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暑くなるのが早く、まだ夏前なのに蒸し暑い夜。
“クロススプーン”というカフェバーに一人の男が来店した。
深夜から始発までの時間までしか開店しない少し不思議な店は、合言葉をマスターに伝えると相談することができるという噂だ。
「……〝角砂糖を三つください〟」
「奥へどうぞ」
穏やかそうなマスターが店の奥に繋がる通路を案内した。
「薊(あざみ)さん、ご案内よろしくお願いします」
「はぁい、こちらよ。おにぃさん」
ゆるりと笑う薊と呼ばれた男がカウンター席から立ち上がって奥へと案内してくれるら
しい。
「あの、」
「相談なら個室の方がいいでしょう?」
女性のようなやわらかい話し方と、身のこなしをする人で、化粧も似合う人が男性だと気づいたのは個室に案内されてからだった。
「今夜はちょっと蒸し暑いからノンアルコールのサングリアを用意したわ。緊張しちゃうわよねぇ、大人になってからの相談なんて」
「……そう、ですね。少しならず緊張しています」
リンゴ、オレンジ、シナモンスティックが宝石のように赤ワインのなかに閉じ込められている。一口飲むと、思ったより甘めに作られているらしく緊張で固くなっていた身体から力が抜ける。
「まず、皆さんに確認しているのだけど。この相談をキチンと理解していただいているか
と、この店について口外しないという契約書にサインをお願いします」
差し出された書面には事前に聞いた内容と、この店について、親族ならびに客同士だとしても口外を禁じるという徹底ぶりに、少し安心しながらサインをした。
「はい、ありがとう。今日はどうする?ご飯も美味しいけどなにか食べるかしら」
きょろりと室内を見回すと大きめの絵画があり、インテリア重視の落ち着いた空間で、腰をおろしたソファーの座り心地のよさに驚きながら差し出されたメニューを見ると値段の書かれていないメニュー表に思わず遠慮した。
「あ、値段は気にしないでいいわよ」
「え?」
「大丈夫よ。夜も長いしオススメはバケットとミネストローネよ」
「あ、じゃあそちらを」
おしゃれなウッドボードで、ピンチョスバケットをサーブされた。ブラックオリーブとスモークサーモン、ベビーリーフのバケットを勧められて一口食べれば、久しぶりに感じる味に舌と胃が喜ぶのを感じた。
「……おいしい」
安心して食事ができる事の素晴らしさを日本で噛み締めるなんて思ってもみなかった。
「スープも美味しいわよ、お話する前にちゃんと食べましょう、顔色が悪いわ」
ミネストローネも美味しい。温かくて涙がでてくる。これで、相談をする決心ができた。
「あの、相談というより、依頼なんですが、僕を〝食べられる〟前に殺してください。そして、僕の弟へこの手紙を渡してほしいです」
男の言葉に薊は微笑んで、美しくその瞳が煌めいた気がした。
「かしこまりました。ご依頼を承ります」
自殺幇助もしくは、嘱託殺人となる依頼だが、この〝相談〟では多く寄せられる依頼の一つだ。
──依頼主 十日町颯人(とおかまちはやと)。
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