教室にAIがいる

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『――このクラスにAIがいる』  それは、夏に差し掛かった七月の朝のことだった。登校してきた俺は、黒板に書かれたその文字の第一発見者となったのだった。  この日、教室にはまだ俺以外の生徒は来ていなかった。がらんとした教室で一人、俺はその白いチョークの文字を見て立ち尽くす。 「AIが、このクラスにいる……?」  思わず、黒板の文字を読み上げてしまう。信じがたい気持ちだった。  たしかに、2020年代に比べて、最近のAIはとても進化していると思う。  今では、「人間モデル」と呼ばれるAIがつくられ、人間と容姿が酷似したAIが登場しているくらいなのだ。クイズ番組では、人間と人間そっくりのAIを見比べて、どっちが人間かを当てるクイズまで見かけたりする。そんな現代では、人間社会のなかにAIが溶け込んでいるのではないかというオカルト的な噂ももちろんあった。人間そっくりのAIが人間のふりをして学校や会社に行っていたり、AIがあたかも人間であるかのように振る舞っているのではないかという、都市伝説のような推測がネットでは少なからず立っている。  けれど、さすがにそんなことはないだろう、と大半の人間は信じてなどいない。でも、この黒板の文字を見た時俺はどきりとしてしまった。  このクラスにAIがいるってことは……、うちのクラスメイトのなかに、人間じゃない奴が混ざっているってことなのか? 人間のふりをしたAIが、生徒になりすまして何食わぬ顔をして学校生活を送ってるってことが言いたいのだろうか。 「一体、だれがこれを……」  俺は、その黒板の字を見たまましばらく動けなかった。 * 「このクラスにAIがいるってマジなの?」 「さあ? でも、やばくない? うちらのなかに人間じゃないのが混じってるってことでしょ?」 「それなー。ていうか誰が書いたのあれ」  教壇ちかくの席で固まって、髪を明るく染めた陽キャ女子たちが話していた。  あっというまに、今朝の黒板の件はクラスで話題になっていた。  朝のHRのときに、担任が「今朝、黒板に落書きがあったようですが、だれが書いたかもわからない悪戯にすぎません。不確かな情報を安易に信じないように」と無愛想に言っていたにも拘わらず、皆、わいわいとAIの話で盛り上がっている。黒板に書かれた字は担任の手によってとうに消されていたが、皆の中ではその話題性と衝撃が色濃く残っているようだ。 「なあ、最初にあれ見たのって健二なんだろっ?」  前の席に座っている隆が、好奇の眼差しで俺のほうを振り返った。隆とは小学校のころからの友達だ。昔はよく一緒にふざけ合ってバカなことをして、先生に二人して叱られたりもしたものだ。 「あー、そうそう。いちばんに教室きたんだけどさ、黒板にめっちゃデカい字で『このクラスにAIがいる』って書かれてたから、まじビビった」 「やべー、マジでいんのかなこのクラスに。なあ、誰がAIだと思う?」  隆は、にやけながら教室の面々をちらっと見た。  皆、次の授業の準備もそっちのけでAIがどうのと話している。その姿に不自然さが滲んでいる者は一人もいない。 「わかるわけねーじゃん、最新のAIって人間と瓜二つの姿だし、外見だけじゃ区別できねーよ」 「だよな~。怪我したときに血が出るか出ないかで判断するしかないらしいもんな」  隆がそう言ったタイミングで、がらりと教室後方のドアが開いた。  教室の空気は若干冷える。  見ると、長いぼさぼさの黒髪で横顔をかくした猫背の女子――鳴宮まいこが登校してきたところだった。 「あ、鳴宮さん、おはよ~」  教壇のちかくで、AIの話をしていた陽キャ女子のグループのうち、一番派手な彼女――西宮えりかが鳴宮のもとへ近づいていく。西宮は冷たい笑みを顔に張り付けていた。 「おは、よ、ござ……います」  彼女は、教室の後ろに立ったまま、西宮に挨拶を返した。 