遣らずの雨

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「やらずのあめ?」  そう呟く彼女に、俺は微笑みかけた。 「そう。遣らずの雨」  先程まで曇りだったのに、急に雨が降ってきた。靴を履きかけた彼女はあきらめたように再び部屋に上がってきた。 「俺がお前に帰って欲しくないって思ったから。だからお前を帰らせないように雨が降ってきてくれた、って意味」  彼女は「ふーん」と興味がなさそうに呟いた。 「あ、傘貸してよ。今度返すからさ」  彼女は手を差し出した。 「……ああ」  俺は物足りない思いで傘立てから傘を取り出した。 「遣らずの雨?」  そう呟く彼女に、俺は微笑みかけた。 「ああ」 「ずいぶん風流なこと言うね」  彼女も微笑みながらそう返してきた。帰ることをやめたらしい。また俺の隣にやってきてちょこんと腰かけた。俺は苦笑した。 「何笑ってるの?」  彼女は不審そうだ。 「いや、昔のことを思い出してた。当時付き合ってた彼女に同じこと言ったけど全然興味示さなかったなって。しかも傘借りて帰っちまったし」  すると、彼女は俺の頬をつねった。 「昔の女の話とか、嬉しそうにしないでくれる?」  ぷうっとふくれる彼女がかわいいが、それは置いておく。彼女を拗ねさせては悲しい。 「いや、学生の頃の話だからさ。もう10年近く前だし」  そう言っても彼女はふくれたままだ。 「おい、せっかく帰らずにここにいてくれるんなら、機嫌直してくれよ」 「もう帰る」 「いや、待てって」  座ったまま後ろから抱き締める。 「せっかく俺の想いを汲んで雨も降ってきたことだしさ」  彼女の髪に頬を埋める。すると、彼女から何やらぶつぶつと言っているのが聞こえた。 「あたしは、……だもん」 「ん?」  顔を彼女の頭から離し、前を覗き込む。 「あたしなら、あめのひが欲しいもん」 「雨の日?」  彼女は俺の腕の中でくるりと向きを変えた。 「君が行く道の長路(ながて)を繰り畳ね焼き滅ぼさむ天(あめ)の火もがも」  彼女は顔を真っ赤にしてそう言った。 「万葉集だな」  流罪になって彼女のもとを去ってゆく恋人。それを引き留める為に、路を焼き滅ぼす火が欲しいという歌。  彼女とは短歌の社会人サークルで出会った。 「帰り道を燃やし尽くしてでも一緒にいたいなら」  俺は彼女の左手を取った。 「結婚しないか?」  彼女は驚いたように目をみはった。俺は焦った。 「なんで驚く」  彼女はしばらくこちらを凝視していたが、そのうち目を潤ませ始めた。 「さらに泣くか?!」  彼女の頭をよしよしと撫でながらやっと気づく。  こんなおざなりなプロポーズ、夢も希望もロマンもねえだろ! 「いや! 返事はいい! 今はいいから! 仕切り直させてくれ! ごめん!」  すると彼女は目をごしごしとこすって口をもごもごさせた。 「ん?」  彼女の口許に耳を近づける。 「仕切り直さないで」  彼女の腕が背中に回る。 「もう、火の雨が降っても、離れないからね」 「縁起でもねえな……」  二人、顔を見合わせてまた吹き出した。  雨はまだやわらかく降り続いている。   終わり  
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