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「そうだぞお前、早くしないと溶けたろうがケーキについてしまうだろう」
「あ……う、ん……」
思うように言葉が出ない。うまく呼吸が出来ない。
心は冷え切っているのに、胸の中を動悸が駆け回る。
視界が暗くなり、手と足の先が痺れたようになって思うように動かなかった。
これからずうっと、お父さんとお母さんは彼方を見続けるのだ。十六歳になった彼方、十七歳になった彼方。成人になった彼方。社会に出ていく彼方。
彼方、彼方、彼方、彼方。
私は彼方から、一生逃げることは出来ない。
「どうしたんだお前、ほうけた顔をして。はやく火を吹き消さないか」
「もう私たちで消しちゃいましょお父さん。せーっの」
ふたりが息を揃えてろうそくの火を消していく。ケーキは当たり前のように四つに取り分けられ、誰もいない私のとなりの席にプレートの乗ったケーキが置かれた。ふたりは嬉しそうにアルバムをめくりながら、ケーキを食べ始めた。
もう、ここには居たくない。
ふらつく足取りで、私は立ち上がった。
「なんだお前、まだケーキが残ってるだろ」
「そうよ、アンタねぇ。お祝いなんだからしっかり食べなさいよ」
「ご、めん。おなか、いっぱいになっちゃって」
必死に声を振り絞って答えると、力の入らない身体をなんとか動かしてリビングを出た。壁に手をつきながら階段を昇り自分の部屋に入る。ベッドに横たわると身体中がどうしようもなく震えていた。
「いっそ、私の名前も彼方にすればよかったのに」
そうすればふたりの歪んだ想い――壊れきった妄想も、愛情と錯覚することが出来たかもしれない。ほんのわずかでも、お父さんとお母さんの視線の先に私を見つけ出せたかもしれないのに。
この呪縛からは、一生解き放たれることはないだろう。
淡く微かな期待を込めた大切だったはずの一日は、どうしようもなく苦しい現実を突きつけられて終わろうとしている。
私は眠ることも動くことも出来ないまま、長い長い夜に震え続けた。
朝日が昇っても、私の胸に空いた大きな穴は少しも塞がることはなかった。
なんとかベッドから身体を引きはがし、よろよろとした足取りで立ち上がる。制服に着替えて、眩暈にこらえながら一階のリビングに降りた。
「ちょっとアンタ! 髪型違うでしょ!」
「リボンも曲がってるぞお前、彼方はそんなことなかったはずだ」
お母さんの手が私の髪と首元を動く。湧き出してくる怖気をなんとかこらえた。
「朝ごはん、いらないから」
短く告げて、お弁当も持たずに家を出た。お母さんの何か言っている声が聞こえたが、相手にする余裕はない。電車の中でも目を閉じて、トンネルを通り抜けるのをじっと耐えた。
いつもより早く到着した教室で、長谷川くんが心配そうに声をかけてきた。
「おはよう月城さん、顔色悪いよ。どうしたの?」
「長谷川くん……、うん、ちょっと体調が優れなくって」
「保健室行く? 連れていくよ」
「平気、ちょっと座ってゆっくりしてるね」
登校するだけでひどい疲労感に包まれている。学校に来れば少しは気持ちが晴れるかと思ったが、私の心は依然として冷たく重い鉛のようになったままだった。
「よーぅ、月城。なんだぁ、暗い顔してんな」
「おはよ、ドールちゃん! あれ、何かあったの? なんだか辛そうだよ」
南雲くんや都子ちゃんにも心配されてしまい、私はなんとか微笑みを作って首を振った。
授業が始まる。今までのように勉強に没頭することが出来なかった。自分の中にいる何かが、いつまでも声をあげ続けているように思える。自分自身のことなのに、その声はどうしても聴きとれない。
昨夜から、何もかも重苦しい靄に包まれてしまった気がしてならなかった。
「あれ、ドールちゃん今日お昼ご飯は?」
昼休み、都子ちゃんと机を並べたときに私が何も食べないことに彼女は首を傾げた。
「お弁当、忘れちゃって」
「そうなんだ、じゃああたしのパン半分あげるね!」
好意を断りきれず、私は味のしないパンをなんとか咀嚼して飲み下した。放課後になると、いつものメンバーが私の席の周りに集まって来た。
「なぁなぁ、今日もどっか遊びに行こうぜ」
「あたしも今日はバイトお休みだから、さんせーい!」
「委員会があるんだけど……まぁいいかな」
「おっ、学級委員長がサボりかぁ」
「たまには息抜きだよ。ね、月城さん」
長谷川くんに声を掛けられ、私は短く「そうだね」と返した。とても遊びに行けるような心理状態じゃなかったけど、家に帰るよりはずっと良い。
メンタルクリニックに行くという方法も考えたけれど、昨日の出来事を話せば小園先生は両親を呼べと言うに違いなかった。そういう選択肢が無いわけではないけれど、今の私にお父さんとお母さんを病院まで引っ張っていく気力は無い。
そして、彼らは先生に何を言われたところで決して変わることもないだろうとも思う。十五年以上、現実から切り離された妄執の中で生きてきた人たちなのだ。
もうすぐお人形を迎えられそうだという都子ちゃんの予算を考えて、私たちはファーストフード店でおしゃべりをすることにした。
会話が頭に入ってこなかった。私はほとんど発言はせず、何か意見を求められると曖昧に笑って頷くことを繰り返した。
「やっぱ、なんか元気ないな月城」
「月城さん、まだ体調良くないの?」
「ううん、だいじょうぶ。心配かけてごめんね」
「ドールちゃん、何かあったらいつでも言ってよね、あたし相談に乗るから!」
私に気を遣ってくれたのか、その日は早めの解散になった。
「俺、月城をチャリで送ってくわ」
南雲くんの申し出をなんとなく受けて、長谷川くんと都子ちゃんと駅前で別れて自転車に腰掛けた。「いくぞ」という南雲くんの声に合わせて自転車が動き出す。あれほど心が躍ったトンネルの下り坂さえも、今も私には何も感じることが出来ない。
ようやく色付き始めた私の心は、すっかり白黒に――いや真っ黒になってしまった。
南雲くんと別れ帰宅して、夕食の席につく。なんとか詰め込んだ夕飯を、トイレですべて吐き戻してしまった。身体が何も受け付けようとしない。お風呂を出るとベッドに倒れこみ、昨日飲まなかった分の睡眠薬も併せて飲んで、無理やり眠りの中に逃げ込んだ。
翌朝、睡眠薬が少し残った重い頭を持ち上げてベッドを出る。制服に着替えて、相変わらず重い気持ちのままリビングに向かった。いつものトーストの香りがしない。
リビングに入りそのままキッチンを覗いて見ると、冷蔵庫のそばでお母さんがしゃがみこんでいた。
「お母さん、どうしたの?」
「ちょっと……体調が優れなくて……」
「えっ、だいじょうぶ!? お父さん!」
私がお母さんの背中をさすりながら大きな声でお父さんを呼ぶ。ネクタイを結びかけたままのお父さんが「なんだ、大きな声を出して」と言いながらキッチンを見て顔色を変えた。
「母さん、どうしたんだ? 顔色も悪いし、震えているぞ!」
「あなた、なんだかお腹が痛くて。いつもの腹痛と違うの、捻じれるような痛みで……」
「お父さん、救急車呼んだ方がいいんじゃ……」
「救急車が来るまで待てない。俺が車で運ぶから、お前も来なさい!」
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