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あの人が来たのは冬が深まる12月の中間だった。私は女将さんに言われて、部屋で待っていた。なんでも私の噂を聞きつけた偉い人が来るらしい。ああ、またか…………。私はそう思った。どうせ、笑わないのにと。今まで私が笑ったことはない。今宵も男たちの努力は無駄に終わるのだろう。そう、思っていた…………。
スーと襖が開いた。いつも通り私は襖に背を向けていた。それが、私が笑わなくなってからの客の迎え方だった。本来なら有り得ぬことだが、私は思っていたよりも人気があったらしい。
「……梓………」
その名を呼ばれた瞬間、私の記憶が開いた。
「雪人様…………!?」
振り返った私は驚きを隠せていなかったのだろう。雪人様はクスクスと笑っていた。
「久しぶりだね、梓。君の評判は聴いているよ。随分と参ってるみたいだね。」
「……はい…………」
私は俯いた。雪人様は私がまだ幼かった頃、別の遊郭で陰間として働いていた子だ。しかし、偉い方に気に入られ養子として引き取られたと聴いた。あのときは花街全体に驚きが伝わったものだ。それだけ異例なことだった。そして、私の話し相手でも会った。母の部屋からちょうど雪人様の部屋が見えたのだ。その関係から時々話していた。
「……雪人様は、あの後どうなされたのですか?」
「養父は本当に父だったようでね。どうやら私は妾のこだったらしくてね。跡継ぎが居なかったようで、教育された。今は次期社長として会社で働いているよ。」
「それは………………………」
私は眉をしかめた。それでは、ただ跡継ぎが欲しかったために雪人様が引き取られたという意味ではないのか。
「それにしても安心したよ。笑うことがないと聴いてたから、すっかり他の感情も忘れてしまったのだと思ったけど、忘れてたのは『笑い』だけだったようだね。」
「え?……ああ、はい。そうですね。」
話題を変えられて一瞬ついていけなかった。これでは遊女失格だ。
「では、私が笑わせてあげようか?」
「え?」
私は瞬きをした。しかし、次の瞬間
「…ちょ!?いやっ、そこはっ!…ははははははは…ちょ、まっ!!…くすっ……くすぐったいってっ!!ちょっ、そこよわいからぁ!………ストップ…ストップ……!!」
「もう止めているけど?」
私は大きく息をついて呼吸を整えようとした。しかし、雪人様の姿を見たら耐えきれずに吹き出してしまった。服と髪は私が暴れたのもあって、乱れてる。雪人様は訳がわからないと言う様に目をパチパチとさせているのが、また面白い。私は暫く笑っていた。
「やっと、笑ったね。」
その言葉で、私は初めて自分が笑ってることに気づいた。驚きだ。今までどの様な客が来ようとも笑えなかったのに。
「有難う御座います。」
何故だかわからないけど、お礼を言った。笑える様になったのは雪人様のお陰だろうから。彼は少し微笑んだだけだった。それから、私たちは雪人様が帰るまでずっと思い出話をしていた。
「………そろそろ夜が明けるね。私は帰るよ。」
楽しい時間はあっという間だった。もう少し話していたかったが、こればかりは仕方ない。私はせめてともばかりに部屋の入り口まで送った。さよならとも、また来るねも無く去ってゆく。ただその姿が彼を表してる様で嬉しかった。少し寂しかったが、それよりも心が暖かかったので、気にしないことにした。
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