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「座れた?」
思いがけない彼の言葉に、私は顔をあげた。
「え?」
「ひとり分、座席空いたでしょ。座れたかなぁって思って」
はにかんだような顔で彼が言う。
「え、わ、私のため?」
目を丸くする私を見て、彼がふっと小さく笑った。
それから握った拳を口元に当てて、目をそらす。
「まぁ、席を譲ればって話なんだけど、話しかけるの恥ず……」
え? え? え?
言葉の意味を理解すると同時に、頬にじんじんと血液が集まってくる。
耳の奥に入り込んでくる雨の音が、うるさいくらいの鼓動と混ざり合う。
目の前の彼は照れくさそうにしながらも、私の視線を捉えて今度ははっきりと笑顔になった。
長く続いた梅雨空にふとのぞいた晴れ間のような、そんな笑顔に目が眩む。
「あ、やべ、時間」
改札前に備え付けられたアナログ時計を見て彼がつぶやく。
「部活の朝練があるんだ。雨だと体育館で筋トレしかできないんだけどさ」
彼は濡れたレインコートを小さくたたんで袋に入れ、リュックに突っ込んだ。
「ありがとう。これ、洗って返すから」
右手に持ったハンカチを軽く掲げてみせると、彼はそのまま背中を向けて走って行ってしまった。
「あっ、名前……」
呼びとめた声は届かず、彼の背中はすぐに見えなくなる。
返すって、どうやって? まだお互いに知らないことばかりだ。名前も、学校も、連絡先だって。
でも、不思議と不安はなかった。
またすぐに会える、そんな気がするんだ。
「私も遅刻しちゃう、急がなきゃ」
──きっと、晴れても、雨が降っても。
(了)
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