あのひと

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 わたし、あなたを愛したい。あなたのことは誰よりも知っている。わたしなら、あなたをきっと全力で愛してあげられるから。だってあなたは、わたしだから。  鏡に口をつけた。ひんやりと冷たい、銀色のそれは全くの無味だ。あなたの目を見つめる。真っ黒な瞳の奥の奥、その中にどんな苦しい思い出が詰まっているか、わたしは全て知っている。嫌いだったその顔も、ここまで近づいてしまえば醜いも綺麗もない。今はただ、あなたの内がわだけに思いを馳せていられるのだ。 「つらかったね。頑張ってたよね、本当に頑張ってたよ。わたしは、あなたを愛している。ずっと、最後まで」  目を閉じた。あなたの手を握りたいのに、力を入れた指の腹は無機質な壁から一向に先に進まない。もう、これが鏡だとは思えなくなっていた。わたしとあなたの間に、とてもとても薄いガラスの板が張られてあるだけのような気がする。わたしはこれを越えることもできずに、ただ引き裂かれた恋人同士のようにあなたと泣いている。もう一度、キスをした。やはり、あなたの唇には感触も温度もなかった。  鏡に背を向け、わたしはひとり暗闇へと歩きはじめた。白い洗面所の光が、少し先の地面に背中から洩れている。カーテンを開け、夜の藍色の光を部屋に注いだ。ほんの僅かな光。すっかり重い腕で、ドアをから、からから……と横にずらす。真夏にしては涼しい風。正面からわたしの顔に向かって、流れ込んでくる。戻って、というにはあまりにもぬるすぎる抵抗だ。  意を決した。ここは十二階。広がる夜景を目の前に、わたしはベランダの手すりにぐっ──と、体重をかけた。 「何をしているの?」  背後からの、声。さっ、と背筋が冷たくなる。まさか。何故ここに人がいるのだ。わたし以外存在しないはずの部屋、真後ろに誰かがいる。振り返ることも出来ずに、わたしは固まった。待て。それは、今のは、わたしの声ではなかったか? 「死ぬの?」  わたしの声だ。間違いなく。すぐに首を後ろに回した。薄暗がりの中、青白い影が浮いている。だらけた白いシャツ姿の、わたしだった。わたし。……わたしが、確かにそこにいる。わたしと同じ目、同じ肩の、同じ服を着た人間が。いや、もしかすると彼女は……あなた、なのだろうか。 「わたしを置いて死ぬの?」  あなたらしきものは、切なげな目を潤ませて言った。わたしの顔のくせに、不思議とそこに気持ち悪さを感じない。ああ、確かにあなたなのだと強く実感した。もう非現実的なものがどうとか、そんなことは忘れていた。ただ胸が熱くなった。愛されたいあなたが、今目の前にいる。  ベランダから戻り、室内に一歩足を踏み入れた。あなたは動かない。じわり、じわりと距離を縮めた。近づけば近づくほど、あなたの輪郭ははっきりとしていく。無造作に束ねられた黒い髪、薄い茶色の瞳、乾いた薄い唇。あなたはわたしの姿そのものだ。ここには、ガラスの壁などない。ということは、あなたは、わたしに会いに来てくれたと言うのか。鏡の中から。  恐る恐る、肩に触れた。あなたの体温が手に伝わった瞬間、そこからびり、という電流が一緒に走ってきたような気がした。全身が震えた。ああ、あなたがいる。本当にあなたがいる。目頭が、熱い。神様、神様が与えてくださったのか。今、最後にわたしの体をしかと愛せるように、と。 「キスして」  あなたが言った。わたしの声で。わたしは迷わず、あなたの唇めがけて顔を近づけた。たしかに、粘膜の触れ合う軽い音がした。そして、柔らかくて温かい生きものの“動き”を感じた。 「愛して。たくさんたくさん、愛して」  腰に手を回す。遮るものがない空間で、あなたと鼻先をくっつけあっている。心から手足の先まで、小刻みにぶるぶると震えつづけた。目の奥を覗き込んだ。そこに、微かな光が見えるような気がした。