恋人編

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49.愛と性欲  ひとりで過ごす放課後って、ずいぶん久しぶりだ。  委員会の先生には事情を説明し、バイトも今週からシフトはだいぶ減らしてもらった。  イナバさんも最近の私を見てか『慣れてきたと思ってる今がケアレスミスしやすいから気に病まないで』と気遣ってくれた。まさか恋煩いとは言えず胸が痛い。  いつメンにも正直に打ち明けると、彼氏ができたのかと勘ぐられた。  真面目なイメージで固定されていた人が腑抜ける要因は、ぜったい男が絡んでいるだろうと。  ぐっ、鋭い。『推し活を始めた』とでっちあげておいたから別のイメージがつきそうだけど。  意外と、まわりは見ている。  私の生活態度が怠惰になっていることに。  上に行く人は、それだけ見られる目が増えるってことだもんね。  結果的に紫苑との時間は減っているし、恋に浮かれた代償は大きかったよ。  補習の会場は生徒指導室ということで、1階廊下を私は歩いていた。  職員室や保健室がある通路で、ほとんどここは通ったことがない。行き交う生徒もまばらだ。  教室内は蒸し風呂だった。  むわっと包み込むような熱気と、木のこもった匂いが鼻を突く。  5月でこれって、真夏とか授業になるんだろうか。  こんな室温の中先客がいるはずもなく、速攻でカーテンを閉めてエアコンの電源を入れた。  下品に胸元のブラウスをばたばた仰いで、吹き出してくる汗に風をおくる。  放課後の教室や図書室で自主勉するならともかく、わざわざ居残り授業を受ける生徒なんてどれだけいるのやら。  先生とのマンツーマンも家庭教師みたいで嫌いじゃないけど。  着席して待っていると、戸が開く音がした。  教師ではなく、生徒。  二人組の顔に見覚えはない。上履きのゴム部分の色が違うから先輩だろう。 「げ」 「うぇ」  次に入ってきた小柄な女子と目が合って、お互い女にあるまじき声が出る。  窓際に座っていた二人組が不意に視線を投げて、気まずさから顔を伏せた女子がすすっとこっちに歩いてきた。  ふたつに編んだ髪を揺らして、私の隣の席へ筆記用具を置く。 「座るんかい」 「べつにいいでしょ。いまは友達なんだし」  かろうじて聞き取れる声量で、女子が耳打ちしてくる。  顔が近いから誤解を生みそうだけど、この子はもともと小声だから仕方ない。 「で、なんで委員長様がここに?」 「信じてもらえないだろうけど、中間全教科赤点すれすれで」 「うっそだぁ。教科書パラ見を試験勉強とか言ってたあの芹香が」  女子が吹き出した。  おさげに眼鏡といったお堅そうな見た目に似合わぬ、砕けた口調と屈託のない笑顔。  少し前までは心が疼き立っていた表情だ。  黒縁の重そうなメガネフレームを上げて、女子が頬杖を付く。 「ちなみにわたしは、授業についてけなくて担任から強制された」 「やばいじゃん」 「ほんとね。自分の学力に見合ってないとこに無理して滑り込むと、いずれこうなるんだね」  声が詰まる。その原因となったのは、私にあるから。  ごめん、と言う前に全然引きずってもないからこの話題スル~、と手を振った女子に断ち切られた。 「なんだかんだで女子校楽しいし、やめるまではいかないから。芹香についてきたこと、後悔してないよ」 「そっか。お互い頑張ろうね」  まさか、ここで元カノと会うなんてな。  喧嘩別れとかもなくこうして友人のような距離感に戻ったわけだから、かなり特殊なパターンだろう。  別れた理由はなんてことのない、セクシュアリティの違い。  性愛対象が一致してもセクまで一致しているとは限らないんだよね。  アセクやアロマって言葉をそこで初めて知った。彼女は前者だった。 『好きだけど、ごめん。応えられなくて』  私の家でいい雰囲気になって事に及ぼうとしたところで、女子はやっぱりその気にはなれないと泣きながら謝られた。  昔から行為そのものへの不快感があって、ゆえに男子は性欲の権化としか見れず興味は同性に移っていった。  だけど同性愛者と自覚したうえでなお、女とすることも拒否反応が出てしまったと。  自分が我慢しつづければ、この人と今でも続いていたのだろうか。  けど、愛と性欲を私は切り離すことはできなかった。心から愛しているなら、しないなんてありえない。  どっちかが妥協しないことには関係は維持できない。  染みついた価値観というのは、人の道を外れていなければ咎める権利はないのだ。  なので結論は、距離を置くことしかなかった。  これが性の不一致というものかと、TVや雑誌で目にしていた言葉の意味をここで実感する。 「それ、虫刺され?」  女子が自身の胸元を指差す。  こんなとこ蚊に食われたっけと視線を傾けて、それが紫苑がつけた痕を指していることに気づいた。  うわ暑いからってシャツのボタン無防備に外してたのがまずったな。 「ち、ちがうよ」 「そう? さっきからしきりにさすってるからかゆいのかと」  ひええ、つけてくれたのが嬉しいからって無意識にやっていたらしい。  この子がキスマークを知らなかったことに心底安堵する。  だらだらと吹き出してきた冷や汗をハンカチでぬぐう。シャツもきちんとボタンを留めた。 「あ、そうだ」 「?」 「名前呼び、やめたほうがいい? そう呼んでいいのは彼女くらいでしょ」  女子が切り出してきた。  友人同士で名前呼びは珍しくもないし、そこまで気にならない。  けど女子の中ではそうではないらしく、私に話しかけてきたのも呼び方を改めたかったかららしい。 「いまさら名字呼びに戻すのも抵抗あるし、無難に愛称にしようかなと。だからご本人に許可をいただきたく」 「君が変えたいなら好きに呼べばいいけど……どういうの?」 「せっちゃん……とかでどうですかね」 「ごめん却下」  思った以上に硬く強い声が出てしまった。  これそんなに嫌なあだ名だった? と女子が不可解そうに首をひねる。 「うん、ダイコンのほうがマシかな」 「なんじゃその基準は」  女子が肩を揺する。今までだったら気にならず許可を出してたかも知れない。  けど、このあだ名は紫苑にあげたものだから。呼んでいいのは彼女だけだ。 「ダイちゃん……これも死を連想する意味であかんな。なんか候補ある?」 「オオネさんでいいよ。いちばん多く呼ばれてるから」 「他人が聞いたら誰を指してるかわかんないだろうね」  バイト先の通名を知ってて助かった。  まとまりかけたところで教師が来たため、お喋りを中断する。  10人にも満たない生徒数の中、放課後の授業が始まった。 『オオネ、おーね、お姉さん』  始まって30分ほど経過したところで、女子が会話を文字にしたページを見せてきた。  早くも愛称が二人称に変わろうとしているんだけど。 『ちゃんと聞いてなよ』 『ごめん やたらと胸押さえてるのが気になって。やっぱかゆかったらウナクール貸すけど』  ……やっべ、また無意識に指が行ってた。  紫苑とはほぼ毎日LINEのやりとりをしているけど、やっぱり離れている時間は寂しさが募るもの。  彼女もそれを想定して、大胆に痕をつけたのだろうか。  ……癖、直さないとな。心臓が弱い人と誤解されそうだ。
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