68人が本棚に入れています
本棚に追加
34.【紫苑視点】友達じゃダメ
「久々だなー、ここ来るの」
剥げ掛けた白線が引かれている駐車場に入り、芹香が敷地奥の建物を指差した。
裏口だったから分かりづらいが、確かに遠くにはカラオケと書かれた看板が見える。
駐車場の両脇に建つ長屋みたいな店舗は、錆びついたシャッターが下りている。
一軒だけのぼりをはためかせ、細々と営業しているラーメン店に侘しさを覚えた。
「ここ、ちょいちょい入るけどすぐ潰れるんだよねー。真向かいの服屋だって1階がロー○ンに乗っ取られてるじゃん」
「この寂れた雰囲気じゃ生き残るのは難しいと思う……」
ひび割れてぼこぼこに隆起した、雑草が茂るアスファルトを踏みしめ辺りを見渡す。
錆びついた柱、色あせて白に同化しつつあるポスター、撤去されず取り残されている、撤退した店の看板。
平成初期で時が止まっているかのようだった。
ここにゲーセンあったよねとかお弁当屋さん利用したことあるよとか、当時の記憶を芹香と振り返りながら入店する。
カウンターで伝票を受け取り、指定の番号が振られている部屋へと私たちは入った。
向かいのソファーにリュックを置いて、芹香が『食べると歌う、どっちにする?』とメニュー表を広げながら聞いてくる。選択の余地がない。
「この時間にそんなにがっつり食べて、夕飯入るの?」
電話注文で『ビーフシチューオムライス』と言い放った芹香に突っ込む。ちなみに、私はたこ焼き。
「うち、各自勝手に作って食べてってスタンスだからさ。これが夕飯みたいなもんですね」
「そうなんだ」
食卓を囲まない家庭も今は珍しくないのか。軽く流すと、芹香がべつの話題に切り替えた。
「ちなみに残ってた理由なんだけど、チェックリストを作って下さいってお願いしたんだ。そのうちグループLINEで回ってくると思うけど」
「チェックリスト?」
「うん。仕事内容を細分化しておけば、作業の抜け漏れに気づきやすくなるから。業務全体の流れもつかめるしね」
レジ打ちに求められるのは速さよりも正確さだよ、と芹香は結論づけてストローに口をつけた。
高校生のバイトなど、お小遣い稼ぎ感覚でやっている子が大半だろう。
学生生活を終えるまでの付き合いなのだから、店がどうなろうが知ったことではない。
けど、芹香は違う。
現場に立った瞬間から、客は立場など関係なくベテランの社会人と同じ目で自分を見ることを自覚している。
イナバさんや店長みたいに、店の未来を真面目に考えている。
だから、急なトラブルでも冷静に対処できているしミスを防ぐための具体的な案を提示することもできる。
こういう人が良き上司足り得るのだろう。
褒め言葉を口にすると、芹香は遠慮がちに手を振った。
「しょーもない動機だよ。頼りになる人ってかっこつけたいだけだし」
「いまは上昇傾向がない人が多いから、下心由来でも上に行く志を持っている人は貴重よ。実際せっちゃんはいろんな子から頼りにされてるし、かっこいいと思う」
「も~、しーちゃんだってそんなさらっと、かっこいーとか言っちゃ駄目だよ」
それまでへらへら笑っていた芹香が、しまったと言うように口元を押さえた。
言動が読めない。照れるならまだしも、私が軽々しく褒めてはいけないとはどういうことだろう。
「……いまの忘れて」
「教えてよ。把握しておきたいから」
私は芹香とは違って、コミュニケーション能力に乏しい。
ゆえに他人の感情の機微には鈍いところがある。何気ない言葉が、無意識に人を傷つけてしまっているかもという不安が拭えない。
だから、芹香には遠慮なく指摘してほしい。
自分の欠点は、なかなか自分では見えないものだから。
「あ、あくまで一般論の観点からね」
