美雨ちゃんへ

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美雨ちゃんへ

私はまだ貴方を許せていない。 人の話も聞かず勝手な行動を取ってばかりで、私の忠告だってまともに受け止めたことがない。あの日だってそうだった。 ──雨が続く六月、梅雨だから仕方がないと溜め息をつく。溜まる洗濯にうねる髪の毛、いい事なんて何ひとつない。私は雨が大嫌いだ。 (もう何分待っただろう) 大雨のせいで電車が遅延していた。職場から自宅までのたった六駅を、これのせいで足止めを食らっていた。駅は電車を待つ人でごった返している。仕方なく電車を待つ間にスマホを確認すると、幼なじみで三個下の二十歳、隣の家に住む(はる)から不在着信が来ていた。折り返してみると、ワンコールですぐに声が聞こえてくる。 『もしもし?美雨(みう)ちゃん!』 「晴くん電話くれてた?ごめんね、気づかなくて」 『仕事お疲れ様!電話ありがと!超雨降ってるけど大丈夫?』 「職場の最寄り駅で遅延してる電車を待ってるところだよ」 電話の向こうでは随分と明るい声色をさせ、ソワソワしている晴がでいつもより少し早口で話していた。その声を聞くと元気を分けて貰えるような気がした。 『俺、迎えに行くよ!人混みの中帰るより車の方が楽だよ』 「大丈夫だよ、電車はもうすぐ来ると思うから」 『俺が迎えに行きたいんだよ。一刻も早く帰ってきて欲しいから』 晴がそう言った時に、今日は晴の家に行く約束をしていたことを思い出した。先月の段階で今日は空けておくようにと言われていたのだ。そして今日は美雨の誕生日である。きっと毎年恒例で誕生日を祝う準備をしており、それを早く見せたがっているのだろうと予想をする。 その事を考えた時に仕事疲れと電車の待ち疲れが少し吹き飛んだ気がした。 「わざわざ晴くんが雨に濡れることないよ。すぐ帰れるから待ってて」 『えー、早く会いたいんだよ。車だから濡れないしいいでしょ?』 「道路も混んでそうだし、それなら電車の方が早く来ると思うけど……」 『それは確かに……。俺が迎えいったら迷惑?』 晴は美雨にそういう聞き方をしたら断れないことを知っていた。昔から自分の意見を通したい時によく使っていた手段だった。迷惑な訳がなく、寧ろ自分のために行動してくれることが嬉しくて断ることが出来ない。仕方ないなと毎回許してしまっていた。 「……もう。じゃあ雨だから気をつけて来てくれる?」 『やった!すぐ行くから待ってて!』 「はーい」 『早く会いたいな、美雨ちゃん』 そう言って電話が切れた。 しかし、それ以降彼の声を聞くことは二度と無かった。いくら待てど、何本の電車を見送れど彼と彼の車は現れなかった。 そして次に来た電話は母親からだった。 「──なんで、いつもいつも私の制止を聞いてくれないの。どうして先へ行ってしまうの」 目の前の墓石には晴の名前が刻まれている。 あの日、車を出した晴は追突事故に巻き込まれてしまい即死だった。雨の中、異常な速度を出した車は晴を連れ去っていってしまった。相手の運転手も同様に帰らぬ人となった。 その日から、この怒りや苦しみをどこにぶつけたらいいのか分からないまま時間だけが経ってしまった。この一年間は長いようであっという間だった。いくら泣こうが叫ぼうが晴は帰ってこない。 美雨の誕生日は、晴の命日となった。 「……今日、二十四歳になったよ。ねぇ晴くん。あの日は私の誕生日の準備をしてくれてありがとう。プレゼント、今も大切にしているよ」 一年前、彼の家には“美雨ちゃんへ”と書かれた手紙と共に小さな可愛いピンク色のリボンが巻かれた白い箱が置かれていた。心の整理がつかぬまま箱を開けるとピンクゴールドのネックレスが入っていた。そこにはSのイニシャルチャームがついていた。 そしてもう一本、Mのイニシャルチャームがついたシルバーのネックレスも入っていた。 きっとお揃いで付けるために用意していてくれたのだろう。