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38.嬉しさを噛み締めて
「じゃあ……おうちデートっていうの、する?」
前を歩いていた紫苑が振り返った。
組んだ両手を後ろに回して、おずおずと小首をかしげて聞いてくる。
可愛い。って声に出てしまった。
デートって改めて声に出されると、だいぶ破壊力が増すね。
「それはどうも……」
「かわいい~」
「せっちゃん、明日は14時までのシフトよね?」
2回めはさすがにスルーされたか。
私に向き合いながら、丁字路で紫苑が足を止める。
「そっすね」
「夜までの間、どっちかの家で小一時間ほど遊ぼうって話。……疲れてなければ、だけど」
「彼女からのはじめてのお誘いを断るわけありませんよ」
無駄に意味深な言葉に乗せると、『……まだ襲わないでね』と微妙に目を細められた。
妄想の余地がある返しも可愛い。もう紫苑かわいいbotと化してるな私。
「それで、どっちの家にする?」
「んー、迷うな」
しょっちゅう行ってたし、正直どっちでもいい。
おうちデートの定番と言えば映像鑑賞かゲームだろうけど、紫苑は何をして遊びたいんだろう。そう聞いてみると。
「強いて言うなら。だけど」
「うんうん、何?」
「なずなちゃんを触りたい」
「そう来ましたかー」
紫苑は住まいの問題で猫を飼えないからなあ。
野良猫は基本懐かないし、イエネコも甘えるのは飼い主限定って子が多い。
触らせてくれる猫ってのはたいへん貴重なのだ。
……分かってたけど、形式上はデートだから猫に負けた気がする。ペットに張り合ってどうするんだか。
「でも、正直に言えばなんでもいい」
私の心を見透かしたように、紫苑が一歩距離を詰めた。
薄く笑って、上目遣いで視線を合わせる。
「せっちゃんとの時間を独り占めできるってことだから、なんでも」
「…………」
今度は可愛いという言葉すら出てこなかった。
どんどん暗くなる外に反するかのように、紫苑だけに後光が差して輝き出す。ように見える。
生きてますかー? と紫苑が二の腕をつんつん突いてくるもんだから、余計に声が出てこない。
うちの彼女は定期的に殺しにかかってくるな。
「あんまり別れが惜しくなるようなこと言わないでくれよ」
それだけを絞り出して、紫苑の手を取る。
指をしっかり絡めて、きゅっと握りしめた。
って、今度は紫苑が固まってしまってどうしましょ。なんか心ここにあらずって感じの遠い目してるし。
やべ、柄にもなく臭い台詞吐くなよって引いてるとかじゃないよね。
さっきの忘れてって補足すると。
「やだ、忘れるわけがない。嬉しさを噛み締めていただけだから」
「そ、そうですか……ポジティブに受け取っていただけてるなら結構だけど」
「それより、このつなぎ方って想像以上に照れるね」
あ、そっちですか? 絡めた指に視線を落として、紫苑の頬がうっすら赤くなっている。
「じ、実は。まだ夢にいるみたいで」
「それは……確かに」
「だよね。だからこ……こういう仲でしかできないこと、やって。ちょっとずつ現実だって体に言い聞かせてこうかなと」
ごめん、人目がある場所でこ……こい……び……繋ぎをできただけで私のHPは瀕死寸前だ。
過去の彼女にもやってきたことなのに、関係性を言葉にするくらいなんでもなかったはずなのに。
紫苑といると、自分までうぶだった頃に戻ってしまう。
そうやってもじもじしながら歩いているうちに、足は公営住宅の前まで来てしまった。
名残惜しいけど、明日はデートなんだから我慢しろと言い聞かせる。
「それじゃ、バイト終わったら連絡するね」
「わかった。また明日」
そっと、絡めていた指をほどいた。
漫画やドラマとかだと別れ際にキスやハグは定番だけど、今は帰宅ラッシュ時と重なっている。
背後の薄暗く狭い歩道はぞろぞろ、人が絶えず歩いているのが見える。
人目のある場所でやる勇気がでないというよりは、照れる紫苑を不特定多数に見られたくない。
手を振ると、『ちょっと待って』と紫苑に呼び止められた。
「はいはい、どした?」
「えっと、ちょっと屈んで。私の目線より少し下くらいで」
言われた通りに上半身を曲げ……たんだけどちょっと屈む程度では紫苑より頭が下にならない。
身長差がこんだけあるとこういう弊害もあるのね。
仕方なく、犬のおすわりみたいにその場にかしずく。傍目からだと許しを請う絵面に見えてそうね。
「……これでもいいですか?」
「そうなるか……仕方ない、いいよ」
いいらしい。そして何をするつもりなんだろう。
まさか紫苑からしてくれるのだろうか。でも、ちゅーは今日のぶん終わっちゃったしな。
期待に胸を躍らせていると、やがて頭上に紫苑の掌が降りてきた。
「お仕事、がんばって」
控えめな、でも温かい声でつむじあたりが撫でさすられる。
撫でたことはあっても、人に撫でられるなんて何年ぶりだろう。
愛する彼女から与えられる優しさに、下心ありきの想像しかできなかった胸の内が浄化されていく。
やがて紫苑の指が離れて、ほへーと気の抜けた声が空気みたいに漏れた。
腰を上げて、感謝の意を伝える。
「しーちゃん、好き」
ありがとうでも頑張れそうでもない本音が出てしまった。『ついでにまたね』と取ってつけた挨拶をおくる。
「う、うん。じゃあ…………あと、好き」
最後のほうは小声でかろうじて聞き取れる程度だったけど、私が紫苑の言葉を聞き漏らすわけがない。愛の台詞ならなおさらだ。
これ以上顔を合わせていたら変な空気になりそうだったので、切り上げるべく一歩下がって踵を返した。
何歩か進んで、後ろ髪を引かれる思いからやっぱり振り返ってしまう。
遠くにはまだ、立ち尽くしている紫苑の姿が見えた。
気づいた紫苑が、顔の横で控えめに手を振る。
あー、かわいいなあ。
すっ飛んでって抱きつきたくなる衝動をこらえて、『またLINEするからー』と声を飛ばす。
届いたのか、ぺこっと紫苑が頭を下げたのが見えた。
「ただいま」
鍵を開けて、薄暗い玄関に入る。
返ってくる声はない。車庫には姉の車があったし、台所からは換気扇の回る音となにかを茹でている沸騰した水音がする。
にしても姉、今日はずいぶんと帰るのが早いな。
階段をあがってすぐの場所にある、自分の部屋に向かう。
着替えていると、奥から人の声らしき甲高い音が聞こえてきた。
発生源は………たぶん、姉の部屋だ。
声の小さい姉が聞こえるように喋るとは思えないから、あそこに母もいるのだろう。
このふたりの組み合わせ的に、あまり明るい会話をしているとは思えなかった。
『この先どうするつもりなの。なにか言いなさい』
ほらやっぱり。滅多に声を上げない母の大声が鼓膜を揺らして、びくっと心臓が縮こまる。
自分に向けられているものでなくても、他人の激情は気が滅入るものだ。
予想が当たっているなら、いつもよりずいぶん早い帰宅にも納得がいく。
さっきまでの楽しい気分が薄れないうちに、私はLINEを起動した。
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