恋人編

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55. もっと深いところ  私は紫苑の初めての人である立場を、もう少し自覚するべきだと思う。  私だってうぶだった頃は、もっとピュアな気持ちで相手と接していたはずだ。  一緒に帰って、おそくまでLINEのラリーを続けて、たまの休日はどこかに遊びに出かけて、ふたりの時間のなかで心を通わせていく。  それで十分どきどきしていたような気がする。たぶん。  誰だって、最初の頃は初々しい恋愛模様にあこがれていたはずなのだ。  なのに紫苑に対する愛情表現を振り返ると、私、段階飛ばしてない?  いつメンとファーストキスはいつだったって話題になって、みんな付き合ってひと月以内と言っててしくったと思った。  最初が紫苑からだったというのはきっかけに過ぎず、まだひと月も経ってないのに事あるごとに重ねまくってるって。  長年の想いが実ったからには、絶対手放したくない。そういう独占欲が肉体接触に偏りすぎてて、紫苑に合わせるべき歩幅よりも先を進んでいる。  がっつきすぎて手の早い女だとは思われたくない。せっちゃん付き合ってから気持ち悪い、みたいに冷められてないか考えると怖い。  けど、やらかした時間は戻せないので態度で示すしかない。  だから、今日の予定になかったお出かけはバイトの同僚とリサーチに行く、くらいの気軽さで行ったつもりだった。  ネカフェだって、遊びとご飯両方の目的を満たせていい場所じゃーんくらいのノリで訪れたんであって、今日に限っては本当に下心なんてない。ありません。  それがどうして、こういうことになってしまったのか。  柔らかく、温いものが口内をかすった。  予想外すぎる事態に思考が追いつかない。驚きのあまり、反射的に口を離してしまった。  とっさの行動だったから思ったよりも引き離すときに力がかかってしまって、紫苑の表情が凍りついていくのが分かった。 「……調子に乗ってごめんなさい」  ごめんと言う前に紫苑の謝罪に塗りつぶされた。申し訳無さげにか細い声で返ってきて、罪悪感が押し寄せてくる。  心情的に嫌だったわけではない。もちろんない。  舌を入れてきたのもたぶん、前に私がやったからその真似事感覚でやってきたのだと思うし。 「嫌なわけないよ、しーちゃん大胆だなってびっくりしただけ」 「……本当に? していいとは聞いたけど、し……たを入れるとは言ってないから。勝手にした私に合わせなくていいわ」 「芹香さん嘘つかないってば。……噛まないでね」  言葉だけでは何を言っても響かないだろう。おとがいを引いて、今度は私から唇を寄せる。  すぐ出したら合わせてやってると受け取られそうだから、まずはゆっくりと吐息と口唇を重ねて温度をなじませていく。  紫苑の両手が背中に回されたところで、わずかに舌先を突き出した。 「……っ」  ゆっくりと、かすかにひらかれている口唇の間に割り込ませて。口の形をなぞるように、そっと舐め上げる。 「苦しくない? 息、できる?」 「……鼻息荒いと思うけど笑わないでね」  しないってば、と声にする前に塞がれた。余計な気遣いとか無用だからキスだけに集中してと言っているかのように。  それどころか、今度は紫苑から応えてきた。舌先に熱さを覚えて、柔らかく湿った感触が触れる。  歯の裏側を突いてくるだけの、ぎこちない動きではあるものの。  堅物の紫苑が求めてきてくれてるのかと思うと、強烈な背徳感に思考がくらくらとする。  現実とは思えない刺激に思考を奪われて、うまく酸素が頭と体に回らない。  もっと深いところまで進みたい。  だけど、ここで踏みとどまらなくてはならない。  理性が最後の警鐘を鳴らすように、脳裏には元カノとの苦い記憶がフラッシュバックした。  あの時も、キスは向こうからだった。  私の部屋で求めてきて、お互い盛り上がり始めて。けど、彼女はあくまで私とキスがしたいだけだったのだ。  同意の言葉のひとつももらってないのに。ふたりきりだからと勝手に気持ちが早まって先走ってしまって、関係はあっけなく崩れ去ってしまった。  直前まで恋人を見つめてた甘い双眸は、獣を前にした怯える瞳へと揺れていた。  繰り返してはならない過ちに踏み込む前に、引き返さなきゃいけない。  名残惜しく、すり合わせていた舌を引っ込めようとした。
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