雨のない街で

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「私、六月が待ち遠しいの」  首を傾げて窓枠で切り取られた春空を眺めながら、ヒナタは言った。部屋の窓辺にはさかさまになったてるてる坊主がいくつか吊るされている。大きさはまちまちだがそれにはほとんど意味がなく、大事なのはそれが気味悪いほど大量に並んでいることだ。彼女はそうやって、まるで喉の渇きを雨で潤したがっているかのように、猛烈に雨の日を渇望している。 「六月になって梅雨に訪れれば、雨が降る日が続く。そうすれば、きっと彼もこの街に帰ってきやすいだろうから」  彼女の言葉を聞いて、僕は咄嗟に顔を俯かせた。複雑に歪んだ顔を彼女に見られたくなかったからだ。けれども、彼女は僕になんて興味がなくて、窓の外の空を眺めて藍色の中に「彼」を探していた。  二日ほど前の話だ。彼女の恋人であるシミズが、突然雨の中に姿を消した。原因は不明だった。海のある方に向かって走っていったから、荒れた波に攫われたのだろうと大人たちは言っていた。  けれども、ヒナタはそれをずっと否定し続けていた。彼女は雨がシミズのことを飲み込んでしまったのだと、本気で信じているみたいだった。彼の足音が雨音にかき消されるように彼の姿は雨水に滲んで消えてしまったのだ、事情を聞きに来た僕にヒナタが零したのはそんな言葉だった。  どうして彼はこの家を飛び出すはめになったんだ、と涙を滲ませているヒナタに僕が訊くと、彼女は「喧嘩したの」と短く答えた。些細だったはずの喧嘩が、彼を雨空の下に放りだしてしまうほど大きな喧嘩に発展してしまったらしい。  本当に些細な喧嘩だったの、とヒナタは語っていた。 「シミズくん、君と私が一緒にいるのが少し気に入らなかったみたい。ただの幼馴染だよって言っても聞かなくてさ」 「なるほど」とそのときの僕は頷いた。「確かに、それはする必要もないくらい些細な喧嘩だったな」  ヒナタは僕の二の句に首を傾げたようだったが、僕は取り立てて説明することはなかった。もとより、独り言のつもりだった。なにせ、その言葉の真意は彼女に説明できるほど美しいものではないのだから。  それにしても、シミズは僕とヒナタがこれ以上の関係になると本気で信じていたのだろうか。 「梅雨が明けるまでに帰ってくるといいな」  僕はそう言いながら、半分はふざけたつもりで、もう半分は真剣に、鼻が伸びてしまわないよう、左手で力いっぱい自分の鼻を抑えつけた。  第三者から見れば、それは見るからに不自然な行動だったのだろう。けれども、ヒナタは何も言わなかった。彼女は待ち人を待つことに忙しいらしい。  僕はそのあたりで、何もかも馬鹿らしくなり始めた。 「何か手がかりが掴めたら連絡するよ」  最後にそう言い残して、僕は彼女の家を後にした。  やれやれ、僕はいつまでこうして彼女の話を聞いてあげなければならないのだろうか、そんなことを考えながら曇り空の下に続く家路を歩いた。雨が降らないか心配だった。自分の身体が濡れてしまう心配なんてこれっぽっちもしていなかった。今はただ、彼が返ってきそうなきっかけのたった一つでも起こってほしくはなかった。それがたとえ、馬鹿げた話でも。  結局、雨の一滴も降らないまま暦は六月になった。当然、彼はまだ帰ってきていない。 しかし、それでももうすぐ梅雨が始まろうとしている。僕は自分の部屋の窓際に大量のてるてる坊主を正しい向きで吊るした。  できることなら、本当に彼がこの世界から消えてくれるまで、僕は雨なんて降ってほしくないと願っている。  その願いがいかに愚かなものだったのか気が付いたのは、何もかも手遅れになった後の話だった。  僕の願い通り、それからいくら待っても雨は一滴も降らなかった。そんな日々が一年ほど続いた。  次の年の六月の街は見るも無残な姿になり始めた。 真っ先に悲鳴を上げたのは草木だった。水を吸えなくなった彼らは徐々に枯れ始めて、まるで年老いた老婆の二の腕のような姿になった。川の水は少しずつ減り始め、小さな池の水は完全になくなった。そして、池だった場所には今でも魚たちの死骸が横たわっている。  人々は喉の渇きに苦しみ始めた。それだけならまだよかった。六月が終わる頃、彼らは自分たちの喉の渇きに耐えられなくて、隣人と争うようになり始めた。隣人の持っている水分を殺してでも奪おうとする人が後を絶たなかったのだ。そして、隣人の水分すらもなくなったら今度は隣人の血液を飲んだ。そのせいか、道端にはよく枯れ木のようにしわがれた人間の死体が大量に転がるようになり始めた。  去年の六月に未だ正常に機能していたはずの学校は、今年の六月が始まるころにはたくさんの空席を抱えるようになりほとんど廃墟のようだった。