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恋人編
37.ずっと。誰よりも
目の前に夢みたいな現実が広がっている。
紫苑の香り、紫苑の柔らかさ、紫苑のぬくもり。最愛の人から与えられる、甘く鮮烈な感覚。
思考が溶けて、視界が白くかすんでいく。
「あ、う」
先に音を上げたのは紫苑だった。
私の肩を掴んでいた両手がずるりと落ちて、よろめく。とっさに腕を伸ばして身体を支えた。
前屈み座りってやりづらそうだもんな。や、体格的にどっちかが無茶しないと同じ目線にならないんだけどさ。
「大丈夫?」
「腰、抜けた……」
目線をそらして、紫苑は潤んだ瞳で放心している。私の腕の中で、くたりと体を預けて。
無防備で、たまらなく愛しい。
また、したくなる。
目線を下に傾けると、紫苑ががばっと口元を覆い隠してしまった。なんでや。
「今日は終わり」
「回数制限2回ですかい」
「これ以上は、その、立てなくなる」
そうなっても構わないのに。私が抱えるから。
台詞も仕草も凶悪で、余計に押し倒したい気持ちに火がついていく。
でも、親しき仲にもなんとやらで節度はわきまえないといけない。付き合い初日からホテルに連れ込もうとする奴と一緒にはされたくない。
わかった、と短い一言で切り上げようとすると。
「……べつの日なら変動する、かも」
次の機会を設けてくれていることに、心臓が不意に跳ねる。
……そっか。そうなんだよね。つまり、そういう仲に変わったんだよね。
振り返ればめっっちゃすれ違ってたけど、結果的にこうなったってことは紫苑も同じ気持ちを抱えていたということになる。
唇への生々しい感触は今も残っている。胸の下あたりには、どっどっと速く刻まれている、自分のものではない鼓動を感じる。
紫苑は恥ずかしそうに顔を覆っているけど、隠しきれなかった耳元は真っ赤に染まっていた。
それが紛れもなく彼女の本心なのだと、すっと信じがたかった意識が塗り替えられて胸に落ちていく。
確信できたのであれば、いま言うべきことはひとつしかない。
「しーちゃん」
ささやいて、そっと紫苑をソファーに座らせる。
隣に腰掛け、両手を軽く握った。仕草で察したのか、紫苑の肩がわずかにこわばる。
「今でも変わらない。ずっと。誰よりも君が大好き」
「……私も」
「付き合おうか、私たち」
はい、と大きく頷いた紫苑の頭を抱き寄せた。
ヘアオイルの甘い香りに包まれて、心臓が過労死直前なんじゃないのってくらい激しく脈を打つ。
取り込んでる気がしない酸素の代わりに、重く昂ぶった疼きが胸を満たしていく。
幸せ。
日常から久しく遠ざかっていた二文字が、ふわりと心に舞い上がる。いくつもいくつも、あふれて語彙を失っていくほどに。
あー、声が震えないでよかった。
はっきりと交際の意思を伝えられたことに、力が抜けていく。紫苑に覆いかぶさりそうになったため、びっと背筋を伸ばした。
好きな人にキスまでさせておいて。告白くらい私からしなきゃ、格好悪いにもほどがある。
紫苑の言葉を最後まで聞かずに、勝手にフラれたと決めつけた。
やけくそになって告白にもならない暴露話をぶちまけた。
フラれる覚悟はあったはずなのに、嫌われるのが怖くてあんな醜態を晒してしまった。だっさ。別の意味で悶絶しそうになる。
それは、そうと。
「……やっぱり、したい」
未練をこぼして、紫苑の長い黒髪を梳く。胸に埋まっていた紫苑の頭がびくっと震えるのがわかった。
自重しろって分かってても、されっぱなしってのは女がすたる。してくれたから返してあげたいだけだ。
少し身体を引いた紫苑が、ずいっと私を見上げる。恥ずかしさを湛えた瞳が揺れていた。
「……だめ?」
ダメ押しで首をかしげて眉根を下げると、『……ずるい』と紫苑が唇をへの字に結ぶ。君のその顔もずるいと思うんですけど。
「じゃあ……こっちにして」
小声で、にゅっとふくよかな手の甲が突き出される。
うーむ、やっぱり顔は駄目か。譲歩してくれただけ嬉しいことではあるけど。
「ここならひとりでしたくなったときにできる……から」
「も~、そうやって意味深な台詞に乗せる~」
唇は2回が限度なのに自分でするのはいいんかい。
あんまり、かわいいことを言って畳み掛けないでほしい。止まらなくなりそうだから。
本心を隠して、私は紫苑の華奢なおててを取った。一応、するわけなんでかしこまった台詞を口にする。
「これから、よろしくお願いいたします」
「はい。こちらこそ」
なぜか律儀にお互い頭を下げて、唇を寄せる。
ちっちゃくて、すべすべ。触れた先から瑞々しい肌の感触が伝わってくる。
……なんか、口にするよりもいけないことをしている気分になってきた。
「キスマークついたらどうしよって思ったけど、大丈夫だったわ」
「せっちゃん、こういうの慣れてると思った」
「漫画とかではよく見るけどねー。リアルじゃする側もされる側もメリットないし。やったことないよ」
依然として、紫苑の手の甲は白いまま。だいぶ強く吸わないと残らないものらしい。
って、この雰囲気に過去の女を匂わせる発言はまずったな。
こわごわしながら紫苑の顔色を伺うと、意外なことに口角は上がっていた。
愛しいものを見つめる熱を帯びた瞳で、手の甲をじっと眺めている。え、どこがご機嫌ポイントだった?
「こっちは私が初めてになるってことだから」
今日一番の笑みを浮かべて、紫苑は見せつけるように私が触れた箇所へと唇を落とした。
なお、これ以上は私のあれやこれが持ちそうになかったため。まだ時間はあったけどカラオケルームを出ることにした。
藍色がにじみ出した夕焼け空の下、薄暗い地上はあらゆるものが黒い影に染まりつつあった。少し寒いくらいの夜風も、熱のこもった身体には心地よく感じる。
店から出てすぐの場所に伸びている横断歩道を渡り、大通りから閑静な路地に入る。遠くには紫苑の住む公営住宅が見えた。
家まで5分ほどってとこか。延長までして紫苑と2人きりでいたのに、あとちょっと歩けば解散してしまうということに名残惜しさを覚える。
少し歩くペースを落として、大きく肩を落とした。
「あー、フルで仕事いれるんじゃなかったなー」
せっかくのGWなのにデートもできないって、すごく勿体ないことをした。唇を尖らせ、足元の小石を蹴る。
「逆に聞きたいけど、どうしてみっちり働こうと思ったの? あんまり入れすぎると”103万の壁”に引っかかるわよ」
「そりゃー、できるだけしーちゃんの傍にいたかったし。あとバイト代弾むし」
嘘は言ってない。
普通に遊びに誘えばいいのに、と紫苑は疑問が抜けていない顔をしていたけど、今はなんにでもお金がかかる時代だ。
高校生の懐事情的に、ぱーっと遊べるような価格設定ではもうなくなってるんだよね。
「そうね……」
熟考するように唇を引き結んでいた紫苑が、やがてひとつの提案をした。
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