祝祭

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 八月に入り、部屋のエアコンが壊れた。業者に問い合わせてみると、繁忙期ということもあり、どうにか二週間後に予約を取り決めることが出来た。残暑前に冷房が直るだけマシだ、と山岡孝正(やまおかこうせい)はこれから二週間の暮らし方を思うだけで憂鬱になった。  それでも、高卒から勤務している、森に囲まれた新珠六蔵文学館での仕事があるから、そう悲観はしなかった。人間の性を追究した新珠六蔵(あらたろくぞう)は大正期に活躍した作家で、館内には自筆の原稿、愛用品、写真などが展示されている。敷地内には文学館の他に、子供向けの施設もあるから仕事の量が多い。年中人手が足りないことから、二十三歳の孝正は何かと重宝されていた。どうにか独りで暮らせているのも、この仕事があるからだ。  孝正は痩せて色の白い、頼りない自身の顔を悩んでいた。孝正が高校生の頃に母親が「お前のお父さんはこの人の話がとにかく好きでね、母さんはイヤらしい作家だって馬鹿にしたの、それを今でも後悔してる」だから私の代わりに新珠六蔵の作品を再評価しろ、と読むのを勧められた。孝正が中学三年の時、父親は「別の好きな女が出来た」と言い残して家を出て行った。そんな父親は百冊近い蔵書を残していった。壁を埋め尽くす本棚から、荒れた手で母親は何冊か取り出す。孝正は最初こそ、自分の妄想で都合の良い女性を書いているのかな、と疑って見る。が、生々しい描写の中にも駄目な男への救いもあった。主人公の感性が自分と似ていたからか、こんな自分でも生きていていいのだ、と救われる言葉の強さがあった。それから孝正の心の拠り所となった新珠六蔵の世界に、こうやって日々携われて感謝しかない。 「さて、どうするかな」  前の住人が置いていったエアコンだから寿命だろう、とワイシャツの胸元を扇ぐ。  ホテルに泊まろうかとも考えたが、貯金を切り崩すのは気が進まない。これからの人生、何があるか分からない。だから、暑いだけで出費を増やすわけにいかない。いっその事、仕事場に泊まり込もうかと思い立つ。それも当然ながら館長から注意を受けた。館長の家には孫の女の子がいるから、孝正を招くのを嫌う。パートのお姉さんの家に転がり込むのも、色々と職務に支障を来す。途方に暮れた孝正は、一通の電話に救われた。  どこからか孝正の危機を耳にしたのだろう、黒川楓(くろかわかえで)が自分の家に泊まりに来なさいと誘う。孝正が恐れ多いと断るも、逆に楓から、 『なぜ最初に俺を頼ってくれなかったんだ』  と、大いに叱られてしまう。楓とは貸し借りのない、ドライな関係を保ちたかったのに、この酷暑を乗り切るには彼を頼るしかなかった。  新珠六蔵の手書き原稿が発見され、昨年の夏に文学館で初公開した。そこに客として訪れた楓が森で迷子になり、ちょうど裏庭を掃除していた孝正が帰り道まで案内した。最後まで楓の肩書きを聞かず、彼と新珠六蔵の話で意気投合した。その勢いで互いの携帯電話の番号を交換した。それでも名刺すら受け取っていないから、楓から会食の誘いを受けて、彼が都内の企業で社長をしていると知った時は驚いた。一年たった今も関係が続いているのが不思議でならない。  それから楓は、月に一度の間隔で来館した。楓は美しい男だ。彫りの深い、切れ長の引き締まった顔をした男で、整いすぎて美しすぎて、あまりに生気のない容姿であった。肩幅もあり、全体的に頑丈な体つきが羨ましかった。楓は三十五歳の独身で、都内の企業で社長をし、母親が西洋の人で父親は日本人だそうだ。灰色の瞳がきれいで、つい見入ってしまう。  孝正はそれぐらいしか、彼を知らない。楓と一緒にいてそれに合う回数を増やすごとに、場違いな店に通され、高級ブランドの服と靴、時計を贈られもした。これは貧しい暮らしをしている孝正を哀れむと言うよりか、どう見ても男としての下心が見え隠れしていた。だから彼に近付いたら、孝正が馬鹿を見るだけだ。 「楓さんの生活を邪魔したくなかったんです」  携帯電話を耳に当てると画面が湿るから、スピーカーにした。  本音を言うと、楓の家に行けば彼からの好意を拒めない。敢えて味見されて『なんだ不味いな、勘違いしてた』そうやって直ぐに捨てられるのが怖かった。 『呆れた』  通話越しに楓のため息が聞こえた。  楓が独り暮らしている自宅から孝正の仕事場までは、電車を乗り継げば通勤できるそうだ。暑さを理由にして、孝正は一つ甘えてみようかと決心した。
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