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つまり、当時最新のものだったとしても私たちが産まれてもいないころの音楽。いやいや何度も聴かされて覚えてしまったので、きっと歌うことは出来るだろうと思う。でもそれを歌うことが楽しいものではないのは、自明だった。
ほかには長谷川くんの提案で、映画館に行ったりもした。
都子ちゃんはアニメが見たい、南雲くんはアクションが見たい。長谷川くんは大人のドラマを描いた作品が見たい。
なかなか見る作品が決まらなくって、三人に迫られて私が適当に見る映画を決めたりもした。それが意外に面白くて、映画を見終わったあと皆で盛り上がったり。そんな経験も楽しい。
「今まで知らなかったけど、なんかこういうのもいいね」
映画館の帰り道、長谷川くんがポツリと言った。
「そうだね、私も初めてのことばっかりだけど、いいなって思う」
頷き返し、皆で駅の前まで歩く。電車はそれぞれ乗る方向や路線が違っていたので、駅前で遊ぶときはいつもここで解散だ。皆で手を振り合って別れる。家に帰りたくない。彼方のことではなく、友達と離れる寂しさからそう思うのも新鮮な驚きだった。
ただ、私たちも遊んでばかりはいられない。何と言ってもお金には限りがある。都子ちゃんは新しいお人形を迎えるために貯金だってしているのだし、私も本の出費は抑えられても診療代はどうにも出来ない。
予算が乏しくなってきたときは、南雲くんの家にお邪魔して勉強会をしたりもした。
と言っても学力には大きな差があるので、私と長谷川くんは教師役。都子ちゃんと南雲くんが生徒役である。こういうことは、長谷川くんが活き活きとしてやった。必要とされてることを実感出来るのだろう。
南雲くんのお母さんは親切な人で、やってきた私たちを歓迎してくれて、ジュースやお菓子を出してくれた。「南雲くんのおうち、暖かいねぇ」都子ちゃんが南雲くんのお母さんが部屋を出ていくのを見て、しみじみ呟いた。
屈折が呼び合っている、その思いは私の中で今も消えていない。
だけど、それは決して悪いことではないんじゃないかとも思い始めた自分がいる。
壊れかけの家が、互いに支え合ってなんとか建っているようでもあった。でもそれが不快じゃない。ふと寄り掛かりたくなるような、安心する暖かさがあるのだ。
モノクロだった世界に少しずつ色を足していくような充足感が、私を包み込んでいた。
楽しい四月はあっという間に過ぎ去り、ゴールデンウイークで学校も長期休暇となった。
私にとっては、家にいる時間が長くなってしまう憂鬱な期間であった。
それに、ゴールデンウイーク最終日は私の誕生日……つまり彼方の誕生日なのだ。毎年バースデーには彼方の思い出が詰まったアルバムを食卓に広げ、お父さんとお母さんはまるで私がいないかのように彼方の思い出を語り合う、苦しい時間。
ただ、ほんの少しだけ――期待のようなものがあった。
私は今度のバースデーで十六歳になる、つまり彼方の年齢を追い越すのだ。
今までずっと背負ってきた彼方の面影。彼方が到達出来なかった年齢になることで、これまでの置いてけぼりにされるような慣習が、もしかしたら変わってくれるのではないかという淡い思い。
「きっと、今までと何かが違ってくれるよね……」
休みの間、私は何度も枕を抱えてはそう呟いた。
誕生日の日がやってきた。
毎年この日の朝と昼は変わりなく過ごす。夜にお父さんがケーキを買って来て、お母さんが手の込んだ料理を作り、私を、いや彼方のバースデーを祝う習慣になっていた。
「お父さん、お母さん、おはよう」
「あら、おはよう。アンタ早いのね」
「おお、もう起きたのか。休みの日くらいゆっくりしてもいいんだぞ」
お父さんもお母さんもどこかぎこちない。いつもよりソワソワとしている。ふたりにとっても今日は特別な日なのだろう。私には嬉しい気持ちは微塵もなく、ただ胸の中が緊張で張りつめてしまいそうだった。
三人揃っての朝食は、いつも大した会話はない。昼食もそうだ。時折彼方がしないようなことをすると、お母さんが目ざとく見つけて注意してくるくらいである。
今日は、それすらなかった。
いつまでも終わらないのではないかと思われた昼もすぎ、窓の外は夕暮れに染まっていく。お母さんは料理の準備で忙しくしている。私には手伝うほどの心の余裕はない。やがてお父さんが「ちょっと出かけてくる」と言って外出した。ケーキを買ってくるのだろう。
そうしてバースデーの夜が訪れた。
テーブルにはお母さんの自慢の料理たちが並ぶ。お父さんとお母さんが並んで座り、向かい合うように私が座った。左どなりは空いている。彼方の席だ。食器はまるで四人いるかのように、四つの席に揃えられてた。
「いただきます」
お母さんは料理が上手だ。けれど今の私には味さえろくにわからない。
これからどうなるのだろうと思いながら過ごす夕食の時間が長かった。食事を終えるとお母さんが「あなた、そろそろ……」とお父さんに声を掛けた。ふたりが席を立ち、お母さんは彼方の写真が詰まったアルバムを持ってきた。
毎年、この瞬間がとてつもなく嫌いだった。お父さんとお母さんが彼方しか見ていないことを、目の前でありありと実感しなくてはならない。だけど、今年はどうなのか。
お父さんが冷蔵庫からケーキの箱を取り出した。
「よし、バースデーのお祝いにしよう」
お父さんが私に向けてニッコリと笑った。お母さんの顔にも笑みが浮かんでいる。
お父さんの手がゆっくりケーキを取り出すのを、私は固唾を飲んで見守った。
ケーキが取り出される。
私は、息を飲んで絶句した。
ケーキの上にはチョコのプレートに『happybirthday 彼方』と書かれていた。
「いやぁ、とうとう彼方も十六歳を迎えることが出来たんだなぁ」
「本当に、本当に長かったですねお父さん。ああ、彼方、おめでとう」
お父さんとお母さんが目に涙を浮かべ、感極まっている。私の心の中に、今まで経験したことがないほどの凍てつくような冷たい風が吹いた。
これは、私のバースデーじゃない。
ずっとずっと十五歳で止まっていた彼方の時間が再び動き出した、祝いの瞬間なのだ。
――彼方の年齢を越えれば、お父さんとお母さんは私を見てくれるかもしれない。
そんな微かな期待は一瞬にして打ち砕かれ、どうしようもない現実がナイフで胸をえぐるように突き刺さってくる。
「ろうそくもな、十六個貰ってきたんだ。一緒に立てよう」
「素敵ね、これからの門出にぴったり。じゃあ、火をつけて……と」
白いクリームがふんだんに使われたホールケーキに、十六個のろうそくが立てられていく。お父さんがゆっくりと火をつけていった。ろうそくの火が揺らめいている。ううん、私の視界が歪んでいるのかもしれない。
息が詰まって苦しい。どうしようもない悲しみが今にもあふれ出しそう。
この場所にいる一刻一刻が、私を彼方という凶器で傷つけていく時間。
ろうそくに点火を終えたふたりの眼が、いっせいにこちらを向いた。まるで見知らぬ人のような眼だ。あの眼には、私なんか映っていない。見えているのは彼方の幻影だけ。
「ほら、アンタ。ろうそくの火を消しちゃいましょうよ」
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