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36.その先に進みたい
「さっき、お父さんから今日は帰れないって連絡来て」
受話器を置いた紫苑が、延長した理由を説明する。
「擁壁崩壊で、工程が遅れに遅れてるんだって。上階の工事を急ピッチで進めるのと、下階の手直しを同時に進める別部隊の確保も必要みたいで……」
「ああ、それで作業員の数を増やすことになって、きみの親御さんも駆り出されたってわけか」
「工期延長も申し出たのだけど、元請と事業主から却下されてしまったみたい。近隣協定で休日も決められているから、間に合わせるには残業と増員するしかないよねって話」
「安全性と下請の待遇よりも工期死守なのか……」
これじゃ突貫工事だらけになるよね、と紫苑は諦めきったようにため息を吐いた。
もうそこが定位置のように、ぴったりと私の隣に半身をくっつけて。
私が歌っている間も、紫苑はデンモクに触れず耳を澄ませていた。
ノリがよく手拍子を叩いて、目を細めながら左右に揺れている。
「あれ、歌わないの?」
「せっちゃん、上手いからもうちょっと聞きたい。……あ、喉枯れてきたら休んでいいよ」
上手いって、95点以上をキープできる人にかける言葉だと思うんだけどなあ。なかなか80点から上がらないのよわたくしめは。
かくいう紫苑は80後半から90点まで取れてるから、そっち聞きたいのに。
「機械が判断しているのは音程の正確さでしょう。多少アレンジが加わっていても聞いてて心地いい声を、私は上手いって思う」
よどみなく、さらりとかけられる言葉に胸が疼く。
……もう、なんというか。こんな些細なことですら、私はすでに平常心を保てなくなっている。
私の自意識過剰を差し引いても、今の紫苑はあまりにも無防備だ。
密室で2人きりって状況に加えて、こんだけ密着されて、延長も申し出て、そんで親も今日帰ってきませーんってあっさり喋るとか。
私じゃなかったら勘違いされたっておかしくない。
……私だから、なのかもしれないけど。
「おっしゃ、ヒゲダン次いっちゃうよー」
「おー、いぇー」
悶々と黙りこくる前に歌おう。
聞きたいと紫苑が言っているのだから、従わないわけにはいかない。新たな曲を入れてマイクを構える。
このまま延長分も歌って過ごして、友達同士の時間を終えることもできた。
でも、と。ずっと胸にしまい込んできた、心の本音がささやきかける。
いつまで、ずるずると外堀を埋め続けているだけの”現状維持”に逃げているつもりなのか。
せっかく2人きりで話せる空間にいるのだから。勘違いじゃないかもしれないって、確かめてみてもいいんじゃない、と。
間奏に入ったタイミングで。身体にわだかまっているものをぜんぶ抜くように、ふーっと長く息を吐く。
胸に手を当てて、もう一度己の心に問う。
同じ学校に通っているだけで十分だった。
友達に戻れただけで十分だった。
バイト先も一緒というだけで、これ以上なく充実しているはずだった。
それ以上を望んではならなかった。
それでも、私は。
その先に、進みたいんだ。
隣の、膝上に置かれている紫苑の右手の上に。
そっと、左手を重ねた。
「…………」
少し、紫苑の肩が跳ねたように見えた。
そのまま左手は動かさず、私は歌に集中する。
どんどん熱が上昇して、緊張に手が湿っていく。どうか払いのけられないことを祈って、添えているだけだった手に少し力を込めた。
紫苑の顔は画面に向けられていて、回り込まない限りは表情が伺えない。
……見せてほしいな。欲がうずいて、曲が終わると同時に私は重ねた手を離した。
「せ、」
立ち上がって、紫苑の左側に回り込む。その頬は真っ赤に染まっていた。