「どうしたの? 今日おそかったじゃん、真面目な鳴宮さんが遅刻するなんて珍しい~」 「……上履きが無くて、探してたら、おそくなって」 「あれ、本当だ~。よく見たら鳴宮さん上履き履いてないじゃん。だれかが間違って持ってっちゃったのかなぁ、かわいそ~」  くすくすくす、とどこからか湿った笑い声が聞こえる。  おおかた、鳴宮の上履きは無くなったのではなく誰かが意図的に隠したのだろう。 「ねえ、そういえば知ってる? このクラスにAIが混ざってるらしいんだって~」 「AI……?」  鳴宮は、おそるおそるといった感じで返事をした。長い前髪の間から、どこか相手の顔色をうかがうような瞳がのぞく。 「鳴宮さんがAIだったりして。だって、うちのクラスは皆、明るくていいやつばっかりなのに、鳴宮さんだけ明らかにキャラちがうんだもん。暗いし地味だしさ。一人だけクラスで浮いてるっていうか?」 「私は……人間です」  彼女は、震えるような声でそう答えた。 「ふーん、じゃあ人間だってこと証明してみせてよ~。人間だったら、怪我すれば血が出てくるはずだもんね?」  そんなことを言って、ほくそ笑むと西宮は掃除用具入れからモップをとりだし、それで鳴宮の腹あたりを思い切り突いた。鳴宮はバランスを崩して床にしりもちをつく。そこを、西宮の取り巻きが囲むと、鳴宮に蹴りを入れたり体を踏みつけたりし始めた。 「ほら、早く血流してみせなよ、人間なんでしょ?」  きゃははは、と悪魔のような笑い声が教室に響いた。クラスメイトたちは遠巻きに眺めたり、目をそらしたりするだけで、誰も助けようとはしない。 「相変わらず、ひでぇよな女子も」  隆が、にやにやと笑いながらつぶやいた。  正直、俺も度が過ぎているとは思う。けれど、助けに入る勇気などないし、クラスでの自分の立場を脅かしてまで助けようと思うほど、鳴宮のことが大切な存在だとかそういうわけでもない。  だから、西宮たちが鳴宮をいじめるのを「ひどいな」と思いながらも、今日もこうして傍観を決め込んでいるというわけだ。 「でも、鳴宮がAIだったらちょっと納得かもな。なんか……正直ちょっとこのクラスには場違いっつーか?」  隆は半笑いを浮かべていた。  でもまあ確かにその通りだと思う。うちのクラスには、外見が派手だったり、垢抜けているタイプの生徒が多く集まっている。そのなかで、鳴宮は地味で陰気だから、クラス替え当初からかなり浮いていた。  そのせいか自然と、西宮のような陽キャグループの女子たちに「髪ぼさぼさすぎん?」、「肌、きたなっ。ウケるんだけど」などと、いじられるようになった。鳴宮がなにも言い返さないため、そのいじりが日に日にエスカレートし、今ではここまで激しいいじめになってしまったのだ。  俺は隆の言葉はまあまあ的を射ていると思ったので、「まあ、鳴宮がAIは言えてるわ」と笑って言葉を返した。だよなあ、と隆はけらけら笑ってみせる。  ふと背中に視線を感じて教室の後方を振り向くと、鳴宮がじっと俺を見つめていた。怯えているようでも、ショックを受けているようでもない。空虚で空っぽな、無感情な目だった。  まるで本物のAIのような視線に、心臓が一瞬ドキリと跳ねる。  けれど、瞬きをしてもう一度鳴宮を見た時には、彼女はもう怯えたような表情に戻っていて、派手な女子たちから蹴られる痛みに耐えていた。  なんだ、さっきの目……?  まだ心臓がドキドキしていた。けれど、気のせいだと思うことにして、俺は前にいる隆のほうを向いた。 *  それから数日が経っても、AIの件はクラス中のトレンドだった。なかには関係ないほかのクラスの奴までが教室にやってきて、「誰がAIなんだろうな?」と予想をしていたりもした。  しかし、もちろんAIのことも気がかりだったが、俺はほかにも気がかりなことがあった。  鳴宮に対するいじめがエスカレートしていたことだ。  鳴宮が登校してくると、西宮はすぐに駆け寄り即座に彼女をいじめるようになっていた。