告白編

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32.ふたりがいい  紫苑は、イナバさんと厨房裏に行ってから戻ってこない。  なんとなく予想はついていたけど、今は気にしていられる状況ではなかった。  滝のように吐き出された伝票に目を回しつつ、調理担当の従業員が手を動かしていく。  作っても作っても、調理に休みはなく食器と食材はまたたく間に減っていく。 「……ちょっときつくない? あの人」  野菜を切っていると、小声でコモリさんが耳打ちしてきた。横で聞いてたスギムラくんも頷く。  言われているうちが華とは言え、言い方ってものがあるからなあ。 「俺も萎縮して涙目になったことあって。泣かれたらなにも言えないよ、って呆れられて。泣きたくて泣いてるわけじゃないのに」 「店長の代わりで休み潰れて、内心ストレス溜まってんじゃない? ハルさん大人しそうな子だし、言いやすいんじゃないかと思う」  ふたりがぼそぼそ、低い声でさっきのやりとりを振り返る。  補足すると、イナバさんは言葉はきついけどよく見ている人だ。複数の業務を同時並行でこなせる方だし、意外とノリもいい。  ただ、仕事熱心なぶん怖いというイメージが先行しているだけで。 「オオネさん、卵切れそうだから裏から持ってきて」 「はーい」  調理担当の人から指示が飛んできたため、急いで冷蔵庫を開ける。  卵はもう、残りわずか。もう少ししたら業者さんが食材を届けに来てくれるとはいえ、それまで持つか危うい。  ご飯もお釜のぶんがどんどん減ってきていて、今早炊きしてるけどあの客のあふれ返りようでは追いつかない可能性が高い。 「あのー、卵とご飯の減りようがやばいです。食材が尽きそうな場合って、そこのスーパーで買ってくればいいんでしたっけ」 「一時的に注文をストップする場合もあるけど、伝票にはご飯ものもたくさんあるからそうなるわね。お金はあとで払うから、レシート忘れないように」 「かしこまりました」  ロッカーのあるスタッフルームへと戻る。  中には、メモを読み返している紫苑の姿があった。 「…………」  私に気づくと、紫苑は無言で頭を下げた。  目元が赤く腫れていて、瞳も潤んでいる。口角をぎこちなく上げる仕草に、きゅっと胸が締め付けられる。 「ハルさん」  休息時間が終わったのか、厨房に続くドアに向かう彼女に声を掛けた。 「よろしければお使い頼んでもよろしいでしょうか? そこの食品売り場です」 「あ、はい……食材を切らしているとかでしょうか」 「お察しの通りです。ご飯ものの注文が予想以上で」  メモを渡し、レシートも忘れないように伝える。  紫苑の声はかすれていて、眉も下がり気味だ。  落ち込んだ気分が抜けない内に気が重い現場に戻るよりは、一時的でも他の場所の空気を吸ったほうが気持ちを切り替えやすいと思ったのだ。  みんな通った道だとか、誰もしーちゃんのことは責めてないよとか。励ましの声を掛けようとして、んんっと咳払いする。  今、それを言ったところで気休めにしかならない。  紫苑から言い出さない限りは、変わらず接するべきだろう。 「ところでしーちゃん」  口調を友人モードに切り替える。  手短に済ませるからと前置きして、切り出してみた。 「このあとカラオケ行くんだけど、よかったらどう? 1時間くらいで」  落ち込んでる同僚には、気晴らしに飲み屋やカラオケに連れて行ってストレス発散させるのがいいとあったのでそれに倣う。  映画も考えたけど、なるべくお金を使わない方向で。 「カラオケ……何人で?」 「ヒトカラの予定だったけど」 「そうなの? 意外」  紫苑は複数人で歌うことを想定していたらしい。  私、けっこう単独行動好きよ? ぼっち映画も一人焼肉も余裕よ? 海外とかだとさすがに女一人旅は怖いけど。 「賑やかなのがいいなら、何人かに声掛けよっか? カンナとかこないだのバレーチームの子たちとか、非番の子とか」 「大丈夫。大人数がいいって言ったわけじゃないから。せっちゃんとふたりで……ふたりがいい」 「わ、分かった」  すごい大慌てで頭をぶんぶんと振られる。  ごめん、配慮足りなかったね。そりゃ、落ち込んでる姿なんて見られたくないに決まってる。 「じゃ、終わったら歌いまくろ。ちゃんと予約はしてあるから大丈夫」 「楽しみにしてる」  よし、乗ってくれた。GWはみっちり仕事にしちゃったけど、こういう隙間時間でリフレッシュすることも大事だからね。  大げさにわーいと拳を突き上げて、ちょっとテンション高めに紫苑を見送る。 「……いってまいります」  紫苑は控えめに微笑むと、軽く手を振って店を後にした。 「ごめんなさいね、約束の時間が近づいてきてしまって。注文を取り消してもらえるかしら」  厨房に戻ると、レジで年配の女性がキャンセルの旨を伝えていた。  イナバさんは誠心誠意謝罪の言葉を述べて、返金と一緒にクーポン券を女性に渡している。  ほとんどのお客様はこの女性みたいに温厚な方か、怒っていても冷静に接する人ばかりだ。  ただ、人は空腹が絡むとイライラしやすい傾向にある。だから飲食店ってクレーマー多いのかねえ。 「……もう結構です。お金返して頂けますか」 「畏まりました。たいへんなご迷惑をおかけしてしまい、誠に申し訳ございません」  次にキャンセルを申し出てきた人は、スーツを着た中年女性。  この人、さっきも午後の始業時間に間に合わないからって調理優先しろと言ってきたんだよね。  GWでも仕事ってほんと疲れるだろうし、昼休みくらいおしゃれなカフェでリフレッシュしたい気持ちも分かる。  けど、こっちだって仕事でやってるし、急かされても順番は順番だ。  できれば時間の限られている昼休息では、お弁当かコンビニで済ませて欲しいというのが本音。 「わたし、よくここ来てるから分かりますけど。今日のレジの子、新人ですよね多分」 「申し訳ございません。今後二度とこのようなトラブルが発生しないためにも、再教育を徹底いたしますので」 「……あのですね、あなたに言ってんの」  女性はさらに語気を強めて、イナバさんに詰め寄った。 「なんでこの繁忙期に、不慣れな人をレジに配置するんです? レジって一番簡単そうに見えて、ミスると責任も一番重いのに。あなた、あの子に注意してるときに必要以上にきつい言い方してましたよね? イライラをぶつけてるような声でしたし。上司の普通と新人の普通は違うんですよ? 料理が遅いことよりも、そっちのほうが腹立ちました」  まさか、怒りの矛先がそっちに行くとは思わなかった。  イナバさんはただ、深々と頭を下げてお気持ちを甘んじて受けている。  溜まっていた怒りが止まらなくなったのか、女性はぐちぐちと責める言葉をイナバさんに浴びせ始めた。
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