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伯爵家の本邸の洋館、櫻子専用の応接室で櫻子は乳母であり教育係の葉室とフランス刺繍をしていた。
夏が近くなり緑が濃くなった木立を抜ける柔らかい風がレースのカーテンを揺らし、テラス越しに見える花壇には今が春の終わりを惜しむように薄紅色を基調とした花が咲きこぼれている。
「華族の姫として和歌、琴などはもちろんですが、このような刺繍やレース編みも淑女の嗜みとして重要です。
バザーで売って寄付する慈善事業も侯爵家の奥方として大切なお仕事ですからね。」
黙って聞きながらすみれの花の刺繍をしていた櫻子が口を開いた。
「……離れの洋館にいる方ってどなたなの?」
葉室が手を止め目を上げる。
「櫻子さまの耳にも届いていらっしゃいますか。」
「もちろんよ、女中たちがこそこそ噂しているもの。『自分達がお世話に行きたかったのに』とか『光る君』とかなんとか。梅なんかほんとに興味津々で。
でも『光る君』ってまるで源氏物語みたい。」
櫻子がくすくす笑いながら言うと、葉室が眼鏡を少し上げ、再び刺繍を始めた。
「私も詳しくは知りませんが、先日、旦那さまの古いお知り合いの木野男爵が事故で亡くなり、そのご子息を引き取ったらしいです。お仕事の手伝いをさせるために今は勉強中だそうです。」
「なぜ紹介してくれないのかしら?」
「……元が平民だからですよ。」
櫻子は少し目を大きくして葉室を見た。
「え? 木野男爵の息子なんでしょ?」
「後継がいなかったため、親戚から養子を取ったのです。その親戚は爵位を持っていなかったため、平民の生まれなのですよ。」
「でも今は男爵なのよね?」
「男爵とはいえ伯爵家の大切な姫君に元平民の男子など近づける訳がないじゃないですか。
ましてや姫さまには鷹塔侯爵家の涼雅さまがおいでです。
ですから近寄ってはなりませんよ。」
梅には後できつく言っておこう、と葉室は心に留めておいた。
『近寄ってはならない。』
そう言われれば興味が募る。
あれほど華族の子弟を見慣れている我が家の女中たちが噂をしているし、なによりも父に気に入られた元平民の子とはどんな人なんだろう、と。
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