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40.【紫苑視点】その頃から私は彼女に惹かれていた
この夢は、過去の追体験なのだろう。
見下ろした先には、氷枕に頭を預けて眠る幼い私と、膝をついてじっと見つめる母親の姿が見える。
年齢的にはまだ30代のはずなのに、頭は白髪だらけで手は荒れて血管が浮き出ている。
記憶から薄れているためか、母親の顔面はぼやけてのっぺらぼうのようにはっきりとしない。
『ねえ、なんで?』
手にした携帯電話に、母はそう文章を打ち込んだ。
声に出せない本音をSNSで発散しているのだろう。
熱を出すといつもより親が優しい、なんて思い出を持っている子供は幸せだと思う。
それが日常茶飯事となれば、どんな仏の如き人間だって疲れてくるに決まっているのだから。
病児保育だって定員があるし、感染症の場合は預かってもらえない。
いつも頼れるとは限らないのだ。
『3連休、ずっと元気だったでしょ? 無理させないように、予定全部キャンセルして家にいたのに。なんで明けた途端にまた熱出すの? わたしだって風邪気味で、寝ていたいのに。また仕事休まないといけないし、また陰でねちねち言われるし。いつになったら看病から解放されるの?』
文字を打つ人差し指が次第に荒々しくなり、どすどすと画面に叩きつける音が響くようになる。
声を押し殺して、母は肩を震わせていた。
記憶にある母は、一度も怒鳴ったことがない穏やかな人だったと思う。
帰省先に親戚と向かう途中、私の高熱により我が家だけ途中帰宅しても。
父の滅多に取れない休みの日、家族でお出かけ直前に胃腸炎がぶり返しても。
母の友人とのランチを何度も私の看病で潰して、最終的に縁を切られたときも。
『仕方ないね』と母は苦笑いを浮かべて、汗ばんだ私の体を拭いてくれた。
母が影で泣いていることは知っていたが、職場のストレスだろうと思っていた。
だが。
たとえ親であれど、いつまでも傍にいてくれる保証なんかどこにもない。
『人間失格でごめんなさい だけどもう、すべてに疲れてしまいました』
ある日。
たった数行の書き置きを残して、母は少しの荷物とともに行方をくらました。
久々に登校できた学校から、帰ってきたときのことだった。
頻繁に休む母の尻拭いをする、他社員からの悪口と仲間はずれ。
朝早く夜遅い夫には頼れないがゆえの、過酷で孤独なワンオペ育児。
しょっちゅう体調を崩す私の看病疲れ。
これらの要因が重なった末に、こころが限界を迎えてしまったのだという。
だが、当時の私が理解できるはずもない。
きっと、お母さんは一時的に家出をしているだけなんだ。
休んで元気になれば、そのうち戻ってくるはず。そう、楽観視していた。
だけど、何日夜を明かしても母が帰ってくることはなく。
やがて送られてきた”離婚届”の紙切れと、母の知人が特定したSNSのアカウントと、はじめて見る父の泣き顔に。
私は、神様なんていないんだと悟った。
ついに見せることの叶わなかった満点のテスト用紙をびりびりに破いて、言ったこともないひどい言葉を紙屑に浴びせ続けた。
次から次へと、涙と一緒にあふれて止まらなかった。
「…………」
ゆっくりと頭を起こす。
どうやら、ワークブックに突っ伏して少し眠っていたらしい。
感傷に浸っている暇はないのだ。
何をせずとも等しく明日はやってくるのだから、溜まっている家事を片付けなくては。
夕食は炊飯ジャーにご飯が大量に余っているため、全部炒飯にすることにした。
ボウルにご飯と溶き卵とごま油を加え、まんべんなく和える。
邪道と言う人もいるけど、これが一番フライパンにくっつかなかったのでこのレシピでいつも作っている。
思えば、炒飯がいちばん最初に作れるようになった料理だった。
