ロンドン塔の少女

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 それから、旬は毎日のように杏に会いに行った。世間を知らない彼女の為に、雑誌や漫画本を携えて。二人はベッドに寝そべり、顔を寄せ合いながら本の世界に没頭した。中世のヨーロッパを舞台にしたファンタジーや、砂漠の国を旅する冒険活劇、そこには血湧き肉躍るような物語が描かれていた。 「私、旬の友達に会ってみたいな」杏は子供向けの冒険活劇を読み終わり、そう言った。「沢山の仲間と旅がしてみたい」  旬は肩を竦める。「俺、学校に友達は居ないんだ」 「どうして?」 「小さい頃から、親の都合で引っ越しばかりしてたんだ。友達が出来ても、数年したら別れなきゃいけない。それなら、最初から作らなきゃいいんだって思って」 「寂しくはないの?」 「寂しくないよ」旬はそう強がりを言った。「漫画本もあるし、ネットだったら、いつでも誰かと繋がれるしね」 「なら、どうしていつも一人で海を見ていたの?」  杏は旬の顔を覗き込み、そう聞いた。 「それは、夏休みだから」旬はそう言って、誤魔化した。それから話題を変えるように、「お母さんって、どんな人だったの? 病気で亡くなっちゃったんだよね?」 「うん、私が赤ちゃんの時に。お母さんは写真嫌いだったから、顔も知らないの」 「写真も見た事ないの?」 「うん。ミヨコっていう名前は知ってるけど、それ以外は分からない」  いくら写真嫌いでも、娘と写った写真が一つも無いのはおかしい気がした。この部屋の異常な雰囲気も相まって、何か良からぬ事が起きているような予感がした。 「君は病院にも行ってないんだろ? 病名は?」 「お母さんと同じ病気って事しか聞いてないわ。血を吐いて亡くなってしまったって」 「自分の血液型とか生まれた病院は?」  旬のその質問に、杏は不思議そうに首を振るだけだった。世間知らずという言葉はあるが、彼女は余りにも自分の事を知らな過ぎた。 「私、変よね」杏はそう言い、ベッドの上で膝を抱えた。「でもね、私にも夢があるんだ。子供みたいって思うかもしれないけど」 「どんな夢?」 「この病気が治ったら、雨が見てみたいの」杏はそう言った。その目は暗い部屋の中で、灯台星のように輝いていた。「ある小説に、雨がとても素敵に描かれてたの。雨が空から降ってくる描写に、雫が地面に跳ね返る様子。水溜りに広がる波紋を、この目で見てみたいの」  杏は雨の概念を知っていても、それを映像として見た事がないのだ。雨に濡れ、その感覚に触れた事が無いのだ。 「海や桜、虹も見てみたい。それが私の夢なの」 「見に行こうよ」旬はそう言っていた。「お父さんが留守の間に、ここを出ればいいんだよ。歩けないなら俺がおぶってやるから」 「そんなこと出来るのかな」 「俺が杏をここから出してやる。約束するよ」 「指切りげんまん?」杏はそう言い、小指を立てた。 「うん、嘘ついたら針千本ね」  旬はそう言い、小指を立てると指切りをした。
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