「そんなに予防線を張らなくても大丈夫よ。怒るわけがないから」
食い気味に身体を乗り出すと、芹香はしぶしぶといった感じで膝の上の手をこね回した。
「その、ね。しーちゃんくらい可愛い子に褒められたら、それだけで勘違いしちゃう人もいるからって……心配した的な」
辿々しく理由を述べて、芹香が調子の外れた笑い声を飛ばした。
こんなもの、自衛のために言ってくれる警告でしかない。
そうだね気をつけるね、でここは一緒に笑って流すところだ。
けど、脳はそう受け取ってくれない。
不意打ちの『かわいい』という言葉にはほへ、といった間抜けな声しか出てこなかった。
ぶわっと胸から上に熱が吹き出して、耳まで熱くなっていく。
芹香こそ勘違いさせないでほしい、と見当違いな八つ当たりをかましそうになる。
「お待たせいたしました。ビーフシチューオムライスとたこ焼きでーす」
沈黙を破ったのは、料理を運んできた店員の声だった。
カラオケ店の店員って、部屋に入るときはタイミングが悪いときのほうが多いから気まずい仕事だと思う。
けど、今日の場合はむしろ絶妙なタイミングといえた。
「と、とりあえず食べちゃお」
「……うん」
この話は終わりとばかりに、芹香が両手をぱんと合わせる。
今の空気は友人同士にはふさわしくないものだ。いちいち意識して、会話の流れを止めてはならないのだから。
楊枝を鰹節が踊るたこ焼きに刺して、口に放り込む。
美味しい。濃くて素朴なソースとマヨネーズの風味が、一足早いお祭りを思い起こさせた。
「…………」
そうして。芹香に投げていた視線を横に逸らす。
小骨のように引っかかった疑問が、いくら食事を進めていても抜けてくれない。
勘違いする人もいる、とわざわざ警告してきたということは。
芹香も、私に対してそういった気持ちになったのだろうか。
脈はないと知っているのに、私は可能性の糸を手繰り寄せようとしている。
けど、それを聞いてどうすると言うのか。
一時的に自分の独占欲が満たされるだけでしかないのに。
今日だって、カラオケを盛り上げるために他の子を手配しようとする芹香に私は待ったをかけた。
バイトで埋まっていた予定を自分だけに割いてくれていることが嬉しかったから、今日だけは独り占めしたいと思ってしまった。
未練がましく、みっともない。
抜けない棘を埋め込まれているかのように、胸も頭もちくちくと痛みを覚える。
ご飯の美味しさも楽しい気持ちも引っ込んで、虚しさが心を埋め尽くしていく。
「……しーちゃん?」
スプーンを止めて、芹香が顔を上げた。不安そうに、こちらを見つめている。
理由はすぐに判明した。
まばたきと一緒に溢れ出したぬるい雫を、慌てて袖でぬぐう。
「ごめ、これは」
「いーよいーよ。今日、いろいろあったもんね。ここで流しちゃおうよ」
芹香はどうやら、仕事の失敗を引きずっていると思っているらしい。
頭上を、柔らかい手が包み込んでくる。
その温かさは決壊していた心の水位をさらに引き上げて、一気に視界がぼやけだす。
堪えられない感情が欲求となって、嗚咽と一緒に引きずり出された。
「胸、借りて、いい」
「いいよ、いくらでも」
ひたすらに優しい声と腕に絡め取られて、芹香の体温に埋もれていく。
温かい。
同僚として、友人として慰めてくれる優しさを受けて嬉しいはずなのに。
どうしてこんなに胸が苦しいのだろう。
止まらない涙はやがて、泥を洗い流した雨のように心の形を浮き彫りにしていく。
離れたくなくて、離したくない。
芹香の背中に腕を回して、強く胸を打つ感情を改めて自覚する。
結局、こうなってしまうのか。
認めたくなかったのに、認めてはならないのに。
やっぱり、私は。
友達じゃ、ダメなんだ。
最初のコメントを投稿しよう!