ヒトごろし

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ヒトごろし

その日、私は人を殺した。 いつもと同じ見慣れたリビング。 目の前には血まみれでぐちゃぐちゃになった男女が二人。痣だらけの私の手には、血の付いたナイフが握られていた。 私は何も悪くない。あいつらが悪いんだ。 殴られて、蹴られて。血が流れたこともある。体中の至る所に青黒い痣がある。首を絞められたときは死を覚悟した。日に日に増えていく痣や傷を隠して学校に行く毎日。学校の先生もクラスメイトも気付いているはずなのに、みんな見て見ぬふりをした。実の母親でさえ私を守ってくれなかった。 だから二人とも殺した。 前々から計画していた。 リビングでくつろいでいる父親をナイフで一刺し。お酒で赤らんでいた顔が、見る見るうちに真っ青になった。口を開けて何か言おうとしていたが、あいつの声なんて聞きたくなかった。だから、ちゃんと死ぬまで何回も刺した。 母親の方は夫が刺されていても悲鳴をあげるだけ。怯えて腰を抜かしていた。こいつはあっけなく死んだ。 「アハハハハッ!アハッ!アハハハハッ!!」 笑いが止まらない。二人の恐怖に歪められた顔は傑作だった。今は最高の気分だ。これで私は自由になれる。 その時、急にドアを叩く音が聞こえた。驚いて玄関の方を振り向く。 『大丈夫ですか!?悲鳴が聞こえて…ドアを開けてください!!』 隣の家の人だ。母親の悲鳴がうるさかったせいだろう。笑いが込み上げてくる。私の悲鳴は聞こえないふりをしていたくせに。こいつの悲鳴だと助けに来るんだ。 あいつも殺してしまおうかと思った。でも、今捕まる訳にはいかない。私の人生を変えられるチャンスなんだ。 持っていたナイフを投げ捨てて窓から逃げる。外は真っ暗で、雨が降っていた。 街ですれ違う人々はギョッしたような目で私を見てきた。警察を呼んだほうがいいんじゃない?というような会話も聞こえてきた。それもそうだろう。血まみれの少女が一人、裸足で傘もささずに走っているのだから。 しかし、偽善者たちが今更何を言っているのだろうか。反吐が出る。虫酸が走る。私はお前らに関わらない。だからお前らも私の邪魔をしないでくれ。 行くあてもなくひたすら走っていたが、ふと、ある場所が思いついた。小さい頃、あの二人といった橋。大きな川にかかっていて、夜景がとても綺麗だった。新しい人生のスタートを切るのだから、特別な場所がいい。 雨が降っているからか、橋には誰もいなかった。遅い時間ということもあり、車もまったく通っていない。人を殺した後だというのに最高の気分だ。体を流れる冷たい雨が、驚くほど心地良い。 「アハハハハッ!アハハッ…あは……」 私は自由だ。私を殺そうとした、守ってくれなかった親はいない。もう、死に怯えながら生きてきた毎日を過ごさなくていい。一人ぼっちで孤独な人生を歩まなくていいんだ。 なのに、どうして涙が出てくるのだろう。私を縛るものは何もない。ようやく幸せになれるのに。 苦しい。辛い。胸が痛い。喉の奥がぐっとなって嗚咽が漏れる。涙が溢れ出す。 「お父さんっ……お母さんっ………!!  あああぁぁぁぁぁぁぁ!!!    」 二人との思い出が蘇ってくる。 お父さんとたくさん遊んで、お母さんの美味しいご飯を食べて、三人で一緒にお出かけして。悩んでいることがあれば相談に乗ってくれてギュッと抱きしめてくれた。怖い思いをしたときは私が安心できるようにくっついて寝てくれた。私は二人の笑顔が大好きだった。何気ない日常でも幸せだった。ずっとこんな日が続きますようにと何度も願った。 でもその願いは届かなかった。足りなかった。どうしてこうなってしまったのだろう。どこで間違えたのだろうか。 あぁ、もっと雨が降ってくれたら。この血も、痣も、心の痛みも、何もかも洗い流してくれたらいいのに。これまでの時間を流してもう一度、あの頃に戻れたらいいのに。 パトカーのサイレンが後ろで鳴り響いている。 橋の手すりに手をかけてその上に乗る。 私は今からもう一度だけ、ヒトごろしをする。
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