濡れ鼠みたいに

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 僕は授業中に黒板を見るふりをして横目で日景を見ていた。真剣な表情で、黒板とノート、教科書を見ていた。  対して不真面目に、僕は机の下に携帯を隠しながら「濡れ鼠」と調べていた。意図的に濡れてしまう場面では使われないらしいことを知る。日景が言うことに間違いはないと思い込まされる。それほどまでに、日景は正しいという認識が周囲に浸透していた。  ふと、日景が僕の視線に気づいたのか振り返ってくる。知らぬ顔をして前を向いて、視線が向けられなくなるまで耐える。数秒そのままにしてチラッと日景を見るともう勉強に戻っていた。  うちの娘の、邪魔をしないでくれ  中学二年生のときに、日景の父親から言われたことを思い出した。  日景の両親は優しい。溺愛していると言っても過言ではない。甘すぎず、厳しすぎず、理想の親と言ってもいい。というか、自分からはそう見えた。  だからこそ、日景の父親から突き付けられたNOで、自分ではダメなのだ、ということを理解させられてしまった。  立派な娘には立派な相手がふさわしい。  親として当然のことだ。  対してうちの親はおかしい。  ハートが割れても、破片を集めれば修復できる。これは両親の言葉で何回も破局を経ては復縁して、最終的には硬い愛情で結ばれた、と聞きたくもない惚気話の初めと終わりに繰り返される。  例えば、パズルでもピッタリ合うものと合わないものがある。1000何ピースもあって、繋がるのはたったの4つだけ。みんながみんな手を取り合って、なんてできない。少なくとも僕には。  合わないピースを無理矢理形を変えてはめ込むことは許されない。そうすれば決して完成しない。それに僕はせいぜい端っこだ。四隅なんて重要で一番初めに選りすぐられるような人間ではない。  彼女はピースと例えるには適切ではない。フレームだ。全てをひっくるめて、まとめて、そのまま包み込めるような人間、それが昔から知っていて、今でも変わらない感想を抱く彼女に対しての評価だ。  でも、もし。天が味方をしてくれたことで、何かを変えることができるなら雨よ降ってくれ……なんて願うのは、虫のいい話だろうか。
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