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だから私は猫にならない
声が出なかった。
彼女は本気だったのだ。
猫用のキャリーバッグの前で、私はただぺたんと床に座り込んでいた。
キャリーバッグの中から、その猫はじっとこちらを見ている。初めてうちに来たにもかかわらず、人見知りすることもなく、怯えたりすることもない。ただ大人しくリラックスしている証の香箱座りをしている。薄い茶白の毛皮は彼女のあの猫っ毛を彷彿させる。
猫は私を上目遣いで見て、甘えたように鳴いた。私はキャリーバッグを開ける。猫はするりとそこから出てきて私の足を撫でるように身体を擦りつけた後、日の当たる窓際に行ってしまう。あまりにも慣れた様子で。まるで、以前からこの家で暮らしていたように。
ぽかぽかとした春の日だ。カーテン越しに差し込んでくる光が彼女のふわふわの毛を照らす。背中側の茶色い毛が金色に輝いているように見える。彼女は音も立てずに座って、太陽の光を浴びている。まるでこの家にいるのが当たり前のように落ち着いる。
私はその様子をしばらく眺めていた。信じられなかった。けれど現実だ。
私はふらふらと彼女に近付いて、その背中を撫でた。ふわふわの猫っ毛だ。あの、猫っ毛だ。顔に手を伸ばすと、彼女はふんふんと私の指先の臭いを嗅いだ。
猫みたいだ。
猫だ。
私は彼女を撫でる。顔の辺りを撫でると、彼女はうっとりと目を細めた。こんなだっただろうか。彼女は。
人間であったときから。
しばらくそうしていると、突然飽きたようにふいとそっぽを向いてしまった。
彼女だ。
彼女は毛繕いを始める。私のことなんか、もう目に入ってもいないように。
私は彼女から離れて、彼女を連れてきてくれた人が持ってきた封筒を開けた。説明を受けたことと裏付けるような書類が入っていた。
彼女は、この猫は、千晶だ。
「千晶」
呼び掛けると猫は私の方を向いた。
わかっているんだろうか。理解しているのだろうか。
猫になってしまった人が人間だったときのことを覚えているのか、人の言葉を理解しているのか、それは誰も知らない。猫になった人が元に戻ることは出来ないからだ。
千晶だった猫は私の言葉をわかっているのかわかっていないのか、大きな口を開けてあくびした。
千晶と一緒に届けられた書類には、千晶が猫になったことが書かれていた。私は、ただそれを握りしめた。
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