覗き込まれるとは思っていなかったのか、紫苑はあわてて顔を伏せる。
「しーちゃん、逃げないで」
その場にしゃがみこむ。
構図的に落ち込んでる子供に声をかける大人みたいになっちゃったけど、さすがに少女漫画みたいな顎クイはできない。がっついちゃだめだめ。
膝の上で丸まっているふたつの握りこぶしに、私はもう一度手を覆い被せた。
「せっちゃん、あの、私……」
その先の言葉をためらうような、辿々しい声が紫苑からこぼれる。床すれすれにつく、小さな足が震えていた。
なあに? と柔らかい声で尋ねる。
「友達……は……嫌」
「さーせんした」
非情な現実に打ちのめされるがまま、私はその場に土下座した。
うん、ですよね。知ってたさ。
けど、これ以上こじらせるくらいならここで後腐れなくふられたほうがいい。
床を磨く勢いで額をこすりつける。
「あの……なんで土下座?」
「すんませんまじ調子こきました夢見がちにもほどがありました」
「いやだから、調子こいたって何が」
でも、お気持ち述べる前にまずはお礼言わないと。
「えっと。きっぱり言ってくれてありがとね」
「だから何を」
「見事なフりっぷりだったこと。もうばっさりで惚れ惚れするくらい」
「……え?」
そこからは蛇口を捻ったようにつらつらと、溜まりに溜まった巨大感情が声になって流れていった。
「もうこの際だからぶっちゃけるけどー、私まだしーちゃんのこと諦めきれなかったの。ずーっと。彼女つくってもずーっと忘れられなくて。やばいでしょ。笑うとこだよ。友達に戻ってもやっぱり気持ち変わんなくて、頑張って頑張って我慢してたけど。してたんだよ。でもなんか、もう限界なの。やなの、しーちゃんが他の子のとこ行くって考えただけで。笑いなよ。だから今ここで全部ぶちまけようと思った。そんだけの話なのです」
一気にまくし立ててぜえぜえと息を吸う。呼吸忘れてて酸欠になるとこだった。
吹っ切れた後は謎の清々しい空気が胸を突き抜けて、私の中の爆風は過ぎ去っていた。
訂正、何もかもが吹き飛ばされて虚無になっているだけだった。
「…………」
頭上から紫苑の呆れたため息が落ちて、それから両肩を引っ張り上げられる。
紫苑の筋力的にブラウスが伸びるだけで持ち上がらなかったから、とりあえず上体を起こした。
「顔、上げて」
「あ、うん……ごめん」
そりゃそうか。合わせる顔がなさすぎてうなだれてたけど、いくらフラれた直後でも目すら合わさないのは失礼だよね。
乱れた前髪を手で梳いて、ちょっとにじんでいた目元を拭う。
恐る恐る反応を待つと、紫苑は申し訳無さそうに頭を下げてきた。
「えっと、紛らわしい言い方してごめんなさい」
すでに切れ味抜群だったと思うんだけど、まだ脈アリの余地を残す言葉なんだ……
でも、紫苑からすれば友達だと信じていた人に裏切られたわけだし。甘んじて受けるべきだ。
「もう一度言うね」
「お手柔らか……じゃなくて手荒になさってください」
「……わかった。じゃあ、手を出す」
出すって、ビンタの一発でもくれてやるってこと?
身構えていると、やがて紫苑の手が頬に近づいてきた。
つぶりそうになる瞳を逸らさず、真正面から見据える。
「……っ」
あれ? 威力加減しすぎじゃない?
これじゃ、叩かれたじゃなく添えられたってレベルなんだけど。
なにか突っ込もうと息を吸った口が、次の瞬間、塞がれた。
すごく柔らかいものを押し当てられて。
…………え?
それが何かは分かっていたけど、あまりにも現実味がなさすぎる感触と光景に思考が働かない。
「私も、友達のままじゃ、嫌だ」
熱い吐息が前髪を揺らす。
畳み掛ける声と一緒に、もう一度紫苑が触れてきた。
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