ロンドン塔の少女

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 その日も、旬は杏の元へとやってきていた。目下の問題は、彼女をこの部屋からどう脱出させるかだった。窓はあるが、高い位置にある為に、彼女は登る事が出来なかった。残る手段は、他の窓から室内に侵入し、外側から鍵を外す方法だった。  旬は洋館の周りを回って施錠されていない窓を探した。玄関や裏口は鍵が掛けられており、一階の窓も固く閉ざされていた。二階やバルコニーに上がれるような足場も見つからなかった。  旬は部屋に戻り、侵入口を見つけられなかった事を告げた。杏は悲しそうな顔をしていたが、努めて明るく振る舞っていた。 「別の場所を探してみるよ」旬はそう言った。「次に雨が降るまでには外に――」  その時、階段から誰かが降りてくる音が聞こえた。杏は口元に人差し指を当て、その手をクローゼットの方へと動かした。旬は音をさせずにクローゼットの中に入ると身を潜めた。  ドアが開き、「杏、いい子にしていたか」という中年男性の声が聞こえてきた。旬はルーバーの隙間から外を覗き見る。五十代ぐらいの細身の男、髪や無精ひげは真っ白になっており、オイルで汚れた作業着を着ていた。 「お父さん、お仕事じゃなかったの?」ベッドに座った杏はそう言った。 「仕事でキャンセルが入ってな」父親は優しい声でそう言うと、杏の頭を撫でた。「腹は減ってないか?」 「うん、お腹空いちゃった」杏はそう言った。「お父さん特製のオムレツが食べたいな」 「そうか。お前はあれが大好きだものな」父親は杏の頭を引き寄せると、その旋毛にキスをした。「待ってなさい。作ってくるから」 「ありがとう」杏は言い、クローゼットにちらりと視線を向けた。 「そういえば」父親は足を止め、後ろを振り返った。「ちゃんと薬は飲んだか?」 「うん、これから飲むわ」  杏はサイドチェストの引き出しを開け、中からピルケースを取り出すと一粒を掌に転がした。それはピンク色の四角い錠剤で、まるでお菓子のようだった。杏はその薬を唾で飲み下した。 「良い子だ。じゃあ、待ってなさい」  父親が階段を上がって行く音を聞いてから、旬はクローゼットの中から転がり出た。心臓が高鳴り、手には汗を掻いていた。 「見つからない内に、部屋を出て」杏はドアの方を気にしながらそう言った。「ごめんなさい、折角来てくれたのに」 「いいよ。じゃあ、また今度な」  旬は窓から外へ出た。そのまま家へと帰ろうとしたが、正面玄関のドアが少しだけ開いているのに気が付いた。  旬は様子を伺いながら玄関から侵入した。正面に二階へと続く階段があり、右手がダイニング、左手には幾つかの個室があった。旬は身を低くしながら洋室の一つに侵入し、窓の鍵を開けた。次にやって来た時に、侵入経路として使えるように。  ドアの隙間からは、キッチンで食事を作る父親の姿が見えた。テーブルの上には買い物袋が置かれ、中から小麦粉や果物、生理用ナプキンが漏れていた。旬はその中に、ある物を見つけた。  半透明のパックに入ったピンク色の錠剤。表面に掛かれた鼠のイラスト。そこには、“殺鼠剤”の文字があった。
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