いや、むしろ、まだこの学校が完全な廃墟になっていないことを、僕は喜ぶべきなのかもしれない。彼らのほとんどが重篤な病気にかかったか、すでにこの世からいなくなったということは十分に理解していた。そして、いつか自分の番が来るということも。  今はただ、人が一人ずつ減っていく教室の中でそれを待っているしかなかった。 「ほら、これ飲みなよ」  まだ残っている水分を探して学校中を動き回ったヒナタの手には、微量の水分が残ったペットボトルが握られていた。彼女はそれをこちらに見せながらにっこりと笑った。 「飲める水なのか」と僕は訊いた。 「さあ、どうだろう」と言ってヒナタは少しだけ首を傾げた。「でも、ないよりはましじゃないかな」  それもそうだなと頷いて、僕はもう一度そのペットボトルの底にたまった水分を凝視した。色はなく、何かが浮いているということもない。見たところ清潔な水のようにも思える。しかし、蓋の空いたペットボトルである以上、それが誰かが飲み終えたもので、かつそれから数日以上は経っているだろう。 「君は、飲まなくてもいいのか?」  ヒナタからペットボトルを受け取り、キャップに手にかけたところで僕は怖くなって彼女に訊いた。毒があると疑ったわけでも、毒味をさせたいと思ったわけでもない。けれども、これにたった一人で口をつけるのはいささか勇気のいる行動だった。 「私は大丈夫だよ」  ヒナタはそう言いながら立ち上がり、自分の席にかけていたリュックサックに手を伸ばした。  そして、彼女が中から取り出したものを見て、僕は目を丸くした。リュックサックから手を引いたとき、彼女の手には水色の水筒が握られていたのだ。  中のものをおいしそうに飲んでいるヒナタを見ても、僕は文句の一つも言えなかった。きっと、僕はそのくらい彼女を好いていたのだろう。そして、水筒の中の水分を分けてあげられないほど、彼女は僕を好いていなかったのだろう。  喉を鳴らすヒナタを見ながら、僕は覚悟を決めてペットボトルの中に入った水分を口に入れた。とても飲めたものではなかった。それを腹の中に流し込んだ自分を褒めてあげたくらいだ。しかし、確かに喉は潤った。喉は潤ったはずなのに、どうにも喉以外の何かが渇いて仕方なかった。  ペットボトルの水分を飲み終えた後、ヒナタの方に視線を向けると彼女は温かな表情 で微笑んでいて、そこにはあるはずのない優しさのようなもの感じた。  あの水筒の中に水分が一滴も入っていなかったという話は、もはや言うまでもないだろう。考えればすぐにわかることだった。彼女がそんな薄情なことをするはずがない。けれども、最後まで気が付かなかった。  真実を知ったのは、ヒナタが干からびてから数日経った後だった。僕は彼女の遺品であるリュックサックを漁り、水筒を取り出してからその軽さに驚くと共に、自分が生きていることに強烈な罪悪感を覚えた。  あのとき、あのペットボトルの水分を彼女にあげていれば、今生きているのは僕ではなく彼女だったのかもしれないのに。  後悔と絶望に打たれながら、僕は一人雨を待った。あれだけ拒んでいたはずの雨が、今は待ち遠しくてたまらなかった。  ヒナタがいなくなってからは、家に戻ってずっと自室に籠っていた。誰もいない民家は静寂が極まっており、今はもう母親が掃除機をかける音ですら恋しかった。  自室にいる間、窓際に並べられたてるてる坊主が何度か目についた。真っ白な肌の上に書かれているそのにやけ顔はどうにも今の状況には場違いで、まるで僕をあざ笑っているようで腹立たしかった。  いよいよ身体に貯まっていた怒りの量が、理性の量に勝ったとき、僕は感情に任せてそのてるてる坊主を天井から引き剝がして窓から捨てた。その頃には、とっくに六月の街は終わっていて、ちょうど七月すらも終わりに差し掛かろうとしていた。  もうすぐ真夏が来る。きっと、僕はその気温に負けて死んでしまうんだろう。そう思いながら、その日は部屋の中で倒れるように眠りについた。  浅い睡眠だったのだろう。僕は部屋の外に響いた小さな音で目を覚ました。ぽつぽつと何か小さなものが屋根にぶつかるような音だった。  その小さなものが一体何なのか答えを出すまでに、しばらく時間を要した。その音を僕は久しく聞いたことがなかったからだ。  外に響いていたのは雨の音だった。文字通り渇望していたそれが、たった一枚の窓を挟んだ外に現れたのだ。  僕は寝起きの身体を無理やり動かして家の外に出た。久方ぶりの雨に全身を預け、口を開いた喉の中に雨水を口に入れた。数日ぶりの水はまるで蜂蜜を直接口に零したかのように濃厚な味がした気がした。 それから何日か雨が降った。数か月遅れの梅雨がきたのだ。 それでも、シミズがこの街に現れることはなかった。
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