それはきっと、わたしの瞳の光と繋がっていた。一筋の希望となって。わたしとあなた、ふたりの“人”として。    *  今、わたしのからだは興奮による汗や涙でぐっしょり濡れている。情熱で温められた液体はからだのあちこちから溢れて止まらないのに、内がわが干からびそうな気配はまったくない。今にも叫びだしたいくらいに昂っていた。あなたの肌は驚くほどにさらりと乾いている。ただ暖かな笑みを浮かべて、 「もっと、おいで」  そう、言っている。わたしはベッドの上で、何度も獣みたいに頭を振った。あなたを抱きしめ、互いに舐めあい、そして泣いた。 「つらかったよね」 「つらかった」 「ひとりでがんばってきたよね」 「がんばった」 「何がいちばんつらかった?」  あなたはわたしに囁いた。まるで物語に出てくるきれいなお母さんのような声で。  いちばん。いちばんは、選べない。ただ、自分とばかり向き合ってきたような人生だったと思う。周りから愚図やら出来が悪いやらと罵られ、劣等感に押しつぶされながら生きてきた負け組の小学生時代。執行部、合唱コンの指揮者、勉強。できないながらにもいろいろなことに無理やり挑戦して、「出来は悪いが、やろうとする姿勢は評価する」と言われた中学生時代。その姿勢のまま何でもやっていたら、すべてがうまくいった高校生時代。なんでもできる人間になりたかった。しかし、他人を見る目ばかりは劣化していった。嫉妬の対象、邪魔者、偽善者……そういうものとしか見られなくなっていったのだ。  そんな中で、つらかったことなどたくさんある。唯一の味方は自分だけだった。愛情に飢えていた、わたしはわたしのからだを然と愛したかった。肌の温度を感じながら。  それがたしかに、今できているのだ。あなたは「何がいちばんつらかった?」そう、聞いてくれている。涙で言葉を詰まらせながら、わたしは答えた。 「誰もわたしを本気で愛してくれないはずだってことが」 「そうだね。でも今は?」 「わたしがいる」 「わたし?」 「いや、あなたが……わたしでもある、あなたが」 「あなたでいいよ。その方がひとに愛されてるって感じられるでしょう」 「……うん、あなたが。あなたがいる」  あなたの胸に顔を埋めた。ふわふわとしたいきものの肌。他人の肌、そこにわたしの感覚はない、あるのは体温と鼓動だけ。癒しにまどろみながらわたしは不安を覚えていた。このままあなたの中に沈んでしまうのではないかと。また、あなたはわたしの中に戻ってしまうのではないかと。 「ねえ、あなたはいなくならない?」  目だけであなたを見上げる。あなたは寝ている状態から首から上を少し起こして、いとしさに満ちた瞳でわたしを見下ろした。 「出てきてしまった以上は存在し続けるよ」 「本当に?」 「もちろん、あなたが何度寝ても、起きても」  溢れたよろこびを、そのままあなたにぶつけた。柔らかな胸に頬ずりをする。あなたはすべてを優しく受け止めてくれるのだった。あなたはわたしのすべてを理解してくれている、わたしはあなたを疑う必要などないのだ。お互いの心の隅から隅まで、知り尽くして信じあっている関係。これはまったく同じ人間ふたりにしかできないことなのだ……。  散々狂喜乱舞したあとに、わたしはあなたに包まれたまま眠った。目が覚めたら消えているかもしれないという恐怖を、あなたの腕のぬくもりで薄め、思考とともにとろとろと溶かした。    *  あなたとの生活はかつてないくらいに楽しいものだった。双子よりも何倍も濃い関係のわたしたちは、まず朝に互いの身だしなみを整えあうことから始める。髪をとき、濡れたタオルで顔を拭く。鏡などは必要なかった。というか、気づいた時には洗面所の鏡の一面に新聞紙が貼り付けられていて、見えなくしてあった。 「鏡、あなたがやったの?」  ふたりで向かい合って朝ごはんを食べている時、わたしはあなたに聞いた。