運動会が楽しみ。だから雨が降って欲しかった

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あのてるてる坊主は笑っていたのだろう。わたしと娘を嘲るように。 わたしと娘は、学校の教室で先生と対面していた。仕事場に突然、学校から電話が入り、わたしは仕事を放りだしたまま学校へと飛んできた。 少しだけ校庭に目を向けると、そこでは大勢の児童が赤と白に分かれて応援合戦の準備を始めていた。それをスマホやビデオを掲げて保護者たちが競うように場所取りをしている。もうすぐ運動会が始まる。 わたしも何度も経験した運動会のよくある光景だった。 視線を娘に戻す。唇を真一文字にきつく結び、先生を見ないように下を向いたまま、わたしの服の袖を強くつかんでいた。 「ねえ、どうしてこんなことをしたのか、教えてくれる?」 先生が優しく娘に聞く。娘は答えようとしない。 最初、学校から職場に電話をもらった時、運動会で怪我をしたのかと思った。しかし、すぐにそれは違うと思った。時間が早すぎたのだ。わたしが電話をもらったのは八時だった。運動会は九時から始まる。 そして、わたしは頼み込んで、職場を飛び出した。普段なら電車を使うが、タクシーを使い、学校に来た。所要時間は半分で済む。三十分でたどり着いた。 「バケツに水を汲んでは校庭に流してたんです。聞いたら、登校してからずっとやってたと」 娘は登校するなりバケツに水を汲んで、校庭に水をまき散らしていた。 友達が止めても、先生たちが止めても、頑なにそれを続けた。バケツを取り上げられても、新しいバケツを持ってきて。それを取られたらジョウロを持ってきて。それも回収されると、コップを持ってきてまで、必死になって校庭に水を撒こうとしていたそうだ。 「先生は、怒ってるんじゃないんだよ。理由を教えて欲しいんだ」 先生の問いかけに、娘は無視する。 だから、わたしは娘の背中をさすり、ポンポンと二回叩いた。 娘の視線がわたしに向けられる。その瞳には涙が浮かんでいる。 わたしは娘のその行動の理由の察しがついていた。それを視線で伝える。 娘はそれに気が付き、ようやく口を開いた。 「雨が降らなかったから」 わたしはその言葉を聞いて、やっぱり、と思った。 昨日の天気予報は見事に外れた。夕方から翌朝にかけて雨の予報だったが、小雨が少し降っただけで止んでしまった。雨雲が予想よりも海上を通過していったそうで、雨は校庭ではなく、海に注がれて終わってしまった。 雨が降れば、運動会は翌日に順延となる。 校庭が使えなければ、わたしの仕事が休みとなる日に、運動会が実施されることになる。 だから、わたしたちは雨が降ることを望んでいた。そうすれば、娘が運動会を頑張る姿を見ることができるから。 娘はきっと、雨が降らなかったから、必死で水を撒いて、校庭を使えないようにしようと考えたのだろう。 小学一年生だから、そんなことをしても焼け石に水だということは理解している。娘は自分の行動が無謀だということは、頭ではわかっている。 それでも、自分の激情には抗えなかった。うねり、荒れ狂う感情が、娘の行動を引き起こした。 ままならぬ、途方もない悲しみが、娘の行動の引き起こしたのだ。 ……いや、わたしが引き起こさせてしまったのか。 「……お母さん? 泣いているんですか?」 「……え?」 言われて、自分の目に触れる。たしかにわたしは泣いていた。 指摘されるまで、泣いていることに気が付かなかった。そして、その涙は気が付いたことで、堰を切ったように溢れ出してきてしまった。 「……ママ」 娘の顔がひしゃげた。わたしの涙を見て、後悔の念に駆られれてしまったのだろう。 「ごめんなさい。ごめんなさい! ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい! こんなことして、ごめんなさい! わたし、わたしッ!」 わたしの涙の理由を、自分の愚行にあると勘違いしたのだろう。娘が謝罪の言葉を連呼し始めた。それをわたしは止めたい。そうじゃないんだよ、ってすぐに言ってあげたい。 それなのに、涙が止まらず、喉もキュッとしまってしまい、言葉にならない。 わたしは、娘のために、と仕事を頑張ってきた。働かなければ、子供を育てることができない。お金がなければ、生きていくことができない。 それは間違いではない。だけど、それが一番大切なことか、と問われれば、そうではない。一番大切なのは、娘だ。わたしにとって大切なのは、娘だ。 それなのにわたしは、娘ではなく仕事を理由にして、娘を悲しませてしまった。仕事だから、娘の運動会に参加することができなかった。 優先順位が完全に間違っていた。 そのことに今、気が付いた。 わたしは涙まみれになった娘を抱きしめた。 「ごめん。ごめんね。ごめんなさい!」 わたしの行動に、娘、先生共に困惑しているのがわかる。だけど、わたしは止まらない。止まっちゃいけない。 伝えないといけないッ! わたしは、わたしは、あなたが世界の何よりも大切なのだとッ! 「わたし、あなたのことが大切ッ。