けれど今は二本とも美雨が持っている。 「晴くん、見て。いつもつけてるよ」 そう言い服で隠れていたネックレスを引っ張り出して見せる。もう一本の晴の分は、自室に立てられた晴の写真の隣に飾られている。外出する度に肌身離さず大切につけていた。これがなくては落ち着かないと思うくらいに心の拠り所のひとつとなっていた。 「……晴くんは最近どう過ごしてるのかな。こっちは六月なのにさ、ずっと雨が降っていないんだよ。梅雨を越して夏になったみたい」 そう話す美雨の表情は今にも泣き出しそうだった。何度墓参りに来ても気持ちがぐちゃぐちゃになるばかりで、その日の晩は決まって眠ることが出来ない。朝になるまで、涙が枯れるまで泣いては寝不足のまま一日を過ごす。 この一年間で不眠症になり鬱になり、好きだった趣味の編み物は手につかなくなった。そして営業の仕事もろくに行けなくなってしまったため辞めてしまった。電車を見るのも嫌になり、近所のスーパーでレジ打ちをしている。晴がいなくなった日から心には大きな喪失感と共にぽっかりと埋まらぬ穴が空いてしまい、ネガティブな感情以外が消えてしまったようだった。 「……あの日の手紙。まだ読めていないんだ。今日は持ってきたよ。きっと読まないのは晴くんにとって悲しいことだもんね。せっかく書いてくれたのに」 カバンから封筒を取りだした。紫陽花柄の封筒の真ん中には、汚い字で“美雨ちゃんへ”と書かれていた。封を閉じている笑顔のカタツムリのシールを親指で数回撫でる。誕生日の際にネックレスが入っていた小箱の隣に置いてあった手紙だ。 「今日はね、これを一緒に読むために来たよ。今日は私の誕生日だし、きっとおめでとうって書いてくれてるもんね」 震える指でシールを丁寧に剥がした。何度も手にしてはしまい込み、読むことが出来なかった手紙をやっと開封する。早まる鼓動を落ち着けるように唾を飲み、中から二つ折りにされた手紙を取り出す。そして開いて確認した。 美雨ちゃんへ ハッピーバースデー!今日は美雨ちゃんの誕生日だね!今年もお祝いするよ! 二十三歳だね。俺も早く追いつきたいけど、どうやったって追いつかないからなぁ。年々大人びていく美雨ちゃんを追いかける俺は、ガキのままで悔しいな。声が低くなったって身長を越したって年齢は覆らないからさ。本当は美雨ちゃんをかっこよく守れる大人な男性になりたいんだけど。 でも、俺も二十歳になったから酒は飲めるようになったよ!美雨ちゃんの誕生日に初めて一緒に飲みたかったから今日まで我慢してたんだ。気づいてた?美雨ちゃんの好きなお酒、買うの緊張したー!年齢確認されてさ、免許証持っててよかった。初めて買う酒が美雨ちゃんの為だっていうのは嬉しかったな。 それとさ、もうプレゼント開けたかな?そのネックレスも初めて買ったんだ。アクセサリーなんて買ったこと無かったし、お店はキラキラしてるしカップルばかりだし。緊張しすぎて口から心臓出るかと思ったよ。それに、イニシャルが入ったものを渡して引かれないかも心配。店員さんには彼女に贈るとか言ってきちゃった。 それでさ、手紙で伝えるしか勇気の出ない俺を許して欲しいんだけど……。 好きです。付き合ってください。 俺が好きだってこと気づいてた?分かりやすかった?俺の自惚れじゃなければ美雨ちゃんも俺の事好きなんじゃないかなーなんて。 いつも元気で明るくて笑顔で、優しくて素敵な女性の美雨ちゃんが大好きだよ! まだ大学生だし頼りないかもしんないけど、これから美雨ちゃんを守れる男になるからゆっくり待ってて欲しい。恥ずかしいからもう終わり!誕生日おめでと! 晴より 計二枚の手紙を読むのにどれくらいの時間がかかったのだろう。途中何度も涙で視界がぼやけては文章が読めなくなってしまった。そして、読み進める度に晴の笑顔を思い出していた。 あの日、無事に帰宅してこれを読んでいたらどんな気持ちだったのだろう。晴は照れながら隣で笑っていてくれただろうか。そんなことばかりが頭の中でグルグルと駆け巡る。 