あなたはケチャップで汚れた口まわりを手で拭いてから、 「そうだよ」  と喋った。 「たしかに身だしなみに関しても、あなたがいれば必要ないだろうけど……なんで、わざわざ?」 「わたしがやきもちを妬くからだよ。あなたはわたしだけを見ていればいいの。他のあなたなんていらないでしょ」  わからない、と声には出さずに顔を歪めて苦笑いした。沈黙。ソーセージを咀嚼しながら、わたしはあなたの言葉を頭の中で何度か繰り返す。 「つまり、鏡に映るわたしはまた別のわたしだということ? たとえば今わたしが鏡の前に立てば、また新しいわたしが鏡から出てきて、この世界にいるわたしは合計三人になるの?」 「映ればどんどん出てくる、というだけの簡単な話でもないな」 「何か特別な条件があると?」 「まあ、そうだね。言ってしまえば、あなたがあなたに対して抱いている感情の数だけ、あなたは鏡から出てくることができる」 「……ごめん、もうわからない」 「わからなくてもいいよ。とりあえず、鏡はなるべく見ない方があなたのためだと思う」  不思議なものである。あなたはわたしのくせに、わたしよりも多くのことを知っていそうなのである。それは相手が摩訶不思議な存在なので、そのぶんの理解を持って出てきたのかもしれないのだが──そこに目を瞑れば、あなたは完全なわたしそのものであるのは確かだった。ほら、今同時に朝食を食べ終えた。口の中のものを飲み込む前に手を合わせてしまうところまで、まったく同じなのだ。  あなたが鏡から出てきてくれてから、わたしは久々に人間らしい生活を送ることができていた。カーテンを開け、陽の光を取り込み、料理や家事をし、あなたと語り合う。しあわせな暮らしだった、ひとりでいた頃とは真反対の暮らし。会社から貰った休職期間など、永遠に明けてしまわなければいいと思った。あなたと片時も離れたくはなかった。そもそも、離れられないような気がする。磁石のように互いのからだがくっついているのだろうか、あなたもわたしから離れようとはしない。だから、食材や生活必需品はなるべく宅配で頼んだ。どんどん家から出られなくなった、あなた以外の人間を自分の目には映したくなくて……。 「今夜も、聞かせてよ」  ぽっ、とキャンドルに火が灯された。部屋の照明を消す。キャンドルの甘い香りと柔らかなオレンジの光がふたりの間に広がった。ベッドに並んで腰かけ、テーブルの上のゆらめく炎を眺めた。 「そうだね。あと、何を話してなかったかな」 「うーん。会社でも上手くいかなかったって話は、詳しく聞いてないよ」  会社。ぎゅ、と心が締め付けられる。深呼吸をして、体から力を抜いた。わたしは、ぼんやりとオレンジの空気を見つめながら、呟くようにあなたに話し始めた。 「……いい人は何人もいたよ。でも、だめだった。ときどき怒られるのがほんとうにだめだった。わたしが悪いのはわかってるのに」 「だからこそ、でしょ」 「そうだ。せっかく、高校生になって優等生になれたと思った。だから社会人になっても優等生のままだと思った、わたしはやればできる子なんだって。自意識過剰だったんだよね、だから自分のミスをなかなか認められなかった。プライドの高さで」  手が、震えはじめる。すかさず、その上にあなたの手が重ねられた。 「ちょっとしたことで怒られても、プライドがずたずたにされた気分と、自分自身を否定されたような気分ですぐメンタルがぐちゃぐちゃになる。ぜんぶわたしのためなのにって思っても、その気分はずっと拭えない。そんな弱い自分に嫌気がさして、ああ、わたしは実はだめな人間で、小学生や中学生のときから何も変わってなかったんだって……」  あなたは、わたしの手をぎゅっと強く握った。目の奥が熱い。悲しみがこと、こと、と溢れてくる。 「わたしのような弱さを持った人間は、わたしの他にはいなかった。傍から見たら、何度か注意されただけで鬱になって、休職する雑魚としか思われなかったと思う。