櫻子

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櫻子

 水澤伯爵の屋敷は江戸城からほど近い広大な武家屋敷跡の敷地に新たに構えられた。表は瀟洒な洋館で、裏側には渡り廊下を繋いで武家屋敷時代の屋敷が残っている。  当主である水澤伯爵は大名を祖とする華族で、現在は様々な事業を興し、また貴族院の議員として地位と財を成している。    その裕福な伯爵邸に一人の娘が生まれた。  兄二人の下に生まれた末っ子で、待望の女の子だった。    ふんわりと柔らかい茶褐色の髪の毛に縁取られた顔は、白い肌にうっすらと桜色の頬とさくらんぼ色の小さな唇。大きな瞳も茶褐色で、長いまつ毛が影を落とす。  その場に八重の桜の花が咲いたかのような華やかさに「櫻子」と名付けられた。   「これは愛らしい、嫁に出すのが惜しいな。」  父の水澤伯爵は嬉しそうに語り、母である透子(とうこ)は困ったように眉を下げた。 「まだ生まれたばかりですのに。今は元気に育ってほしいと祈るのみですわ。」 「はは、それもそうだ。大切に育てよう。」    櫻子には乳母と侍女が二人つき、水澤家の掌中の珠として大切に育てられた。  望むものは全て与えられた。  ただ一つを除いて。  父親の頭の中では華族の娘として生まれた櫻子にすでに政略結婚の相手が決められていた。    伯爵自身も透子と親同士が決めた結婚だったが関係は良く、それほど不満もなかった。  もちろん、伯爵はそれなりに外に女性もいたが、透子はそれについてなにも言わなかった。  透子は伯爵と自分との間に後継を含め三人の子を産み、立場を不動のものとしたことに満足していた。  それに何より夫は透子を優先して大切にしている。その事実と伯爵夫人としての矜持が透子をますます美しくしていた。
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