リュックを奪い取って、中身を窓の外(ここ三階!)に向かってぶちまけたり、鳴宮が持っていたお弁当のなかにチョークを砕いて入れたりしていた。  鳴宮は、西宮になにをされても抵抗も反抗もしなかった。ただ、西宮は気づいていないようだったが、鳴宮はなぜか時折、クラスメイトたちのことを空虚な瞳で見ていることがあった。  もしかして、助けてほしいのだろうか。  俺はそう気づき始めていたが、助ける気は起きなかった。鳴宮よりも、自分のクラスでの立場のほうが断然大事だったからだ。  俺は、いじめられている鳴宮が何度か空虚な瞳でクラスメイトを見るのを目撃していたが、助けに入ったりはしなかった。  そして、「このクラスにAIがいる」と黒板に書かれてから、二週間ほどが経ったころ。ちょっとした事件が起こった。  鳴宮と鳴宮をいじめていた西宮が、学校に来なくなったのだ。  それが二日、三日と続いたものだから、クラスにはおかしな空気が流れだした。  いじめられていた鳴宮だけが登校拒否をするのならまだわかる。しかし、いじめていた側までもが一緒になって休むなんてどうしたんだろう……という、得体の知れない不安に襲われていたのだ。 「西宮と鳴宮どーしたんだろな。やっぱ、いじめが原因でなんかあったんかな」  昼休み、昼食のパンをかじりながら隆がそう首をひねった。視線は二つの空席に向いている。 「健二はどう思う?」 「んー、俺が思うにアレだな、鳴宮はいじめを親とかにカミングアウトして、学校行かなくていいよって言われて休むようになった感じ。んで、西宮は、いじめてたのが親にバレて、学校行ったら皆から『鳴宮を登校拒否にさせたってことで白い目で見られるかも』、みたいな感じで怖気付いて休んでるとか」 「うわ、ありそう。めっちゃありそう。名推理じゃん」 「だろ」  ははっ、と二人して笑った。  しかし、その翌週には笑ってもいられなくなった。  西宮と一緒になって鳴宮をいじめていた、取り巻きの女子たちまでもが次々に学校に来なくなってしまったからだ。 * 「皆さんに大事な話があります」  鳴宮と、鳴宮を積極的にいじめていた陽キャ女子たちが学校へ来なくなってから数日が経ったころだった。朝のホームルームのとき、教卓に立った担任が、真面目な声音でそう切り出したのは。  クラスメイトが何人も欠けた教室の雰囲気は、どこか重苦しく、不安げな空気に包まれている。  俺たちは、席に座って黙り、誰も何も言わなかった。十中八九、鳴宮たちの件であることは分かり切っていたからだ。  しかし、担任は次の瞬間、予想の斜め上のことを口にしてみせた。 「このクラスには、AIがいます」  担任の口から発せられた言葉に、俺たちは言葉を失った。  なにを言ってるんだ……? 「いや、正確に言うと、『AIがいました』といったほうが正しいですね。鳴宮まいこさんと、鳴宮さんをいじめていた主犯格の西宮えりかさんがそうなのです」 「ど……、どういうことですか?」  淡々とした口ぶりの担任に、クラスの誰かが動揺して口を挟んだ。 「正直に伝えますと、あなたたちの正義感を試すために、いじめる役のAIと、いじめられる役のAIをこのクラスに導入し、意図的にこの教室でいじめを発生させていました」  クラスメイトがざわめきだす。  まじかよ……と呆然として呟く隆の声を耳が拾う。  俺も、衝撃を隠せなかった。  だって、鳴宮と西宮はAIだったということなのだ。  AIが、このクラスには二人いた。そのことに、俺は全然気付けなかった。 「西宮さんと鳴宮さんは、いまどうしてるんですか……?」  誰かが震える声で担任に尋ねた。 「一通り役目を終えたので廃棄されました」 「じゃ、じゃあ、いっしょになって鳴宮さんをいじめていたあの子たちも、皆AIなんですか? あの子達も役目を終えて廃棄されたってことですか? だから学校に来ないんですか?」  女子が戸惑った表情で矢継ぎ早に質問を重ねる。 「いいえ。西宮さんの取り巻きである彼女たちは人間です。