でも、実際はもっと複雑で」 「わかる。わかるよ」  それはそうだ。あなたはわたしだから──だからこそ、隣にいて話を聞いてくれるのが嬉しかった。安心した。 「怒られる度に思ってしまうんだ。わたしの顔がよくないせいで? って。ぜんぜん関係ないのに。でも、昔、顔のことでからかわれたことがあるから……思い出しちゃって。同期にね、可愛くて仕事もすぐ覚える要領のいい子がいたの。その子、ぜんぜん怒られないんだよ。何かやらかしても、ほんとに『注意されてるだけ』て感じがする」 「あなたは、綺麗だよ。わたしにはあなたの魅力がわかる。あなたが欠点だと思っている部分も、わたしなら長所として見ることができるから」  あなたの空いている方の手が、わたしの頬に触れた。わたしは、両方の目から涙をこぼした。あなたの目を見つめる。あなたはわたしと同じ顔をしている。腫れぼったい瞼、大きな鼻、変な形の耳。 「ほんとだ」  わたしはそう呟いた。 「ぜんぶあの子にはないものだよ。あなただけの素晴らしい顔だよ」  お世辞でもなんでもない。本当のことなのだ、だってあなたが言うんだもの。疑うところなど欠けらもない。  わたしはあなたとキスをした。そして抱きしめ、長い長い夜のあいだ互いを愛し、慰めあう。夜は毎日こうだった。嫌だったこと、死のうと思った原因となった思い出をすべてあなたに話し、踏み潰すように消していく。そして爽やかな朝を迎える──。わたしの中から、黒いものが消えていく。少しずつ、少しずつ。  しあわせだった。このまま社会に出ることなんか二度とせずに、あなたと消えられるならそれが本望な気がした。あなたとなら飢餓や暗闇に満ちた世界を超えて、しあわせな死にだって向かっていける。わたしはあなたを愛していた。わたしはわたしを、心から愛していた。    *  大きなティラミスが食べたい、とあなたが言い始めた。もちろんわたしも同じ気分だったので、ふたりでネットで材料を検索していた。しかし、ふと見つけた近所のスーパーのサイトで、考えてたものの何倍も大きなティラミスが売られていることを知った。それを見ているとたちまち今すぐにでも食べたくなった。大きなティラミスのセールは今日までらしい。わたしたちは悩んだ。外に出るべきか、と。 「ふたりで行く?」  あなたは、不安そうに首を振った。それはそうだ。外の世界はもう今のわたしたちには刺激が強すぎて、ちょっと出かけようという時にも恐怖が伴うということ。 「わたしは、だめ」  あなたの口調は少し強かった。考えたくもないが──それは、あなたがもとは鏡の世界の住人だから、というのと関係があるのだろうか。いや、単に怖がっているのだろう。マイナスな感情を見せるあなたは初めてで、わたしは珍しく自分に責任感のようなものを感じた。 「じゃあ、わたしだけでさっと行ってくるよ」  驚いた。わたしだって久々の外は怖いはずなのに、でも怯えているあなたを見ると不思議と強くなれる。普段助けてもらっている分、たまにはしっかりしなければという気になっているのかもしれない。 「それは……本当に大丈夫?」 「ティラミスだけだよね。待ってて」 「ねえ、どうしてもつらくなったらすぐ帰ってきてよ?」 「大丈夫だよ。たしかに人の多い場所に行くのは怖いけど。でも、すぐまた慣れると思う」 「そんなに今食べたいの、ティラミス」 「食べたい!」  わたしは笑った。今日はあなたのためならなんでもできる気がした。あなたは喜ぶはずだ。だって、わたしの大好きなティラミス──しかも特大の、なんだから。  できるだけ地味な格好で、マスクを付けてわたしは外に出た。案の定、スーパーに入った時点で冷や汗はびっしょりだった。四方八方、どこかしらに人がいる空間。見られているわけでもないのに、ひたすら心を刺してくる人の影。がやがやとした環境、商品、広告、情報量のなんと多いこと──目眩がしそうだった。