恋人編

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54.【紫苑視点】したいという感情 「もうちょっとでしーちゃんの服、乾燥するはずだから。そしたら浴びてくるよ」 「そ、そっか」 「その格好でずっといるのも恥ずかしいだろ。なるべく見ないようにしてるから」  ああ、だからすぐに視線を逸したのか。  そこまで分かっておいて一切トーンを変えずに話せることに感心すると同時に、こういうの慣れてるのかな、なんて余計な方向へと思考が飛んでしまう。 「…………」  部屋に沈黙が落ちる。  芹香の気配は完全に私を遮断していて、気軽にお喋りといった空気ではない。  直前の会話から気遣っているのは分かっているが、ここまで無言を貫かれると居心地が悪い。  いったん洗面所に向かい、ドライヤーを取り出した。髪が乾く前に服が乾くほうが早いだろう。 「あれ?」  ヘアケアを終えて部屋に戻ると、なぜか同じくバスローブ姿の芹香がいた。 「まさか、もう浴びてきたの? サイレント入浴にもほどがない?」 「いやいや、あらかじめ脱いでただけ。しーちゃんの服取りに行くついでに自分の出しちゃったほうが効率いいし。あ、服乾いたから渡しておくよ」 「どうも……」  尖りそうになる唇を抑えて受け取る。てっきり着替えた私に洗濯を頼むと思っていただけに、釈然としない。  というか、芹香はその格好で廊下に出れるのか。私に聞かず全部自分でやってしまう姿勢に、言いようのないもやもやが募っていく。  芹香が洗面所へと消えていき、ほどなくしてシャワーの音が耳に届き始める。  いま、扉の向こうでは、芹香が。  頬が燃えて、どうしようもなく鼓動が早まっていく。  聞かなくてもいい音を、拾ってしまう。  してはならない意識をしてしまう。  着替えなくてはならない服に、指が伸びない。正しい選択肢が目の前にあるのに、いずれも選ぶことができない。 「……あれ?」  もだもだ悩んでいるうちに、芹香が上がってきてしまった。  未だバスローブ姿のままでいる私に、さすがの芹香も声がしどろもどろにねじれる。 「あ、えと。下着だけはつけてる。もちろん、せっちゃんの服持ってくるときには着替えたけど。これ着心地がいいから、出るまでこの格好でもいいかなって」 「そ、そっか。暑いもんね」 「気になるなら着替えるけど」 「う、ううん。しーちゃんの過ごしたい格好に合わせるよ」  洗濯済みの芹香の服を渡すと、そそくさと芹香が洗面所に消えていった。  動揺していたらいい、なんてしてはいけない感情が胸に落ちていく。  誘惑させる道が間違っていると知っていながら、止められない。  分かっている。  期末試験まではまだ日数がある。  それが空けるまでは、お互い勉学に勤しみ我慢の時であるということも。  だから今日、ネットカフェに来たのも。私の要望とお店のリサーチ、ふたつの目的を果たすために来たに過ぎない。  シャワーを浴びたのも汗を流しただけで、深い意味などない。私が勝手にデートと解釈して舞い上がっているだけ。  同僚として勤め先の改善点を話し合うか、友人の範囲内で漫画や動画鑑賞で楽しむか。  できることはそれくらいで、そういう雰囲気になってはならないのだ。  理屈がいくら正しい道を提示していても、したいという感情が上回る。  一日くらい息抜きしたっていいじゃないか、と言い訳を理性に重ねて。  着替えて戻ってきた芹香が、隣へ腰掛けた。  私との間には数センチほどの隙間があって、私から逸れるように爪先の角度が斜めを向いている。  あえてぴったり距離を詰めると、分かりやすいくらいに芹香の肩が上がった。 「さ、寒いの?」 「ううん、くっついてみたくなった」 「そ、そうなん。んで、これから何して遊ぶ?」  質問には答えず、手を彼女の頬へと伸ばした。  さっきからこちらを見ようともしないから、意識してくれていることへの嬉しさと目を合わせてほしい要求が混じり合う。 「して、いい?」  問うと、控えめに頭が揺れた。了承の合図と受け取り、唇を寄せる。  冷房はがんがんに効きまくっているのに、いま芹香と分け合っている温度は火傷しそうなほどに熱い。  唇を押し当て、彼女の胸元に手を置く。  なのに、芹香の両手は固まったように膝の上から離れない。いつもなら背中に腕が回っているのに。  なら。この間芹香がしてくれたようなことをして、新たな表情を引き出したいと思った。  重ねているだけだった唇から、わずかに舌を突き出す。芹香の瞳が大きく見開かれた。  舌先で舐めずるように動かすと、強い力が両肩にかかった。
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