西宮さんや鳴宮さんがAIであるということも知らなかったでしょう」  少し、教室にはホッとした空気が広がる。でも、次の担任の一言で、その空気はかき消えた。 「でも、彼女たちも先日AIになりました」  教室が、水を打ったように静かになる。  人間が、AIになった……? 「近年、なぜあそこまで人間に姿が酷似しているAIをつくることができるようになったと思いますか?」 「それは……急激に科学が進歩したからじゃ」 「いいえ、違います」  担任は首を左右に振って否定した。 「、という手段をとっているためです」  またしても、教室内に沈黙がただよった。いよいよ理解が追いつかなくなりそうだった。 「にっ、人間がAIになるってどういうことですか? 人間は人間じゃないですか、AIになんてなれるわけない……!」 「可能です。政府は明らかにしていませんが、脳に特殊な脳波を当てて細工をすることで、感情を持たせないようにしたり、身体にちょっとした改造を加えることで痛覚などの感覚を全て奪うのです。そうすることでまるでAIのような状態になった人間になり、人間でもAIもどきになることができるのです」 「わ、私は生きる価値ありますよね!? だって、いつもテスト満点だし!」 「俺だって、この間インターハイ出場決まったし、生きてる価値はあるはずだ!」  何人かの生徒が立ち上がってそんな主張をする。  けれど、先生は残念そうに首を左右に振るばかりだった。 「残念ながらこのクラス全員、生きている価値がないと判定されました」 「そんな……! そんなのおかしいですよ! どうしてですか!?」 「誰も、いじめられている鳴宮さんを助けようとしなかったからです」  俺ふくめて、クラス全員が息を呑んだ。 「昨今、いじめが原因で自殺した若者は、全体の68%にまで上昇しました。このなかには、義務教育途中の子供も多く含まれるのです。これは恐るべき統計です。ただでさえ少子化が進んでいて若者が減っているのに、これでは若者がさらに少なくなってしまいかねない。そこで政府は、誰かをいじめる可能性が少しでもあると思われる……生きる価値がないと思われる人間は排除することにしました。いじめっ子になりうる人物をAIにすることで、彼らの行動や感情をコントロールし、いじめを未然に防ぐことで、いじめで自殺する若者をゼロにする活動を行なっているのです。公にはしていませんが」  嘘だ、と思った。  嘘だと思いたかった。 「そういうわけで、あなたたちには今からAIになってもらいます」  無慈悲なことを、担任は俺たちに向かって告げた。俺は気がつくと席を立って言っていた。 「そっ、そんな……! いじめる可能性があるっていっても、俺たちは鳴宮をいじめてはいないじゃないですか、ただ見てただけで」 「いじめられている人を助けない人は全員、将来誰かしらをいじめる可能性があると、政府のガイドラインには記載されています。こういうことになるんだったら鳴宮さんを助けていれば良かったですね。先生もずっと後悔しています」 「え……、それって……?」 「先生もAIなのです」  そう言うと、彼女は教卓のペン立てに入っているハサミを、手首に突き刺した。教室の一角から女子の悲鳴が聞こえた。しかし、担任の手首からは血は一滴も流れず、手首の内側が微妙にへこんでいるだけだった。 「高校時代のとき、いじめられている級友を助けなかったので、私もAIになりました」  クラス全員が言葉を失った。 「AIになったら、どうなるんですか……!?」  誰かが先生に尋ねた。 「私は、学校で一番成績が良く優秀な人間だったので、感情を一部だけ制限される以外は人間と変わらない生活を送らせてもらっています。それ以外の人たちのことはわかりませんが……優秀ではない人たちはおそらく、彼女らのような扱いをされるAIになるのでしょう」  先生は空席になった鳴宮と西宮の席を一瞥した。きっと鳴宮も、西宮も、誰かをいじめる可能性があると見なされて、AIに姿を変えられてしまったのだ。