なんとかこらえながら、ティラミスを探す。ぐらつく視界の中でかろうじて見つけ、ティラミスを手に取ろうとした……その時だった。 「木下ちゃん」  真横から、声。きん、とわたしの右耳に響いた。わたしの名……そうだ。わたしの名。心臓が暴れはじめた。誰だ。だ、誰。わたしを呼ぶのは。  ぎぎぎ、と首を動かした。そこにいたのは、職場の先輩の、染嶋さんだった。 「木下ちゃんよね」  はい、と掠れた息とともに口から吐き出す。近い。眩しい、染嶋さんの明るい茶髪が。白い肌にくっきり浮かぶアイメイクが。紅い唇が、両耳に揺れるゴールドのイヤリングが……。化粧の、匂い。鼻をつく、他人の匂い。 「大丈夫なの? ちゃんと休んでる? 来月中に本当に復帰できそう?」  染嶋さんの眉が心配そうに垂れている。声にもその気持ちが現れているようだったが、本心は──知らない。だって彼女は他人なのだから。手が震えはじめる。わたしを見ないでほしい。わたしに染嶋さんのことは欠けらもわからないし、染嶋さんにもわたしのことがわかるわけがない。 「えっと……」 「鬱って言ってたよね。病院にはかかったんだっけ? 福祉機関とか、そういうのはちゃんと利用してる? 私のことだって頼ってくれていいんだからね。仕事のことも今は心配しないで、でも気になるならいくらでも教えるから。電話でもメールでもしてよ」  ああ、ああ。優しいのだ。染嶋さんは、ずっと! わたしが会社にいた頃もそうだった。何かと手を焼いてくれた、だからこそいろんな後輩たちに慕われていた。でも、わたしは純粋に彼女を尊敬することができなかった。彼女が人間として素晴らしすぎるあまり、わたしはますます自分の至らなさを実感することだってあった。嫉妬にだって駆られた。しかし、彼女はそんなこと知りもしない。後輩たちに囲まれている彼女は、ひとりで勝手に傷ついているわたしにまで目が届かないのだ。  今、このスーパーでわたしと彼女は一対一だ。わたしの途端に溢れ出した黒い感情に、彼女は触れようと思えば触れられる。しかし、それをわたしは許さなかった。それをさせていいのはあなただけだ。他人ごときに触らせてなるものか。震えが酷くなった。 「ねえ、大丈夫──」  染嶋さんの手が伸びてきた時、わたしはカゴを床に放り出した。そして走った。一目散に、出口へと。触らせるものか、あなた以外の人間に。わたしのことなど何も知らない、他人ごときに。染嶋さん、どうして貴方はそんなに人に優しくしていられるのか。どうして、そこまで。こんなわたしにまで。そこまで……。  くらくらとしていた。家に帰りついて、真っ先にあなたの腕に飛び込んだ。あなたはゆっくり、ゆっくりとわたしの背中を撫でていた。ひぃ、ひぃと細い声を荒い息に交え、わたしは全身を上下させた。手の震えは、しばらく止まらなかった。    *  外に出たのが悪かったのかもしれない、と本気で後悔し始めていた。わたしは、最初の頃のようにあなたに本気で甘えることができなくなっていった。外の世界に触れたせいだろうか、わたしは時々あなたを疑った。あなたという、存在を。あなたとは何か? 『あなたとは、わたしだ』。前なら迷わず答えられたはずの問いを、何故か考え込んでしまう。そして、染嶋さんの顔、声が頭にこびりついて離れない。まるで夏の向日葵のような彼女のすべては、私にはあまりにも眩しすぎた。あの人がわたしの心を一瞬でぐらぐらと揺さぶったのは確かなのだ。いい意味で? 悪い意味で? もちろん、悪い意味でだろう。  問題は、夜のことだった。いつものように昔話をしたあと、わたしたちは互いのからだを使って慰めあう。その時、冷静にあなたの顔を見るようになってしまった。客観視点などなかったはずなのに。あなたの目はやはりやたらと腫れぼったいし、鼻はむかつくほどに大きいし、耳の不格好さは愛嬌のかけらもない。時々、蔑んだ目であなたを見下ろした。