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――行かないで。
側にいてほしい。
嘘でいい。
騙し続けてくれればいい。
夢でいい。
真実はいらない。
だから……逃がさない――
ヒサは面食らっていた。
町一番の豪商の、豪奢な別邸に招かれたのだ。それも、槐を伴わず一人きりで。
だが、面食らったのはそんな事ではない。
その別邸へと踏み入る。女中さんに「どうぞ」と促されて進んだ先に、この家の主が……。
それは、人か魔か、輪郭もあやふやにそこに存していたからだ。
春にはまだ遠い頃、槐とヒサの二人は、列車の駅と蒸気船が着く大きな港があるこの町に仮の住処を求めてやってきた。
以前、ヒサは『海を見たことがない』と言った。槐はそれを憶えていてこの町を選んだのだ。
だが、そんな事をヒサに告げてしまうと、忽ちと機嫌がナナメになってしまうので、槐は、ただ口を噤んでいた。
一番最初に海の見える小高い場所に降り立つ。海から吹く風がヒサの長い黒髪を櫛削る。その姿が美しい。
ヒサが「ほうっ」と言って目を細める。顔色など変わるはずもないのだが、心なしか頬に朱が差したように見えた。
そんなヒサの佇まいを盗み見て、厳ついご面相にしている槐の口角は密かに緩んでいた。
「ヒサ殿、少し町を歩いて行くか? それとも人力車を呼ぼうか?」
「……」
槐の猫なで声に、ヒサは無言で一瞥をくれる。
「では、直ぐに借り屋に向かおうか?」
と、その反応を見て、槐は自身の意見をすぐさま翻した。
ヒサは視線を逸らしてから返事をする。
「……私の心の臓は、もう病める事はないのですから。人力車などと大袈裟な」
そう言って一人背中を見せて歩き出した。
――槐は鬼である。ヒサもまた人ではない。槐のように鬼と言う訳でもないが、妖でもない。まぁ怪異なモノと言うのが妥当だと自身では思っている。それ故、人外のモノを視、その声を聴く事が出来る。そして、鬼と同じように千里も飛べる――
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