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束の間、私は迷った。都子ちゃんの眼には怯えのようなものが浮かんでいる。
私がここに長居することが、彼女にとってプラスに働くのかマイナスに作用してしまうのか、判断出来ない。
「そうだね、そろそろ帰ろうかな。また遊びに来ても良い?」
「もちろん! いつでも来て。あたしひとりでお留守番している日も多いからさ」
結局、私は帰ることに決めた。遅かれ早かれ、都子ちゃんはお母さんとふたりきりにはなってしまうのだ。それは私にはどうしようも出来ない。ただ、不安と心配が募るだけである。
「家についたらメッセージ送るから」
「うん。ていうか、駅まで送って行くよ!」
「平気。一本道だったし、ひとりで帰れる」
「でも」
「今日は楽しかった、ありがとうね。キミも、ありがとう」
私は都子ちゃんが抱えている人形を一度撫で、都子ちゃんに頷いてカバンを持って部屋を出る。リビングで、目がとろんとした都子ちゃんのお母さんが座っている。都子ちゃんのお母さんだけあって、キレイな顔立ちをしていた。
「お邪魔しました」
私が頭を下げると、都子ちゃんのお母さんは含み笑いを漏らした。
「都子にお人形以外の友達がいたなんてねぇ、あの子をよろしくねぇ」
「こちらこそ、いつも都子ちゃんにお世話になっております。失礼します」
ざらつく気持ちを抑えながら、玄関を出てアパートを後にする。
都子ちゃんは強いな、と思った。彼女は苦しい環境に置かれても、自分の場所を自分で作り上げたのだ。そしてそれを大切に慈しんでいる。
電車に乗った。トンネルを通過するとき、列車の窓ガラスは彩度を落とした鏡のように私の姿を映し出す。彼方そっくりに作られた姿を。私は、都子ちゃんのようには出来なかった。自分の場所など作ることもせず、ただ彼方の呪縛に捕らわれたまま。
私は眼を閉じて、電車がトンネルを通過するのを待った。トンネル特有のくぐもった音がいつまでも終わらないような気がして、息苦しい気持ちに包まれた。
家に帰るといつものように呼吸を整えてからドアを開け、『アンタ』『お前』と口々に言うお父さんとお母さんをやり過ごす。少し帰りが遅くなり過ぎたせいか、彼らの追及は執拗だった。友達の家に遊びに行っていたとは言えない。彼方にふさわしい友達がどうかという、くだらない詮索が始まるに違いないのだ。
「部室で読書に熱中してしまったの、ごめんなさい」
気の重い夕食を早々に終え、自室のベッドに横たわると都子ちゃんにメッセージを送った。すぐに都子ちゃんはスタンプ付きで元気いっぱいの返信をくれる。
「私の居場所、か」
何をすれば、それを得ることが出来るのだろう。答えの見つからないまま、時間だけが過ぎ去っていった。
家で過ごす時間は鬱々と、学校生活はそれなりに動き出した。最近、都子ちゃんはバイトを始めたようだ。
「ミヤコはあたしが居ない間ひとりぼっちでしょ、姉妹が欲しいなって思って」
「そっか、あの子に姉妹が出来るのね。そしたら寂しくないね」
都子ちゃんらしい動機に、思わず笑みがこぼれる。長谷川くんも相変わらずの様子で、今では話しかけられるのも慣れていた。ちょこちょこと色んな生徒の間を動き回るのは、もの悲しさと健気さを感じさせる。
都子ちゃんが忙しくなり、私は放課後の時間を文学部で過ごすことが多くなった。
その日も夕方まで読書をして、部室を出た。帰宅するのは気が重いが、帰らないわけにはいかない。校舎を出てグラウンドと校門に面したところまで歩いていると、スマートフォンが振動した。
ほとんど都子ちゃんとしか連絡は取り合っていない。彼女はバイトのはずだ。なんだろうと思いスマートフォンを取り出してみると、ニュース速報が入っていた。
『京浜東北線、人身事故のため上り線下り線ともに運転休止、運転再開の時刻は未定』
えっ、と短い声が出た。私が普段使っている路線である。これでは帰りが遅くなってしまう。電車が止まっていたという理由をお父さんとお母さんが受け入れるかはわからなかった。とはいえバスの振替運転だってそんなにすぐには対応しないだろうし、線路沿いの道を徒歩で帰るしかない。
「困ったな、どれくらい時間がかかるだろう」
「よー、月城! なぁに暗い顔してんだー?」
名前を呼ばれ振り返ると、自転車に乗った南雲くんが手を振っていた。すぐそばに来ると自転車を降り、私の顔をうかがうように見る。
「南雲くんこそ、こんな時間まで何をしているの? 南雲くん、帰宅部だよね?」
「補習だよ、補習。宿題もやらねーし小テストの点数も悪いからってさ」
「そうなんだ。宿題くらいやればいいのに」
腰に手を当てて大げさにため息をつく南雲くんに、私が言った。
「宿題もやろうとは思うんだけどさぁ、ぜんぜんわかんなくって結局サボっちまうんだよな」
「わかる範囲でやればいいじゃない。間違えてたっていいから」
「俺、こうみえて完璧主義者ってゆーの? やるなら満点取りたいし」
「でもその結果が補習でしょ、意味ないじゃん」
南雲くんは「まぁな!」と答えて元気に笑った。補習なんて彼には大して問題ではないのだろう。
「で、月城は何してんの?」
「部活帰り……なんだけど電車が止まってるみたいで。歩いて帰ろうかなって」
「へーっ、そりゃ大変だ。……そうだ!」
南雲くんが手を叩いて私の顔を見る。
「俺のチャリ、二人乗り出来るから。良かったら送ってってやるよ」
「え? でも、私の住んでる場所と南雲くんの家、同じ方向かもわからないのに」
戸惑う私に、南雲くんが「あー、やっぱり」と言って口をへの字に曲げる。
「お前覚えてないんだな、俺と月城、幼稚園同じだったんだぜ。クラスは違ったけど」
「そうだったっけ? ごめん、まったく覚えてなかった」
幼稚園のころ、私はお父さんとお母さんに一刻も早く彼方の代わりとなるべく様々な習い事や勉強をさせられていた。だから、きっと南雲くんが同じクラスであっても覚えていなかっただろう。そんな余裕は、あのころの私にはなかったから。
「まぁそういうワケだ。月城の家は知らないけど、住所は結構近いはずだから。どっか家の近くまで連れてってやるよ」
「うーん、それじゃあお言葉に甘えて」
少し人目も気になったけれど、家で愚痴愚痴言われないで済むと思えば気が楽だ。
私は南雲くんの自転車の後ろに腰掛けるようにして座った。
「おいおい、そんな座り方じゃ危ないぞ。ちゃんとチャリまたげよ」
「私スカートだから。またぐのはさすがに恥ずかしいの」
「そんなもんか? じゃあ、せめてしっかりつかまってろよな。いくぞ」
南雲くんが自転車を走らせる。自分が何もしなくても運ばれていくのはなんだか不思議な感覚がした。見慣れた通学路も、いつもとは違って見える。やがて自転車は舗装もされていない土手道に入った。
「結構揺れるね、ここ」
「河原を走るのが一番近道なんだよ、車も走ってないし信号もないからな」
「なるほど。この辺りに川が流れてるのは知ってたけど、そういえば見るのは初めて」
都会にありがちな、ちょっと汚れた川。だけど、夕日を照り返してキラキラと輝く水面はとても美しくて、私はしばしその光景に目を奪われた。
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