うわ、この角度から見たらとんだ不細工だな、この人は……なんて。  日に日に、あなたに対する苛立ちのようなものは積み重ねられていった。そんなわたしの心情の変化を察しているのか、あなたはわたしに時々媚びているような、潤んだ目をすることがある。ますますわたしを苛立たせた。誰があなたのような気持ち悪い女を愛すというのだ。あなたから話しかけられることさえ煩わしくなった。それでも、共存していた。当たり前のように。  とうとう、わたしはあなたの手を払い除けた。慰めなどいらなかった、心底気持ちが悪かった。吐き気がした、その喋り方、体さえも。わたしは身だしなみを整えなくなったし、食事もよく抜かすようになった。あなたは悲しそうな表情をするも、しつこく付きまとうということはしてこなかった。  ただ、共存している。  それすらも耐えきれなくなった。だから、ある夜に殺した。何度も何度も力任せに研いだ包丁で。滅多刺しにした。あなたは目を見開いたまま、静かにわたしに刺されていた。あたたかい血しぶきを浴びた、生の人間のものだった。他人のものだった。やりきった、という達成感のもと、わたしはぱたりとソファに倒れ込んで眠った。  しかし、朝には血のあとは欠けらも残っていなかった。あなたは何事も無かったかのように生きていた、昼はただ共存した。同じ部屋にいるというだけ。夜、また殺した。すべてが憎たらしかった、こう叫んだ。 「お前には何もない、何もない、何もない、何もない」  何もない。何もできない。何もできなかった小学生時代。無理して何かをやり始めた中学生時代。奇跡的に何でもできた高校生時代。やっぱり何もできなかった今。そして、ずっと醜い、顔。性格。 「気持ち悪いんだよ。傲慢な豚め。たまたま高校の時は調子良かったんだ。図に乗りやがって、お前は無能だよ。その顔じゃ誰からも愛されだってしない」  刺す。言葉でだって刺す。お前がなるべく、いちばん傷つくような言葉で。 「嫉妬ばっかりで。劣等感ばっかりで。前向きに進もうとしない。いつだって自分がもっとも可哀想だと思い込んでいる。他人を心から尊敬できない。何もできないくせに、他人に負けると拗ねて潰れる」  お前の顔は動かない。内心傷ついているのはわかっている。もう死にたいくらいつらいんだろう、なあ。ざまあみろ。でもなんで、なんでお前は死なないんだ? 腹が立つ。お前はやり返してくることもない。なんで生きてるんだ? マゾなのか?  血まみれの遺体をベッドの上に放った。わたしはソファで眠った。何度、何度殺しても、また同じ朝から繰り返した。    *  夜、あいつを殺す前。鼻の上が痛い。ニキビができたようだ。気になった、だから鏡を見にいった。新聞紙が貼られてあった。あいつがやったのだと思い出した途端、わたしはそれをびりびりと破いた。  ──驚いた。鏡に映ったのは、なんとあいつだった。いや、ニキビがある。わ、わたし……なのか? ぞわっ、と背筋に、大きなムカデが走ったような嫌悪感がのぼってくる。そっか。あいつはわたしだった。 「はは、はは」  そんなことも忘れていたのか。滑稽だった。自分とは何か、ということすら忘れるなんて。あいつのことしか考えてなかった。すぐに笑いは消えた。  ……あいつなのだ、わたしは。  叫んだ。まさか。あの醜い顔の女が? わたし? あのむかつく思考の人間が、わたし? 素晴らしい人間とは、程遠いじゃないか。信じたくない。嘘だ、嘘だ。狂ったように鏡を拳で叩いた。鏡の中のあいつは、やり返してくる。なんだてめえ、てめえの分際で。黙って殴られてろよ。頭を振った。ぎゃあぎゃあ喚いて叩き壊そうとした。鏡に唾を吐いた。走って、わたしはキッチンに包丁を取りに行った──手に取り、振り返った時だった。  あいつは、もう鏡から出てきていた。  血走った目であいつを見るわたし。血走った目でわたしを見るあいつ。双方、手には包丁。  えっ?  暗い夜。