それなのに、あなたのことを優先してあげることができなかったッ! わたしに運動会、来て欲しかったよね!」 娘は胸の中で、コクコクと何度も頷いた。 「ママ、優先順位を間違ってた。あなたのことが大切なのに、大切にするものの順番を間違えた! ごめんなさい。本当にごめんなさいッ!」 お金は大切だ。それがなければ生活が立ち行かなくなる。だけど、逆に言えば、お金さえあればいいのだ。だとすれば、いくらでもできることはある。節約すればいい。要らないものを売るでもいい。なんだっていい! 今の世の中、お金を稼ぐ手段は無数にある。もちろん、犯罪行為などは論外だが、それを除いても、選択肢は無数にある。 わたしはそれを知っているのに、やってこなかった。そのせいで娘に悲しい思いをさせてしまった。 わたしがすべきことは娘を一番に考えてあげることだ。何を犠牲にしても、娘を大切にするためだ。 わたしは娘を強く抱きしめる。 「ママ、あなたと一緒にもっと長くいられるように、頑張ってみる!」 考えてみれば、娘と共に過ごせる時間というのは意外と短い。小学生になった今、朝の一時間程度とわたしが帰ってきてからの三時間程度しか、一緒にいる時間はない。 二十四時間あるうちの、たったの四時間しか一緒に笑ったり、おしゃべりしたりする時間はない。 大きくなればなるほど、この時間はもっと減っていく。思春期になればおしゃべりだってしてくれない可能性だってある。大学生になったら、一人暮らしのために家を出て行くかもしれない。 だから、この子との時間はもっと大切にしないといけない。いや、違う。いけないじゃない。義務じゃない。 わたしがそうしたい! わたしが娘と一緒にいたいんだッ! わたしはしばらく抱きしめてから、娘をゆっくり離した。 「うわ! 鼻水!」 わたしの胸辺りから娘の鼻まで鼻水がつながっていた。アニメみたいだ。 「ぷっ! あはははは!」 そう思ったら急に笑えてきてしまった。 「鼻水、びよーんってなってるね!」 そんなわたしを見て、娘も笑う。 「これ、使ってください」 先生からティッシュを渡され、娘の鼻水を綺麗にした。涙も拭いてあげる。 ふと先生を見ると、先生も笑いながら、泣いていた。 「先生、ごめんなさい」 娘は椅子から立ち上がり、謝罪の言葉を口にした。 「迷惑かけてごめんなさい。わたし、ママに運動会に来て欲しくて、わたしを見て欲しくて、こんなことをしてしまいました。校庭が濡れて、使えなければ、運動会を明日にできる、ママが運動会に来ることができる日に延ばせる。そう思ったんです。でも、それは間違いでした。ごめんなさい」 自分の胸がキュッと締まるのがわかる。複雑な感情だ。娘に謝罪をさせてしまったという罪悪感。一方で、こんなにも立派に謝れるようになった娘の成長に、うれしいと感じている心があるのも事実だった。 この子はいつかわたしの手を離れる。その瞬間まで、わたしはこの子の手を強く握りしめよう。この子が助けを求めることができるような関係を築こう。そのために、この子とできる限り一緒にいる可能性を探ろう。 わたしは自分の胸に手を置く。 わたしが大切なものは何だろうか。 それを今一度、問いかける。 問いかけることで、今一度、自覚させる。 わたしにとって大切なのは、この子だ。 この子を立派に育て上げたい、わけではない。この子は勝手に立派に成長する。わたしはその傍らに立ち、この子の成長を見守りたい。時に手を貸し、時に道を整えながら。 わたしは娘の隣に立ち、頭を下げた。 「御迷惑をおかけして、申し訳ありませんでした」 先生は、首を横に振った。 「今回の件はよくありませんが、普段は誰よりも率先して先生たちの手伝いをしてくれたり、みんなをまとめてくれたり、本当に頼りになる存在なんです。少し、お話ししませんか?」 わたしは先生から学校での娘の様子を聞いた。この子からも話は聞いているが、それよりもはるかに色々なことをしていることを知った。そして、誰よりも頑張っていることも、よくわかった。 わたしは先生から話を聞き終わると、娘をきつく抱きしめた。 「今回のことはよくなかった。だけど、きちんと謝ることができた。自分の過ちを認めることができた。それはあなたにとって、大切なことで、あなたの成長を感じられた。それに、普段、学校でたくさん頑張っていることも知ることができた」 わたしはさらにきつく抱きしめる。娘もそれに応えるように抱きしめてくれる。 「わたしは、あなたを誇りに思うよ」 「わたしも、ママを誇りに思ってるよ」 その言葉にまた、涙が出てくる。 それは、先生も同じようだった。 ふと、娘がわたしから離れた。 「先生、ティッシュ使ってください。あと、そろそろ運動会始まっちゃう!」 時間を見ると、もう運動会開始時刻の五分前だった。 「そうね。そろそろ行きましょうか」 「行こう、ママ!」 わたしに向けられた小さな手のひら。わたしはそれをぎゅっとつかんだ。 その後、娘は運動会で団体、個人問わず、参加した競技の全てで断トツの一位を取って見せた。 ~FIN~
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