと笑った。
「あのねー、ままだいすき!」
何の脈絡もなく、我が子はそう叫ぶ。
その言葉に愛が返されることを知っている、自信に満ちた愛情表現だった。
だから小山内も幸せに目を細めながら、心を込めてその言葉に愛を返す。
「ママも大好きだよ~」
望もうとも手に入らなかったかもしれない宝物が、小山内の腕の中でもじもじと笑う。
きっとこの子は、あの二人からの祝福だと、どうしても思ってしまう。
噂を聞いたときは不気味に思っていても、実際にこの暖かい命を腕に抱いてしまうと、原因などどうでもよくなってしまう。
きっとこれまでの編集者たちもそうだったのだろう。
だって彼らがくれたものは、こんなにも美しく、愛しい祝福だ。
その祝福に感謝して、これ以上詮索するのはやめようと、小山内は娘を抱いて、浜辺にテントを張るのに苦労している夫の元へと戻っていった。
#
土砂崩れの上には、狂い咲いた藤の花が風になびいて波打っている。
その向こう側で、山梔子の花が覆い隠すように、崩れたやぐらの入口を固く閉ざしていた。
その中に、化け物がいるのかどうか。きっと誰も知ることは無い。
先生と藤波・終
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