月明かりが部屋の輪郭を微かに浮き上がらせている、ここはわたしのワンルーム。ベッドに座っている、別の『あいつ』を見た。普段、ただ大人しく殺されているだけのあいつだ。あいつは、虚ろな目でわたしたちを見ていた。今、わたしの部屋にはわたしが三人。三人だ。    頭がぐちゃぐちゃになった。大人しいやつを殺すことはできる。でも、包丁を持ったやつを殺せるかはわからない。手が震えた。かつてないくらい、大きく。相手が、わたしに向かって突進してきた。包丁の刃をこちらに向けて。 「いやだ」  わたしは逃げた。怖かった。椅子を持ち上げて、追ってくるあいつにぶつけようとした。あいつは椅子を跳ね除けた、血走った目で向かってくる。部屋の中を走り回った。わたしは泣き叫んでいた。足元がふらつき、ベッドに倒れ込んでしまう。すかさず、あいつはわたしに馬乗りになった。喉元に突き立てられる包丁。あいつの手を、わたしは震える手で受け止めた。 「ころさないで」  あいつは、はじめてわたしの言葉に答えた。 「お前には、何もない」 「わかったから」  喉がちぎれそうだ。わたしは、顔を横に向けた。そこには──『あなた』が座っていた、切なげな目でわたしを見ていた。  わたしは思い出した。ある日、あなたと朝食を食べていた時のこと。あなたが、 「あなたがあなたに対して抱いている感情の数だけ、あなたは鏡から出てくることができる」  と言ったこと。その、意味を。  ああ、『あなた』は自己愛だった。そして、『あいつ』は……自己嫌悪。相反するふたつの感情。すべて、わたしがわたしに対して抱いていたものだ。ほとんどそのふたつだったと言っていい。ずっと死にたかった。でも、どちらも存在している限りは死ねなかったし、気持ちよく生きることもできなかった。何度このふたつの感情に苦しめられただろうか。そして現に、『他人』となったふたりに苦しめられている。包丁を握る手を抑えながら、わたしは涙目でふたりに訴えた。 「わたし、どうすればいいの。死ねばいいの?」  「だめ」「死ね」  同時に答えた。また叫び出したくなった。だが、もう絞り出されるような呻き声しか出てこない。わたしはあいつの手によって死んでしまいたいと思っているし、同時にあなたに助けを求めていた。愚かだとわかっていても。必死だった、ああ、でもずっとこの状態で生きてきたのだ、わたしは。小学生のころから、ずっと。  でも、もう手が限界だった。あいつの力が、少々強すぎるようだ。あなたの潤んだ瞳を見つめたまま、わたしは抑えていた手を滑らせた。一瞬、だった。  音がした。携帯の、着信音。  ぎん、ぎんと部屋に響く。現実の音だった。音にかき消されるように、あなたとあいつの影が薄れていく。包丁を奪い取り、投げ捨てた。急いで飛び起きる。ああ、今響いている! わたしの部屋に、わたしの世界に。大音量の携帯の着信音が。他人の、『第三者』の音が!  上体を起こした。タンスの上にある携帯目がけて、わたしは四つん這いで進んだ。携帯が、光り輝く蜘蛛の糸に見えた。わたし以外の、存在があそこにある。わたし以外の世界が。「わぁん、わぁん」あまりにも大きな音で、部屋がとてつもなく揺れている。音の風が強すぎて、なかなか前に進めない。死にものぐるいで、わたしは携帯に手を伸ばした。あのひとのもとへ行くのだ。あのひと、あのひとのもとへ行かなければならない。あのひとの声に、わたしは触れなければならない。泣き叫んだ。からだがやめて、やめてと喚いている。頭が、がんばってと囁いている。筋肉をも引きちぎろうと、わたしは手をのばした。あと少し。あと少し。あと少し──。  押せた。ボタンを。声が、聞こえた。 「もしもし? 木下ちゃん」  嵐が、止んだ。開け放した網戸から、やわらかい風が舞い込んできた。
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