「もう、二十四歳になっちゃったよ。これからは……私だけがどんどん歳をとっていくんだね」 鼻水をすすりながら、途切れ途切れそう話す。手紙を封筒に仕舞って再びカタツムリのシールを丁寧に貼り直す。その封筒を眺めながら涙がボロボロと地面に落ちていく。そして、一滴封筒にポタリと垂れると文字が滲んでしまった。手紙や封筒につかないように泣いていたつもりなのに、とその雫を指で払うと、今度は自分の手にポタリと水滴が落ちてくる。 見上げれば雨が降り出していた。それに気づくと急いで封筒をカバンに入れた。 「……雨、久しぶりだ」 六月に入ってから初めての雨だった。六月も半ばだという今になってようやく降り出した雨だった。とはいえポツポツと小粒な上に小雨だ。 手紙を読むことに夢中になっている間に、薄暗い雲が太陽を隠してしまっていた。 美雨はその場にしゃがみこみカバンを抱きしめる。せめて手紙を入れたカバンだけは濡れないようにと。 「雨なんて予報になかったのに……」 美雨は涙を手で拭う。いっそ本降りになってくれれば涙も誤魔化せるのに、そう思いながら。 「晴くん。今年の六月がずっと晴れてたのって、晴くんがそうしてくれてたの?私が泣いたから、晴くんも泣いちゃったの?……なんて」 降る雨よりも大粒な涙が目から流れては止まらない。頬を伝い顎から地面へ落ちる。足元には涙の小さな水たまりが出来ていた。 「今日までに何度も後悔した。あの日、私が止めていればって。でもきっと晴くんは何を言ったって車を出していただろうな、そう考えてたんだ」 右手を伸ばし、墓石に刻まれた晴の名前を撫でる。 「……それと、何度も会いに行こうとした。会って謝りたかった。でもそんなの、それこそ迷惑だよね。晴くんはそんなことされたってきっと悲しむ。だから今日ここに来たら少しでも気持ちを前向きに切り替えて頑張ろうって思ってたの」 次第に雨量が増え、地面に当たる雨音が強まる。それでも構わず美雨は目の前の墓石に話しかける。 「でも、手紙……あんな手紙読んだら!会いたくなるよ!ねぇ、晴くん!私だって……好きだよ。年下とか関係なく、晴くんのこと大好きだよ。自惚れなんかじゃない、ちゃんと私たち両思いだったよ……!」 声を荒げて嗚咽しながらそう叫んだ。目の前が何度も涙で歪んでも“晴”という文字だけはハッキリと見えるようだった。呼吸の合間で咳き込みながら、声を振り絞る。 「……でも、晴くんは、明るい笑顔の私が好きだよね。この一年間はずっと暗い私だったよね。そばにいてくれてたのなら、きっと晴くんも悲しかったよね。俺のせいでって……思ってたよね」 どんな瞬間でも晴のことが過ぎってしまい何も楽しめなかった。隣に晴がいたらどんな顔をしてただろう。そんなことばかり考えるようになっていたからだ。 晴がいた頃は毎日笑わない日がなかった。小さい頃からずっと隣でヤンチャな晴は、美雨のことをよく笑わせていた。それは二人が成長しても変わることはなかった。 次第にお互いの気持ちは幼なじみから恋心へと変わっていき、笑うだけではなくドキドキもさせられていた。 「……晴くんに泣かされたのは、最初で最後だね」 心に伸し掛る負の感情は増える一方だった。晴の写真を見たり動画を見たりすると少しは気持ちが軽くなるかと思ったこともあったが、寧ろ会いたくなるだけでダメだった。まともに晴のことを見るのが怖くなっていた。 毎日天気予報で“晴れ”という言葉を耳にすると晴のことを思い出していた。だから、曇りの日は少しだけ安心してしまっていた。 雨の日は、当時を思い出してしまうから大嫌いだった。溜まる洗濯やうねる髪の毛なんてどうでもよかった。ただただ最後の電話の声がフラッシュバックして息苦しくなっていた。 「雨、強くなってきた……流石に風邪引きそう。そういえば風邪引いたらお見舞いに来てくれてたね。それで移してしまって次は私がお見舞いに行ったり……。私ずっとこんななんだ。何をしてても晴くんのことばかり……。