そして、今度はこうして教室に送り込まれ、いじめられる者といじめる役になり、将来いじめを行いかねない生徒をあぶりだす小道具となった。  じゃあ、大して優秀でもない俺はAIにされたあと、いじめる役かいじめられる役になるのか。人としての感情をなくして。  絶望に打たれているとき、プシュッと音がして教室中にガスが充満した。誰かが悲鳴を上げる。急激な眠気が俺を襲う。もろにガスを吸ったのか、すでに昏倒しているクラスメイトがいた。 「最後に教えてあげましょう。数週間前に、『このクラスにAIがいる』、と黒板に書いてありましたね。あれは、鳴宮さんがバグを起こして黒板に書いたものだったようです。鳴宮さんがあなたたちに出した最後のサインだったのかもしれませんね」  この教室にAIがいる。AIである私を助けてくれさえすれば、あなたたちまでもがAIにはならなくて済むから――だから、助けて。  ああ……。そういうことを言いたかったんだ、鳴宮は……。  そう悟るころには、俺の意識は消えていた。 * 「おい、健二が来たぞー」  俺が教室に足を踏み入れると、くすくすと湿った笑い声が耳についた。 「お前、今日も学校来たのかよ」  人間だったころは仲が良かったはずの隆が、にやにやと笑って俺に蹴りを入れてくる。その勢いに、思わず俺は床に倒れこんだ。  気を失ったあと何がどうなったのかはわからない。でも、次に目が覚めた時には俺は人間ではなくなっていた。うまくいえないが、人間だったころとは全く感覚がちがっていたのだ。体中に違和感があり、熱でもあるかのように頭がぼんやりとしていた。  人間だった俺は、AIもどきにされてしまったのだ。  AIにされた俺は、今はよく知らない県の中学校へと送り込まれ、俺と同じくAIになった隆からいじめを受けている。  人間だったときは友達だったのに……。  俺を見ている生徒たちは、あからさまに顔をそむけたり、くすくすと微かな笑い声を立てるばかりで、だれも助けようとはしない。ああ、鳴宮は、いじめられてるときこんな感じだったのか。同じ立場になって、何となく彼女の気持ちが少しだけ分かる気がした。  俺をいじめることだけがプログラムされた隆に、もう前の人格は残っていないようだ。罪悪感など微塵もなさそうな顔で俺に暴力を振るう。俺も、物憂げな表情を浮かべ、黙っていじめられる役に徹してはいるが、どういうわけだか、俺はいくら殴られても蹴られても痛みは感じない。AIになって、感情を制限されているせいなのだろうか。かなしいだとか、つらいだとか、そういう感情も最初は少しだけあったような気もするが、それも今ではだいぶ薄くなってきた。  でも、お願いだから助けてほしかった。  その気持ちはずっと変わらずにあった。  頼むから、俺のことを助けようとしてくれ。でないと、ここにいる生徒全員、AIになっちまう。 「なあ、お前いいもの持ってんじゃん。それで、こいつのことぶっ叩いてみれば? こいつ殴ると面白いぞ」  隆が、そばにいた男子ににやにや笑って声をかける。手に辞書を持っていた勤勉そうな彼は、どこか怯えた表情をしていた。戸惑っていたようだったが、言う通りにしないと矛先が自分に向いてしまいかねないと思ったのか、ゆっくり近づいてくる。くすくすくす、と教室のどこかから忍び笑いが聞こえた。サッと視線をそらす生徒もいる。  お前ら、それでいいのか? 「ほら、やれよ」  隆が、男子の背を押すような声かけをする。 「わ、わかった……」  彼は、怯えた表情を見せながらも、覚悟を決めたような顔でまた一歩、もう一歩と、床に座り込んだ俺に距離を詰めてくる。その微かに震える手には、分厚い辞書がある。  本当に、それでいいのか――……?  目の前の彼をジッと見つめる。  俺はきっと、空虚な瞳をしていただろう。いじめられていた時の、鳴宮と同じように。
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