濡れ鼠みたいに

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「寝坊しましたっ!」  五分ほど遅れて教室に入ってきた日景に視線が集まり、手に取るように一同驚きと、好奇心が湧いたのが表情からわかった。特に男子。ただでさえ日景の顔は整っていて、胸は大きく、うっすらピンク色が透けて見えていたのだから。  僕よりも早く向かったはずなのに、なぜか遅刻をしてきた。僕のブレザーもどこに行ったのやら。 「中野(なかの)さん、それっ!」 「あ、寝ぐせですか? 直す時間もなくて」 「じゃなくてこれこれ」  先生が自分の胸元を指さして気づかせようとしている。そうして目を落として顔を真っ赤にした日景は自分を抱くようにして「ひぇや」と可愛い声を出した。僕のときはそんな反応しなかったのに。 「男子見るなー!」  いつも日景と一緒にいる藤野(ふじの)さんがバタバタと日景に駆け寄る。それからワイシャツを変えに保健室へ向かっていった。 「中野さんすげぇな」 「あぁ、なんかこう、良かった」 「ちょっと、日景ちゃんをそんな目で見ないで」 「そうよ、ほんっと男子ってしょうもない」 「中野さんも遅刻とかするんだー」 「ねー、ちょっと意外かも」 「静かに。連絡事項伝えるよ、後で中野さんにも伝えるように」  先生によって軌道修正され、朝のHRが再開される。  遅刻は特に咎められる様子もなく、むしろ遅刻をも日景のスパイスとして整えられていた。甘くもあり、酸っぱくもあり、しょっぱくもあり、苦くもあり、うまくもある。本来であれば混ざり合うことで崩れるはずが奇跡としか言いようのないバランスで保たれている。  そんな日景を誰もが天才ともてはやした。何も知らない野次馬よろしくのクソ凡人どもが日景にそうレッテルを張りつけ、勝手に一線を置く。  だが、そうじゃない。僕は知っている。誰よりも努力をして、日景が今の地位を保ち続けていることを。それがどんなに難しいことで、何かであり続けることは反比例して難しくなることを。  日景が学年1位であり続けること、運動神経抜群だと思われ続けること、品行方正で誰にでも分け隔てなく接して良い人と思われ続けること、あざといと思われない程度に天然を演じていること、総じてみんなに愛され憧れであり続けていること。十人が十人、日景のことを完璧だと思い続け、日景は思われ続けることがどれだけ難しいことか、僕に計り知れるわけがない。  隣に居続けるための努力をすでに辞めてしまった僕に、そんなことを思い続ける資格なんてない。それでも、まだ未練がましく思っている自分がいた。
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