恋人編

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51.不純な要求 「そうね」  あっさり、紫苑は頷くと私へと距離を詰めた。  ためらいなくブラウスに指がかかったところで、正気に戻った私は制止するように紫苑の肩を掴んだ。  学校で何をさせようとしてたんだ私は。  キスとかよりは健全だろうけど、やってることは友人同士ですることじゃない。万一見つかったら、言い逃れなんてできない行為だ。 「確かめるんでしょう。私、シールミラー持ってるから。それ貸す」  ……あ、そっちか。  そりゃ、紫苑だってこんなとこで風紀を乱す行為に出るわけないよね。溜まってる影響で煩悩まみれだった己の思考を反省する。  ポケットからスマホを取り出すと、紫苑は私にカバーの背面を見せた。花の形にカッティングされたシールの鏡に、戸惑う私が映っている。 「どもっす……」  あんまり感謝のこもってない口になってしまって、笑みを取り繕ってスマホを受け取った。  させようとしていたことが未遂に終わって、ただ自分で確かめるだけの健全な時間になった。何一つ後腐れのない展開になったはずだ。  自分に言い聞かせながら、ボタンを外して胸元を確認する。紫苑のスマホをかざすと予想通り、痕は消えていた。 「もう、ないね」 「そう」  互いに素っ気ない言葉で締めて、スマホを返した。受け取った紫苑が、なんでもない調子で私に声をかける。 「また、つけようか?」 「ごっふ」  吹き出した。そういう雰囲気は過ぎ去ったと思っていたはずなんだけど、なんでまたぶり返すかなあ。  あー、私が言ったのは『跡が消えているか確認する』までの範囲だったからか。  その先は、こうして話題に出てもおかしくない……はずだよね。  もちろん、断る選択肢なんてない。 「うん……欲しい」 「それは、いつ?」 「ひ、昼休み中……です」 「分かった。いつもの場所ね」  具体的な言葉にしなくても、どこでするかはもう分かってしまう。  中学時代は屋上前でいちゃつくカップルを冷めた目で見てたけど、当事者になった今はわかるよ。どこで2人きりになれそうか、常に考えちゃうもんなんだよね。  必死に上ずる声を押さえつつちまちま弁当を平らげる。  紫苑から振られた昨日のアニメの話題を、頑張って会話を拾って適切な返答を返していく。  はやく、してと。  他愛ない会話でじらさないで、望むものをちょうだいと。不純な要求が湧き上がっていく。  だめだめ、相手の歩幅に合わせて歩かないといけないんだから。がっついちゃいけない。  キスマだって紫苑なりのお守りであって、せっちゃんからもしてとかそういったことは言ってこない。たぶん、紫苑の中ではまだ健全の範囲なんだろう。  そもそも付き合ってまだひと月も経ってないんだし、相手に求めるのは早すぎる。  紫苑は初めてなのだから、今は一般的な付き合いたてのカップルに甘んじてないといけないのだ。 「そろそろ行く?」 「そうだね」  あんまり耳に入っていなかった雑談を終えて、私たちは席を立った。そのまま、ごく自然に紫苑の右手を絡めとる。 「我慢中とはいえ、やっぱり恋しくなってしまいまして」 「もう少しの辛抱よ」  仕方ないなあ、と言いたげに紫苑が目を細める。  これは半分本音で、半分建前だ。  繋いでないと早歩きで階段に向かってしまいそうで、紫苑の右手をブレーキに繋ぎ止めた。  クラスメイトに見つかる不安よりも、がっついてると思われたくない気持ちのほうが勝っている。  どうでもいい世間話をだらだら挟みながら、目的の場所へとついた。  腰を下ろすと、すぐさまその上に紫苑が膝を立てて伸し掛かってくる。 「じゃあ、今日も頑張って」 「……ん」  ひとつ、ふたつ。ためらいなくボタンが外れて、紫苑がブラウスの前を開く。  前の場所よりももっと上、首の頸動脈あたりへ、柔らかい唇が吸い付いてくる。強くすぼめられて、また印が刻まれていく。  彼女のものであることをはっきり身体に遺されていることに、とめどない優越感が沸く。  だけど、その密着もほんの1分ほどで。あっさり紫苑が離れて、『ついたよ』と告げた。 「ありがと。また頑張れそう」  言葉とは裏腹に、下ろした腰が上がらない。それどころか、紫苑の腕を引いて自分から離れないように繋ぎ止めている。  つかんで離さない私に、紫苑が『もう少しつける?』なんて、優しいにもほどがある甘美な提案をする。  端的に言えば、足りない。  我慢せよということは分かっている。そういう雰囲気を出すのは早すぎるということも理解している。  しているけど、止められない。もう少し紫苑を感じていたかった。 「……これで終わりにするから」  腕を引いて、紫苑を胸の中に引き寄せる。  間髪入れず、唇を奪った。強く押し当てて、体温を、感触を、刻みつけていく。  舌を絡ませ腰が抜けるまで堪能していたい欲を、唇だけでなくあますところに残していきたい下心を抑え込んで、ただ、深く口付ける。 「せ、っちゃん」  どれくらい重ねていただろう。  胸をぺちぺちと叩く抗議を覚えて、唇を離した。  荒い息を吐きながら空気をむさぼる紫苑の眉はつり上がっていて、むすっと唇もへの字に曲がっている。  そりゃ、予告なく奪ったら怒るわな。 「ごめん、いきなりで」 「べつにそれはいいけど……もう、言ってくれたらリップつけたのに」  そうだった。そういう約束事すら頭からすっぽ抜けて、ただキスしたいということしか頭になかったよ。  すまぬすまぬとなだめながら頭を撫でていると、険しい表情が徐々にほぐれてきた。しっぽが生えていたらぴんと立ってそうだ。 「でも、なんかせっちゃん上の空だったから我慢してるのかなって気になってた。……これで大丈夫そう?」 「たはは、お見通しだったか」 「だって、付き合い立ててって一番舞い上がっちゃうときでしょ? ストレス溜まってるんじゃないかって……なんか、すごかったもん」 「も、もうああいうふうに奪ったりしないからね」 「べつに、強引なのも嫌いじゃない……から。たまにならいい」  殺しにかかってるとしか思えない台詞を吐いて、言った本人も恥ずかしかったのか紫苑は顔を逸した。  隠しきれてない耳の赤さがたまらなく愛おしく思う。  次はちゃんと言うからとリップに誓うと、塗った状態で今度は紫苑から重ねてくれた。  そんな感じで季節は梅雨へと移ろいでいき、バイト先も模様替えや新メニュー考案といった忙しい時期へと入った。  ここのところずっと、店長とイナバさんは遅くまで話し込んでいる。 「突然で申し訳ないんだけど、お願い事聞いてくれるかな? できればハルちゃんも一緒に」  そしてある日、私は店長から変わった指示を受けたのであった。  ちゃっかり紫苑も巻き込む形で。
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