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「おう、また落ちたか田辺」
「そうなんですよ~」
大学の廊下で、角を曲がろうとすると千晶の声がした。田辺千晶。彼女のフルネーム。
千晶は教授と話しているようだ。
「ま、でも田辺のことだから大丈夫だな。まだまだチャンスはある。諦めなければなんとななるだろ」
「あはは、その通りですね」
「全くお前ってやつは、笑ってる場合か」
教授の言葉に、一際大きく千晶が笑う。なんで気付かないんだろう。千晶だったら大丈夫だなんて言うんだろう。
誰だって、こんなの大丈夫なはずないのに。
「え、千晶ちゃんまた落ちたの? 大丈夫?」
廊下の向こうから歩いてきた千晶の友達が話し掛けている。
「聞かれちゃったか~」
へらへらと千晶は笑っている。平気そうな顔をして笑っている。なんでもないって顔をして笑っている。
「夏休み入るまでには決まるといいんだけどね」
「だね。それまでには決まるでしょ。大丈夫だよ、千晶ちゃんなら」
出ていこうかと思った。出ていって、千晶と引き離そうかと思った。
私はそこで立っていたままだった。
千晶の友達に当たっても仕方ない。
「もうすぐお昼だしお腹空いたよ。千晶ちゃんも行く? 今ならまだ空いてるよ」
「おー、行く行く」
「そうだな。腹が減ってると思考も鈍るしな。行ってこい行ってこい」
教授が千晶の背中をいかにも親しげに叩く。私の千晶に気安く触らないで欲しい。千晶はどこかみんなに可愛がられがちなところがある。猫みたいに。
「痛い。力強いっす」
「おお、すまんすまん」
二人で笑い声を上げる。なんで男なんかに触られて笑っていられるんだろう。無理に? それとも自然に?
千晶は就活のことも教授に触れられたことも忘れたように友達と連れ立って歩いてく。何かを話して楽しそうに笑っている。後ろ姿を私は見送る。また誰かが千晶に声を掛けた。千晶は当たり前みたいにそれに答える。千晶は知り合いが多い。私と違って。
猫みたいに自由な千晶が好きだ。だけど、私以外の人と笑って話しているのを見るのは少し、辛い。独り占めしたいと思ってしまう。誰も知らない千晶を知っているだけでも幸せだと思うのに、感情が抑えきれないときがある。
教授がこっちに向かって歩いてくる。私は顔を引っ込めて踵を返した。千晶のことなんて見なかったことにして、そういうフリをしてさっきから普通に歩いていたみたいに千晶とは逆方向へ歩いていく。
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