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アトリエの完璧な空調設備は、テレピン油の臭いも、他の画材の臭いも限りなく消してくれる。
描いていると、世界から切り離され、自分の世界に入り込む音弥にしてみれば些事な事だが、普段から画材の臭いに慣れていない人間からすると空調設備が稼働しているか否かは、大きな違いだ。
「前に言ってた〝スプーン〟ですけど、都市伝説みたいな話しか出てきませんでした」
光鶴の声で、どこかへ飛んでいた思考が現実に戻って来るのを感じ取りながら、視線で話を促せば心得ているように話を進めていく。音弥はこちらを見ていなくてもどこかで聞いているから問題ないと、光鶴は知っている。
「〝スプーン〟とは、ひとつのツイートから発信されたものでした。とある青年が、家から距離のある公園に深夜の散歩に行く。そこでぼんやり夜空を眺めていると、知らない男に声を掛けられ『本当に死にたいなら殺してあげる』という言葉に惹かれて深夜の喫茶店に入る。だが青年はその男性と話をしている間に死にたいという感情は消えたため、早朝家に帰宅した。そして、〝スプーン〟という名前の由来はそのカフェの看板にクロスしたスプーンが描かれていたのが印象的だったから。ということでした」
入室時に持ち込んでいたコーヒーを音弥にも手渡し、取り敢えず一息入れた。
「昨日、ツイートから推測される住所へ行ってみましたが、やはりクロスしたスプーンの看板の店はありませんでした。居酒屋などが多い地区で聞き込みをしてみましたが、そんな店は知らないと口々にいわれてしまい、これ以上の情報はありません。音弥、なぜこの情報を求めたのか伺ってもいいですか?」
乞い願うような言葉を選ぶのは光鶴の癖だ。
「……姉さんが、この間亡くなっただろ。遺品整理をしていた時に見つけた手帳に〝スプーン〟と書かれたページがあった。俺みたいに生活能力がないわけでも、誰かに恨みを買うわけでもない。持病もないのに突然死んだのが納得できなかった」
毎日使う画材の色が染み付いた手が、光鶴に差し出されれば素直に膝をついて手を取り、話を聞く。アトリエには光鶴のためにと、クッションがあるがそれを使うことは少ない。
「でも、その〝スプーン〟というのが死の原因とは言えないのも判っている。姉が唯一俺に知らないかと聞いていたのを思い出した、それだけだ」
感情の起伏が分かりにくく、言葉を選ぶのが下手で、どう頑張っても寝食を忘れて作業する〝フォーク〟であり、パートナーであり、光鶴の生き甲斐でもある男の瞳が哀しみの色を宿している。メンタルの不調は、仕事にも差し障りが出るのも事実。できる限り排除したいとは思うが探偵でもない光鶴ではどうにもならない。
「警察は事件性なしと決定してる」
「それでも気になるのなら、探偵を雇うなり対処しますが」
「いや、いい。そこまでじゃないから」
空虚を見つめる灰銀色の瞳に、創作の意欲の炎がない。
「……音弥」
「大丈夫。ちょっとだけ、ナーバスなのかも」
親類のなかで、唯一信用していた姉の急死は、とてもストレスが掛かるだろう。
特に、感受性豊かな男だ。
他人の感情を肌で感じても、空気の淀みでもストレスになり、体調や創作に差し障りがでることがある。そして現在の状況はそれに当たる。
「音弥、お願いだから俺の知らないところにいかないで」
乞い願うだけで叶うのなら、きっと光鶴は〝フォーク〟に恋をしなかった。
「……いかないよ?自分の〝ケーキ〟を置いてどこに行くの。もしも、どこかへ行く時にお前を連れていけないならちゃんとパートナー契約したとおり、食べてから行くから大丈夫だよ」
パートナー契約。
それは〝フォーク〟と〝ケーキ〟の間で執り行われる契約であり、恋人としての誓いとなる。ほぼ拘束力はないが、〝フォーク〟がパートナーの〝ケーキ〟の肉を噛むことによって紋印が出現する。その紋印がある〝ケーキ〟は契約以外の〝フォーク〟から襲われることが少なくなる。マーキングと呼ぶ人もいるが、基本的に一般人には見えないため支障に障りはない。
「絶対ですからね」
音弥の大きな手が、首筋の紋印を撫でて微笑む。甘い瞳に絆されそうになるが、気を引き締めて立ち上がった。
「〝スプーン〟の件は再度調べてみます。創作は出来る範囲で構いませんので進めてください」
次の個展まで余裕はあれど、できるだけ余裕のある仕事をお願いしたいのも事実だ。
「はぁい」
間延びした返事を聞き、揃いのマグカップを回収してアトリエをあとにした。やはりアトリエは多少匂いが籠っているようで、廊下とはいえ息がしやすい。
他人より優しく、気を遣ってくれるが、きっと音弥の中で一番ではないことを自覚している。それは、〝ケーキ〟として食べられたいという被虐欲からか、恋人としての独占欲かわからないが光鶴の心を重く蝕むものだった。
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