母親みたいにパラパラの出来栄えにならなくて、何度コゲまみれのべちゃついた焼き飯を生成したことか。
ほぼ毎日食卓に並んでいた失敗作を、嫌な顔ひとつせず食べてくれた父には感謝しかない。
「炒飯、今日も美味しくできたよ」
話しかけるように声に出す。
どうせ今日は1人なのだから、何を言ったって誰も叱りやしない。
吹っ切れると、言葉が次々と浮かび上がってきた。
「熱、ここ2年近く出してないの。丈夫になったでしょう」
「最近バイト始めた。飲食って言っても、きっと信じてくれないわよね」
「お父さん、餃子もやっと焦げ付かず焼けるようになったんだ」
「……ちょっとずつだけど。迷惑をかけない大人を目指して頑張ってる。できることを、どんどん増やしていけるように」
相手のいない会話は独り言となって、静かなキッチンに溶け消えていく。
虚しさに胸が詰まる。
どんなにあの頃とは違うのだと主張しても。
いちばん助けたくていちばん話を聞いて欲しかったその人は、永遠に帰ってこない。
……まだ、そんなに遅い時間じゃないよね。
食器を洗い終えて部屋に戻った私は、充電していた携帯電話を手に取った。
『電話していいですか』とLINEにメッセージをおくる。
『どうしましたー?』
既読がついたと同時に、芹香が電話をかけてきて驚いた。
私からかけると言ったんだけどな。
「こ、こんばんは。……数時間ぶりだけど」
『はいこんばんはー』
「反応早いね」
『正直に言うと、連絡こないかなーってちらちら確認してた。スマホ依存症ばりに』
だから願いが通じたみたいで嬉しい、とおどける声にふっと笑い声が漏れる。
芹香は付き合うのがこれが初めてではないのに。
想像して、じわじわと嬉しさを噛みしめる。
『それで、なんか御用ですかい?』
「いえ、これといって用はない、のだけど……」
ただ、独りの寂しさを紛らわせたかった。
一晩付き合って、とは言えないから。せめて声だけでも聞きたくて。
今日あれだけ話して密着して、明日もそうなる予定なのに待ちきれなかった。
『あらー、嬉しいこと言ってくれるじゃないの』
「……呆れない?」
『だから、電話していいかって確認とってきたんでしょ? 付き合いたてはみんなそわそわしているものだし、むしろ可愛いと思いますよ』
さらりと与えられる言葉に、熱いものがこみあげてくる。
同時に、やっぱり女の子の扱いに慣れているんだなと複雑な感情が胸に入り交じる。
尖ろうとする唇を押さえて、『ありがと』と控えめに返した。
ふと、昔の芹香もこんな感じだったことを思い出す。
否応無しにはじまった、母のいない生活。
父も私も、あの日のことは口にせず黙々と暮らしていた。
だけどある日、父がどうしても帰れない日があって。
私は1人でも大丈夫だと強がりを言ったけれど、寂しくないと言えば嘘だった。
そんなとき、事情を知っているわけでもないのに芹香は偶然切り出してきたのだ。
『今日、うちでお泊り会しようよ』
その言葉が、どれだけ嬉しかっただろう。
一緒の布団に入って、なんでもないことを朝まで話し込んで。
明日も平日なのに、お互い徹夜なんて気にならなかった。
芹香がいなければ、私はとっくに孤独で駄目になっていたかもしれない。
きっと、その頃から私は彼女に惹かれていたのだろう。
なんて、恥ずかしくて言えないけど。
『また、気軽に連絡してきてよ。しーちゃんの声なら、いつでも聞きたいから』
「……うん、同じことを返すね」
『私、君の彼女だもの』
「うん」
『だから、絶対に離れない』
あのときと変わらない、温かい声。
今は力強く、胸に染み込んでくる。
ちなみにしっかり、『覚えてるよね?』とキスの件の釘を刺されてから目は冴えたままだ。
……果たして寝られるのか、微妙に不安になってきた。
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