恋人編

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44.紫苑が足りていない 「来て早々申し訳ございません、20分ほど遅刻いたします」 「…………はい?」  イナバさんの声の調子が外れて、化け物でも見るみたいに私を凝視する。  いや、私だってこんな初歩的なミスすると思ってなかったんだよ。 「明日は雪崩かもしれませんね。清白さんが制服を忘れるなんて」 「昨日の自分に伝えてもぜったい信じないでしょうね」  とりあえず家にいた姉に連絡して、制服をマッハで持ってくるように頼んだ。ちょうど転活中で助かった。  今日のディナータイムは、私とイナバさんとコモリさんとようやく復帰した店長。  今週のシフトはぜんぜん紫苑と時間帯が噛み合わない。  これまで私と紫苑のシフトが重なることが多かったのは、店長の計らいでもあったのだろう。  職場への孤立を防ぎ、同時にお友達ではなく仕事の同僚として接せるかのテストも兼ねて。  職場環境に慣れたら、いつまでも仲のいい人とだけ組ませるわけにはいかない。  社会はチームプレイであって、どんなに苦手な人とでも態度に出さず仕事はこなさないといけないから。  分かっては、いるけど。  スタッフルームに留まってるのも気まずいので店の外に出て、駐車場の出入り口付近に立つ。  夕暮れ時なのに風は生ぬるく、蒸し暑い。店けっこうクーラー効いてて寒いくらいだったのにもう汗が額に浮いてきた。  植え込みの紫陽花は咲きかけていて、黄緑色の花弁がほころんでいる。  5月って屋根より低い鯉のぼりが片付けられたら、実質6月に入ったようなもんだよね。  暇つぶしに立ち上げたスマホには、新着メッセージが届いていた。  上里先輩からだ。珍しいな。  『朝具合悪かったの? 大丈夫? あと勧めてくれた漫画買ったけど噂に違わぬクズ百合で脳破壊が』  ……オタトークしたかったから送ったような文面だな。『今カノに頑張って再調教してほしいですね~』と返しておく。  結論から言えば私は朝、寝坊した。  スマホの必死のアラームも虚しく、気づいたときには始業ベル10分前だった。  姉をタクシーに使って授業までには間に合ったものの、早朝に実施していた学級委員の活動は完全に寝過ごしたことになる。  サボりを疑うのではなく体調不良なのかと、先生や委員会仲間が次々に心配してくれて良心が傷んだ。  上に立つもの、模範的な生徒であらなくては示しがつかない。  だから忘れ物や遅刻といったイメージダウンにつながるミスには十分注意していたはずなのに、一日に2件もやらかすとは異常だ。  心当たりは、ひとつ。  紫苑が足りていない。  何言ってんだこいつと自分でも正気を疑うけれど、GWが明けてからは紫苑と触れ合う機会が急速に減っていた。  委員会、バイト、いつメンのGWのお誘いをバイトで断ったぶんの埋め合わせ。いろんな予定がスケジュールを埋めて、紫苑との時間はことごとく潰れていた。  おかげで四六時中彼女のことばかり考えているし、こうして日常生活にも深刻な影響が出てきてしまった。  早急に減ったぶんを充電しないと、色ボケがただのボケ、いや腑抜けになってしまう。  もはや一刻の猶予もない事態に、急遽紫苑を呼び出すことにした。  初めてのプレゼントとして買った、あのリップを忘れず塗って。  指定した屋上前階段へと、LHR終了後すぐさまふたりで速歩きで向かう。  屋上へ続く扉は施錠されているから、階段からは死角になる踊り場に立って。  ここの階は使われている部屋が図書室くらいだから、常に閑散としている。  共学なら絶好のスポットってことで先客カップルがいたかもしれないけど、女子校だから鉢合わせる可能性も低い。 「というわけでして。強引な形で申し訳ないけど」  手を合わせて詫びる。  我慢の限界だからと忙しい合間に誘うなんて、出張デリヘルと変わらないいかがわしさだ。  けど、もう一日も待てないというのも本音だった。  ほぼ毎日LINEしているのに、一緒に登校する日だってあったのに。目の前にいる彼女が1年ぶりに会ったかのように錯覚する。堪え性なさすぎだな。 「別にいいわよ。密会と考えれば」 「い、いけないことをするためだけに呼び出したんじゃないからね? ただ2人きりになりたかっただけで」  いきなりってのも身体目当てっぽく思われそうでアレなので、まずは軽い雑談から切り出そうとしたんだけど。 「取り繕うとしなくていい。待てないのは、私も一緒だから」  鼻先まで距離を詰められて、早くなさいとネクタイを引っ張られた。  目の前の桜色の唇に視線が引き寄せられて、目が離せなくなる。 「……今日はじめて塗ってみた。ど、どうですか」 「え、今日? 開封してなかったの?」  届いてからそれなりの日数が経過したけれど、紫苑は『私とするとき』用のリップだからその機会が来るまで未開封のまま持ち歩いていたらしい。  今すぐにでも奪いたい気持ちを押さえて、感想を述べる。 「似合ってる。すごく。誰にも見せたくないくらい」  一ミリも嘘はない。  素の色に合わせたから透明感が引き立ち、うるおいを湛えた艶めきは可愛いと綺麗が同居している。  美人はリップひとつで美しさを十分際立たせるっていうけど、いまの紫苑からは妖しい色気すら感じる。  普段使いにしてたら人が振り返るレベルで目を引きそうだ。 「せっちゃんも……その……なんか、すごい」 「すごいって?」  質問には答えず、紫苑から唇を寄せてきた。  人目につかない場所とはいえ、校内に遠慮したのか触れるだけのキスが離れていく。 「こうする、くらい」  か細い声と熱い吐息が届いて、私の中の何かが弾けた。 「まだ行っちゃだめ」  肩をぐっと掴んで、もう一度口吻を落とす。  今度は、じっくりと。  久々のふれあいを堪能するように、これまで足りなかったぶんを補充するように。  もっと、進みたいと思う。  どんな顔をするのか、まだ知らない彼女の表情を引き出していきたい。  ぜんぶ、見せてほしい。 「……っ」  舌先を突き出し、リップに艶光る下唇に触れた。  驚きに紫苑の目が見開かれて、視線があちこちをさまよう。  まだ、入れない。かするだけ。  名残惜しくゆっくりと口角をなぞって、柔らかさと温かさを与えていく。  味なんてしないのに、甘さをほのかに覚えた。  静かに顔を離す。  放心している紫苑に、おーいと目の前で手を振った。やば、やりすぎたか。 「ごめん。まだ早かった……ですよね」 「いえ、そうじゃなくて……頭がふわふわして戻ってこれなくなってる」  本当に力が抜けてしまったのか、ぽすんと紫苑の頭が胸元に寄りかかってきた。  このままお持ち帰りしたいくらい可愛い。嫌じゃなかった、なんて補足されたらまたしたくなってしまう。  疼きそうになる煩悩を皮をつねって鎮める。  けど、学校だしまだキスも数回目だし先急ぎすぎたな。  付き合ってひと月くらいしないカップルもいるんだし、もう少し清く正しいおつきあいをするべきか。  紫苑にそのまま伝えてみると、意外な申し出があった。
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