ねぇ晴くん、会いたいよ。いつになったら会えるのかな。今すぐにでも会いに行きたいのに」 「……こんにちは、美雨ちゃん」 「……おばさん」 背後から声をかけらると共に傘を差し出される。見上げるとそこには晴の母が立っていた。眉を下げて優しく悲しそうに微笑みかけていた。美雨が立ち上がると、今度はハンカチを差し出される。 「美雨ちゃん。きっとここに来てくれているかと思って。一周忌の後、姿が見えなかったから……。傘もささずにいたら風邪引いちゃうわよ。これで拭いて」 「ありがとう……ございます」 「……美雨ちゃん。ありがとうね。いつも晴に会いに来てくれて。それと、立ち聞きするつもりは無かったのだけれど、晴に会いに行こうなんてしないで欲しいの」 受け取った紫陽花柄のハンカチを強く握り締めその言葉を聞く。そして胸が潰れそうなほど苦しくなった。晴の母は今にも泣き出しそうに震える声で続けて話し始めた。 「晴の分まで生きて欲しいなんて重いことを言うつもりはないの。けれど、美雨ちゃんのことは私も主人も大切だから、美雨ちゃんにまで会えなくなってしまったら……。それとね」 俯き気味に話していた晴の母は美雨と目を合わせる。そして目頭に溜めていた涙を流しながら、穏やかな笑顔を見せた。 「晴はきっと、ずっと美雨ちゃんのそばにいると思うの。見守っていると思うの。昔から口を開けば美雨ちゃん美雨ちゃんって言ってたから。だから今も……今までもずっとそばにいるような気がしてならないのよ。きっと私と主人よりも美雨ちゃんといたいんじゃないかしら」 「そんな……晴くんは、おばさんたちのこと大好きだから、おばさんたちを見守っていると思います」 「そうかしら、そうだったらいいわね。だから美雨ちゃんが悲しんでいたら、そばにいる晴も悲しいと思うのよ。晴のために泣いてくれるのは嬉しいのだけれど、私たちからも美雨ちゃんは笑顔でいて欲しいって思ってるの。晴のこと、忘れて前に進めとは言わない。正直晴のことを忘れて欲しいとはとても思えないの」 「……はい。忘れたくないです。忘れられるわけないです」 二人は見つめ合い晴の墓石の前で涙を流す。雨が強く降り始め、傘に当たる音が騒々しく感じる。美雨はギュッと握りしめていたハンカチで、晴の母の涙を優しく拭った。 「……晴くんはそばにいる気がします。多分今もこの傘の中に一緒に入ってそうな気がします」 「……ふふ、そうね。なんで泣いてるのー?なんて呑気に言ってるかもしれないわね」 「あはは、晴くんらしいですね」 笑顔になると、目に溜まっていた涙が落ちていく。雨に濡れていたせいでさっきまで寒く感じていたのに、今は少し暖かい。久しぶりに口角が上がったからだろうか。それとも本当に晴が近くにいて、寒くないようにと抱きしめてくれているのだろうか。 ◇◇◇◇◇ 手紙を読んだことを後悔したくはなくて、自分が晴に会いたくなってしまう原因を手紙のせいにはしたくはなくて、今は大切に保管している。時折心が沈んでしまった時には読み返している。何度も読み返しているうちにカタツムリのシールは粘着力が落ちてしまい、端が剥がれてしまうようになっていた。 けれど晴が選んで貼ってくれたそのシールを大切にしたくてそのままにしている。 まだ前を向くには時間が足りなくて、俯き続ける毎日だけれど晴がそばで見守ってくれていると思うと少しは勇気が貰えた。 「私を守ってくれる、素敵な男性になってくれたんだね」 美雨は自室の写真立ての中の笑顔の晴にそう語りかける。隣には二人のイニシャルチャームがついているネックレスが並んで飾られている。読み終えた手紙を封筒に仕舞い、カタツムリのシールを貼って写真の隣に置いた。 「……おやすみ。大好きだよ、晴くん」 美雨は優しく微笑みかけると、部屋の灯りを消してベッドに横になる。 そして夢の中で晴に会えるようにと願いながら瞼を閉じる。
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